79☆妹なんですけど
初めてお邪魔したヒカルの自宅は、どこか懐かしさがあった。
メロナドームまでは車で10分という利便性を考えて選んだのだろう。決して派手でも華やかでもないマンションだが、そんなところがヒカルらしいな、とるなは感じていた。
「真鈴? 少しでも食べないと、明日お婆ちゃん迎えに行けないよ? それとも、食べられそうなものがあればコンビニ行ってこようか?」
ダイニング。手つかずの真鈴を、ヒカルが心配そうに覗き込んだ。遠慮がちにハンバーガーをかじるるなの隣で、真鈴は首を横に振っている。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。真鈴が食べなかったら、私がお父さんに怒られちゃう」
「……」
「……ふぅ……じゃあ、これはるなにあげちゃうね?」
真鈴の前のハンバーガーとポテトをるなの前に滑らし、ヒカルはキッチンからプロテインバーとインスタントのスープを持ってきた。
「ノルマ。せめてこれだけでも食べて?」
「……うん」
返事は素直な真鈴だが、やはり目はどこか虚ろで、心ここにあらず。2人分の食事をぺろりと平らげたるながちらりと見ると、バーはまだ2センチほどしか減っていなかった。
バーを握らせてから30分が過ぎても、まだ半分も減らず。これ以上無理に食べさせても……と思ったのか、ヒカルはひょいとバーを取り上げた。
「お風呂湧いたみたいだから、スープだけ飲んじゃって? 久しぶりに、私と入ろうね」
「えっ!」
思わず声が出たのはるなである。いそいそとバスタオルやら着替えやらを抱えて準備し出したヒカルが振り返った。
「え? るなも入りたい?」
「い、いやいや、そういうことではなくてですね……」
長いことスポーツをやっていれば、女同士の裸の付き合いなど日常茶飯事だ。ある程度タオルで隠したりはするし、珍しくも恥ずかしくもなんともない。
だが、自宅で、しかも第三者のいる前で堂々と……。
「姉妹だもん。昔は練習とか遊びのあと、よく洗ってあげてたよ。ね?」
にっこり笑うヒカルが真鈴を立ち上がらせ、「寛いでて?」とるなに手を振る。唖然とするるなを残し、異母姉妹はバスルームへ消えて行った。
姉も妹もいないるなには、その概念はなかった。小さい頃は、るなは母と、兄は父と入浴していた。「へーぇ……」と気の抜けた声が漏れた。
いや、それにしても、いくら姉妹だからって大の大人が2人で……。
「でも、やっぱいいなぁ……。お姉ちゃん……」
ダイニングチェアにもたれると、スマホが短く鳴った。手に取る。通知が1件。監督からのメッセージだった。
『真鈴の様子はどうだ? 神月監督は4日間慶弔休暇すると公式発表が出た』
るなは指を止め、しばし言葉を選ぶ。ヒカルが真鈴の義姉というのは、公にはされていない。神月渉となぜ連絡を取れたのかなど、ツッコまれてしまうと面倒ごとが増えてしまうが……。
『お疲れ様です。お婆様が亡くなりました。だいぶショックを受けているようです。明日、神月監督と合流する予定ですので、また報告します』
送信。シャットアウトするような言い方だが、今は仕方ない……。
バスルームから、シャワー音とヒカルの声が響いてきた。何を話しているかまでは分からないが、一方的にヒカルが話しているようだ。交流戦はまだ半分も終わっていない。代わりのいる自分はさておき、ヒカルは明後日のナイターには戻らなければならないだろう……。
ふと、リビングの奥の写真立てが目に入った。ヒカルの母の写真が飾られていた。るなは立ち上がり、挨拶に向かう。
「お久しぶりです……。またお世話になっちゃってます。先輩は相変わらず、優しくて頼もしいお姉さんですよ……」
目を瞑り、手を合わせる。ヒカルそっくりな笑顔が、『みんな仲良くね?』と言っているようだった。
