77☆代わりはいるんですけど
アクアドームの関係者通用口に滑り込んできたのは、真鈴の愛車だった。
試合中の時のような真剣な顔のヒカルが、運転席から「後ろに乗って」と指をさした。
るなが乗り込むと同時に急発進した。助手席の後ろに乗ったるなは、肝を冷やす思いでシートベルトを引っ張る。
「真鈴? お父さんには電話した?」
カチン、とベルトをし、るなは真鈴を覗き込んだ。不安げな瞳が揺れている。顔色が悪い。口を引き結んだまま、るなを見つめ返してきた。
ルームミラー越しに目が合ったヒカルが、代わりに答えた。
「お父さんには私からした。向こうも状況がまだ分からないから、何か分かったらすぐ連絡くれるって。こっちもそうするって言ってある」
こんな時に頼れる義姉と偶然にも一緒だったなんて、不幸中の幸いとしか思えない。日だまりのような優しいヒカルの声が、いつも以上に温かく感じた。
「るなさん、試合は……?」
エンジン音にかき消されそうな、か細い声の真鈴が尋ねてきた。るなは身体ごと向き合い、にこっと口角を上げてみせる。
「心配しないで? 私の代わりはちゃんといるから。ちなみに1打席目はサードゴロ。あのピッチャー、すっごい球が重いから手ぇしびれたよ」
自虐なセリフをおどけて言うが、真鈴は笑うでもなくツッコむでもなく「そうですか……」と目を逸らしてしまった。
「よかったね、真鈴。るなが来てくれて。私よりも甘えやすいもんね」
わざと明るくからかうヒカルにも突っかからず、真鈴は「うん……」と生返事で車窓に顔を向けてしまった。
……ふと、兄の姿が脳裏を過ぎった。るなには兄がいる。どんなに意地悪言われても、からかわれても、いざという時はいつも頼りになる兄が……。
母は最後の日、試合後駆けつけた兄に、『るなを守ってね』と小指を差し出した。もう骨と皮だけだったけれど、兄はそれを、ごつごつした大きな両手で包んだ。兄は大粒の涙を拭うことなく、うんうんと何度も頷いていた。
腹違いでも、真鈴には姉がいる。意気消沈で運転も心配な妹を、病院まで送り届けてくれようとしている心強い姉が。
沈黙が続いた。灯台の光りりが見えてきた。もうすぐハイウェイだ。ヒカルが車内モニターをつけた。ドルフィンズ戦の中継だ。4回裏ですでに7点もリードされている。
そんなチームメイトたちの奮闘も、真鈴の耳には一切入っていないようだ。思いはすでに祖母の元なのか、灯台のその先の空をじっと見つめ続けている。
「ママッ!」
突然、真鈴が叫んだ。シートに深くもたれていた身を起こし、運転席のヒカルの肩を鷲づかみにして乗り出す。
見ると、対向車線からレッカー車が来ていた。ひしゃげた、赤いスポーツカーが乗せられている。あっという間にすれ違うと、真鈴はヒカルの肩をゆさゆさ揺さぶった。
「ママの車だっ! あれはママのっ、ママの……! ヒカル、止めて! あれを追って!」
「真鈴、落ち着いて! あれには乗ってない。もう病院へ運ばれてるから! お父さんが付いてるから大丈夫!」
「イヤだっ! ママが死んじゃう! 早く、早くあれを……!」
「真鈴! 危ないからちゃんと座ってて! お婆ちゃんのところへ行くんでしょう! お父さんが付いてるから大丈夫よ!」
ヒカルは運転しながら説得するが、真鈴は身を乗り出したまま取り乱している。るなは慌ててヒカルの肩から手を剥がそうとする。しかし、制御の効かないエースの指は、優しい義姉の肌に食い込むほどだ。
「真鈴、危ないから放して! ヒカル先輩まで運転ミスったら、私たちまで事故るよ! そしたら、ご両親もお婆ちゃんも心配するでしょう? それでもいいのっ?」
るなが怒鳴ると、真鈴は静かに手を放した。力なくシートにもたれ、俯いて顔を覆ってしまった。
運転席のヒカルが、ふーっと息を吐いた。るなは真鈴の膝にそっと触れる。いつもなら喜んで握り返してくるのに、真鈴はハイウェイを降りるまで、ずっと顔を覆ったままだった。
ハイウェイの出口からほどなくすると、遠くにメロナドームの灯りが見えた。アクアドームを出発してから、3時間が過ぎている。病院までは、あと数十分のはずだ。
「るな」
