78☆何もできないんですけど
ナースたちが処置室の扉を閉めると、再び静寂が廊下を包み込んだ。扉の向こうから聞こえる真鈴の泣き声も、厚い扉に阻まれてくぐもった遠い音へと変わる。
るなは冷たくなった自分の手を見つめた。マメだらけの小さな手を。グラウンドの上なら、どんな強打者の打球だって正面で受け止められる。どんなに厳しい打席でも、チームのためにバットを振ることができる。
だが、この白い廊下の上では、自分はただの『言葉も通じない役立たず』でしかない……。
代わりはいる……。野球でも、そして今この瞬間でも……。
ヒカルのように車を運転できるわけでもなく、英語で状況を理解できるわけでもない。真鈴の痛みに寄り添いたいのに、何もできない自分が情けない。悔しくて堪らない。
胸の奥がギュッと締め付けられ、必死にこらえていた涙がぽろぽろと膝の上にこぼれ落ちた。
「……るな?」
顔を上げると、書類を手にしたヒカルが立っていた。ヒカルは一瞬目を見張ると、すぐに隣に腰を下ろし、優しくるなの肩を抱き寄せた。
「ごめんね、独りにして……。大丈夫、大丈夫だから……」
「ヒカル先輩……。私、何もできなくてごめんなさい……。英語も分からなくて、来たって何も役に立たない……」
声を震わせ吐き出すと、ヒカルは温かい手でるなの背をゆっくりとなでてくれた。
「そんなことないよ、るな」
ヒカルは静かに、芯のある声で囁いた。
「るなが一緒に来てくれたから、真鈴はここまで来られたんだよ? 私だけだったら、真鈴はパニックになったまま車を飛び出していたかもしれない」
ヒカルが左肩の袖をめくった。真鈴の食い込んだ爪の跡が、くっきりと残っている。自分の赤くなった肩を摩り、眉尻を垂らしながら微笑んだ。
「真鈴にとって、私は姉でしかないの。姉の役目を、私にはする義務がある。でも、姉にはできないことが、るなにはできるでしょう? 」
「……私にできること……」
「だから、泣かないで。真鈴が出てきたとき、るなが泣いてたら、あの子が甘えられなくなっちゃうじゃない?」
「ヒカル先輩……」
そう言われると、逆に込み上げてくるものがある。るなはそれを堪え、鼻をすすりながら目元を拭った。ガチャリ、と重い処置室の扉が開く音がした。
2人が立ち上がると、ナースたちがガラガラとベッドを押しながら出てきた。その上に横たわる人の顔には、白い布がふわりと被せられていた。
ベッドが廊下の角を曲がり、るなが処置室に視線を戻すと、ふらふらと歩いてくる人影が見えた。カリスマのオーラや輝きもないけれど、それは紛れもなく真鈴だった。
「……真鈴」
るなが呼ぶと、真鈴はゆっくりと顔を上げた。真っ赤に腫れ上がった目がるなを捕らえる。
「るなさん……」
確かにそう言った気がした。だが、泣き叫び続けた真鈴の声はかさかさで、今にも消えてしまいそうだった。
ヒカルの手が、そっとるなの背を押した。駆け寄り、真鈴を抱きしめる。すると真鈴は、そのままるなの首筋に顔を埋めた。力強いエースの腕が、今はまるで迷子の子どものように、るなの背中をきつく抱きしめてくる。
「……グランマ、もう冷たかった……。あたし、何も言えなかった……」
るなはしっかりと踏ん張り、真鈴の心も身体も受け止めた。身体を丸め、声を上げて泣き出す真鈴の背を両手で強く包み込むように抱きしめ返す。
「うん……うん。でもお婆ちゃん、真鈴が来てくれたの嬉しかったと思うよ……? たった1人の、自慢の孫だもん……。冷たくても、真鈴の温もりはきっと伝わったと思う……」
言って、るなはまた母の最後の日のことを思い出した。
まだ汗臭いユニフォーム姿のまま駆けつけた兄。エンゼルケアを施すので、と別室に運ばれる母にすがり、離れようとしなかった。後悔ばかりを口にし、泣きじゃくる兄を抱きしめたのはるなだった。
『お母さん、お兄ちゃんが来てくれたの嬉しそうだったよ……。さっきまで、一緒に試合見てたんだ……。自慢の息子なの、って……。だから、お兄ちゃんが来るまで待っててくれたんだよ……?』
あの時、『試合なんか出なきゃよかったっ! もっとそばにいたかった!』と悔やむ兄の悲しみを、全部自分が吸い取ってあげられたら……と抱きしめ続けていたんだった。
今は傷ついたエースの全てを受け止めたい……。
英語なんて分からなくても、車が運転できなくても、今、真鈴が求めている温もりは、この強く回された腕が示している。
背後で、足音が遠ざかるのが聞こえた。ヒカルが席を外したのだろう。るなはそっと身を離し、真鈴を長椅子へと促した。先程、ヒカルがそうしてくれたように。
田園の中にぽつんと佇む病院は、驚くほど静かだった。都会の病院のような、救急車のサイレンすらも聞こえない。項垂れてすすり泣く真鈴の嗚咽だけが響いている。
「真鈴」
ヒカルが戻ってきた。俯いたままの真鈴に、ヒカルはしゃがんで覗き込む。
「あのね、お母さん、命に別状はないって。肋骨と足を骨折しちゃったけど、意識はハッキリしてるみたい」
言いながら、止めどなく流れる義妹の涙をタオルハンカチで拭うヒカル。渉に連絡をしていたらしい。「自分でかみな?」と、ポケットティッシュを握らせた。
力なく受け取った真鈴が、少女のようにしゃくりあげる。
「……ママ……ほんと……?」
「うん。明日にはお父さんも来るから、こっちで待機しててって。今日は三姉妹揃って、私の家で寝よう? 遠征の最中で冷蔵庫の中は空っぽだから、途中何か買って。ねっ? るな」
そう微笑むヒカルの顔には、明らかな疲労がみえる。
当然だ。1打席で試合を抜けてきた自分とは違い、ヒカルはデーゲームでフル出場してきた。あげく4時間も運転し、今にも消えてしまいそうな妹と頼りない後輩の面倒まで……。
夕飯の話になった途端、思い出したようにるなの身体が空腹を告げてきた。場違いにキュルル……と腹が鳴る。
慌てて腹を押さえるが、ヒカルはるなを一瞥し、「ほらね?」と言いながら立ち上がった。
「るながお腹空いたって。真鈴も今日はちゃんとご飯食べて、寝て、明日お父さんと一緒にお婆ちゃん迎えに来よう?」
ヒカルが手を引くと、真鈴はおとなしくゆっくりと立ち上がった。身長差は10センチほどあった姉妹だが、今は真鈴がとても小さく見える。
握っていないと闇に溶けてしまいそうな真鈴の手を、ヒカルが確かな足取りで導く。愛車の後部座席に押し込み、自分は運転席へ滑り込んだ。るなも、助手席側から乗り込む。
ハンバーガーショップでドライブスルーし、車はヒカルの自宅へと向かう。
遠くでライトグリーンに輝くメロナドーム。小さなメロンパンのようだ。リホがおすすめしてくれた、あのメロンパン専門店へ行ったのが、遠い過去のように思えた。