挨拶を済ませ、改めてリビングを見渡してみた。ヒカルらしく、整理整頓が徹底されている。ソファの向かいにはテレビ。その隣のラックには野球関連雑誌に紛れ、アクアマリン時代に発売された神月真鈴写真集とブルーレイが陳列していた。
「もし私の写真集が発売しても、うちのお兄ちゃんなら絶対買わないだろうなー……」
……いや、へそ曲がりな兄のことだ。るにゃキャット扇子も、わざわざオンラインで発売日に買った兄のことだ。なんだかんだ買いそうな気もする。『このショットはちょっとだけ背が高く見えるぞ?』だの『もうちょっと笑顔の練習しとけ』だのとからかってくるに違いない。
ぷっ、と吹き出してしまった。美しい姉妹愛を感じている最中に、思い出してしまうのはどうしても兄の意地悪な笑顔……。
古い野球雑誌を手に取ってみた。特集の中に、『マウンドのプリンス・神月渉に密着!』という見出しがあった。ページをめくってみる。日本でプレイしていた現役時代の渉の姿があった。
若い。そしてイケメンすぎる。硬派なアイドルか俳優のような容姿。それに成績もかなり残している。こりゃ、当時の女性たちが夢中になるのも頷けるな……と時間も忘れ、読みふけってしまった。
「るなー? 手伝ってーぇ」
びくっと肩が跳ねた。バスルームからヒカルが呼んでいる。「は、はーぁい!」と返事をし、雑誌を丁寧に戻した。
脱衣所を覗くと、濡れ髪のままの姉妹が立っていた。着せ替え人形のようにTシャツを着せられている真鈴と、バスタオルを巻いただけの姿のヒカル。
「髪、乾かしてやってくれる?」
「あ……了解です」
ドライヤーとタオルを差し出されたるなはそれを受け取り、ヒカルと同じ香りになった真鈴の手を引いた。身長差がありすぎるので、ソファに座らせ、自分は背もたれの後ろに回る。
わしゃわしゃとタオルドライをすると、薄茶色の髪から弾けた水滴が顔に当たった。襟足は少し長いが、ショートヘアなのですぐに乾きそうだ。
「真鈴、監督には連絡しといたよ? お父さんは慶弔休暇取るみたい」
「……そう、ですか……」
ぽつりと呟く。されるがままの真鈴の表情は見えないが、明後日の先発を回避するかどうかの葛藤もあるだろう。るなは手櫛で梳きながら、丁寧にドライヤーをかけてやる。
髪が乾ききるのとほぼ同時に、パジャマ姿の黒髪をタオルで巻いたヒカルが出てきた。「あれ?」と真鈴の顔を覗き込んでいる。
「……もしかして、寝ちゃった?」
ヒカルに言われ、るなも覗き込んだ。長い睫毛を伏せ、規則的な寝息を立てていた。
「まりーん? こんなとこで寝たら風邪ひいちゃうよ?」
「しー。大丈夫。ちょっと手伝ってくれる?」
人差し指を唇に当てたヒカルが、ソファの横のレバーをイジりだした。背もたれが徐々にフラットになっていく。なるほど、ソファベッドだったようだ。
完全にフラットになったのを確認し、るなはヒカルの指示の元、真鈴をベッド中央までずりずりと引き上げる。感情の糸が切れた真鈴の寝顔をしばらく眺めていると、ヒカルが手招きをしてきた。
タオルケットをかけてやり、ヒカルの後を追う。ドライヤーと交換で、バスタオルと着替えを渡された。
「お疲れ。るなもゆっくり入って?」
「ありがとうございます。先に休んでてください。ヒカル先輩も疲れてるでしょうから」
「ふふっ、ありがと。ちゃんと待ってるよ。もう1人の妹を寝かしつけるまでね」
からかうように笑い、ヒカルはドレッサーで髪を乾かしだした。
何もできていないのに、自分も疲れている気がする。早く寝たいし、なによりヒカルを待たせたくない。湯船には浸からずシャワーだけ借りることにした。
さっさと身体と髪を洗い、用意してくれた着替えに袖を通す。懐かしいヒカルの香りだ。何とも言えない安心感がある。
タオルドライし、脱衣所の扉を開ける。ダイニングチェアでタブレットを操作していたヒカルが顔を上げた。
「早いね。ゆっくり入ってって言ったのに」
「いつもシャワーですもん。……あ、先輩それって……」
「あ……。だーめ、企業秘密っ」