大敗したドルフィンズの中継を消したヒカルが、赤信号で振り返った。
「今日は戻れないけど、いい?」
愚問だ。いくら方向音痴の自分でも、メロナドーム近くの病院まで行って、当日帰って来れるとは思っていない。るなは「もちろんです」と頷いた。
明日のオフを挟み、明後日にはレッドミネルバ戦が待っている。今にも割れそうなエースの心を支えるのは、自分とヒカルしかいない。
ヒカルもまた、ホッとした表情で頷いた。前に向き直り、青信号で発進する。徐々に田園風景が広がる夜道を急ぐ。
「真鈴、もう着くよ」
見覚えのある白い建物に到着したのは、夜9時を回った頃だった。顔を上げた真鈴は、駐車する間ももどかしいかのようにシートベルトを外す。今にも飛び出しそうなので、るなも慌てて外した。
「待って!」
るなの制止も聞かず、真鈴は駐車と共に院内へ走った。「先に行きます!」とヒカルに告げ、るなも急いで追いかける。
夜間の救急受付も素通りし、真鈴は階段で4階へ駆け上がっていく。窓口の女性が英語で何か叫んだ。静まり返った階段で、2人の足音だけが響く。
絶対に、真鈴を1人にはしない……。その決意が、るなの足を動かす。
4階へ辿り着いた。先に着いたはずの真鈴の姿がない。るなは息を整えながら、唯一扉が開けっぱなしになっている病室へと近付く。
あと数歩、というところで真鈴が飛び出してきた。ぶつかりそうになり、るなは「きゃっ」と間一髪避ける。
「お、お婆ちゃんは?」
「いません……!」
言って、真鈴はまた走り出す。消灯が過ぎたばかりの薄暗い廊下。その先の階段から、ヒカルの姿が現れた。
「下!」
それだけ言うと、ヒカルはUターンしていく。真鈴とるなも続く。足音に何事かと駆けつけたナースが、何か怒鳴った。
ヒカルが足を止めたのは1階。赤いランプが灯る部屋の前。追い越して1人、中へ入っていく真鈴の背を見送り、るなはヒカルと目を合わす。
「……るなは座ってて。私が様子見てくるから」
「でも……」
「るなは説明聞いても、英語分からないでしょう? 大丈夫、すぐ戻ってくる」
ヒカルは「ね?」とるなの手を引き、廊下の長椅子に座らせた。
確かに、中学までセシアナで育ったヒカルとは違い、自分は英語も現地語も分からない。何もできず、力なく待つしかない……。ひんやりした廊下が、るなの空しさを増幅させていく。
何時間も待つことを覚悟していたるなだったが、ヒカルはほどなくして戻ってきた。締まりかけた扉の隙間から、女性の叫び声が響いてくる。るなが立ち上がると、赤い目をしたヒカルがゆっくり首を振った。
胸が締め付けられる思いだった。悲痛な嗚咽が漏れる処置室から、ドクターと数人のナースが出てきた。るなたちの姿を見ると、軽く会釈して去って行った。
「しばらく……2人にさせておこう……? お婆ちゃんに会うの、久しぶりだっただろうから……」
ヒカルに手を引かれ、一緒に座る。心を落ち着かせるためか、運転の疲労か、ヒカルはふーっと深く息を吐いた。
命には抗えない。誰もが欲しがる称号を欲しいままに掴み取ってきたカリスマエースでも、命の灯火を再び灯すことは叶わない……。
沈黙を守っていたヒカルが、「そうだ……」と腰を上げた。
「手続き、してくるね……。もし真鈴が出てきたら、お願い……」
るなの返事も待たず、ヒカルはロビーへと向かった。『お願い』と言われても、自分には何ができるのか……。
遠いような近いような真鈴の嗚咽が響く中、ナースが2人ほど戻ってきた。るなにぺこりと会釈をし、何か言っている。ゆっくりと丁寧に話してくれているのは察せるのだが、るなには1ミリも分からない。
「……あい、あいきゃんとすぴーく……」
るなが首を振ると、ナースたちは困った顔で2人目を合わせた。るなに話しても仕方ない、と思ったのか、ナースたちは処置室へ入って行った。
るなは情けなさで涙が込み上げてきた。英語さえ話せれば、自分にも何かできたかもしれない。なのに、自分は運転もできなければ、説明を聞くのも書類手続きもできない……。
ヒカルがいてくれて本当によかったと思う反面、また『自分の代わりはいる』という言葉が蘇ってくる……。