言って、ヒカルはタブレットを閉じた。文字や数字は見えなかったが、ホワイトパンサーズの選手のバッティングシーンがスロー再生されていた。
明後日の対戦相手の分析だろう。こんな日でも欠かさないとは、さすがデータと頭脳のキャッチャーだ。
「……やっぱり、先輩は明日帰っちゃうんですか?」
「……うん。私は休めないからね……。代わりはいるけど、『義理の妹の祖母の葬儀で』とは言えないでしょ……」
前妻との娘でありながら、実際ヒカルはほぼ隠し子状態になっている。ここまで尽くしても、決して表には『神月真鈴の義姉』と明かされない。
その複雑な気持ちは、ヒカルほどの強さがなければ押しつぶされてしまうだろう……。
「心細いなぁ……。今日だって私、先輩がいてくれなかったら北島から出ることすらできなかったですもん。来たところで、英語もできないし……」
「またそれ言う? 私が真鈴を任せられるのは、るなだけ。るなにできないことが私はできるかもしれないけど、私にはできないことがるなにはできる。手のかかる妹だけど、よろしくね?」
優しく微笑むと、手招きをして隣のダイニングチェアを引いた。るなが恐縮しながら腰を下ろすと、ヒカルはドレッサーから持ってきていたドライヤーをプラグに差し込み、るなの背後に回る。
「あ、自分でやりますよ。先輩、疲れてるんだし……」
「いいのいいの。真鈴の髪乾かしてもらっちゃったし、お返し。ほら、動かない」
スイッチが入ると、温風とともに心地よいヒカルの香りがふわっと広がった。しなやかな指で丁寧に梳かされていく。身体ごと包み込むような温もり。その心地よさに思わず目を閉じた。
濡れた毛束が、さらさらのおかっぱに戻っていく。スイッチを切ると、ヒカルは「よし」と満足げに微笑んだ。
ドライヤーの騒音で寝が浅くなったのか、リビングで横になっている真鈴がもぞもぞと動いた。息を殺し、2人は見守る。長い手足を畳んで寝返りをうつと、真鈴はまたすぐにおとなしくなった。
「……あの子ね、心がしんどくなると、すぐお熱が出ちゃう子だったの……。口では強がってても、体調に現れちゃう分かりやすい子だったな……」
真鈴の寝顔を愛おしそうに見つめ、目を細めるヒカル。少女時代の寝顔と重ねているのだろうか。
「るな、今日は私が真鈴と寝てもいい?」
「えっ? も、もちろんです!」
「ふふっ、るなはシスコンで意地悪なお兄さんしかいないから、一緒にお風呂入ったり寝たりしなかったんだろうね。……まぁ、写真集とか買っちゃう私もシスコンなんだろうけど」
「うちのお兄ちゃんはシスコンじゃないです! でも、真鈴は充分シスコンですよ? いつもは意地張ってるけど、今日の真鈴は素直にお姉ちゃんの言うこと聞いてるし。こっちが真鈴の正体だと思います」
「あはっ、正体かぁ……。朝起きて『なんでヒカルが隣で寝てんの!』って突き飛ばされないといいなぁ」
言って、ヒカルはソファベッドへ向かう。乱れたタオルケットをかけ直してやり、額にかかった前髪をそっと払ってやった。
姉と公表できなくとも、その眼差しは姉以外の何者でもない。強い。そして、どこまでも優しい。プロ野球選手としても、ひとりの女性としても……。
「さて、私たちも寝ますか。るなは寝室使って? 独りで寝れる?」
「ヒカル先輩に添い寝してほしいとこですけど、次回の楽しみにしておきます」
「ふふっ、そうだね。じゃあ、おやすみ」
くすりと笑いながら、ヒカルはリビングの照明を薄暗い間接照明へと切り替えた。ソファベッドへそっと潜り込むと、もう一度「おやすみ」と小さく手を振った。
薄闇の中、身を寄せ合うようにして眠る二人の異母姉妹……。血の繋がりや世間の公表など関係ない、確かな『家族』の形がそこにはあった。
るなもベッドに入り、ゆっくりと目を閉じる。遠く離れたへそ曲がりな兄の顔を思い浮かべながら、自分もまた、たくさんの優しさに守られているのだと実感していた。




