74☆見守ってるんですけど
重厚な扉で仕切られたビジター側のロッカールームは、王者アクアマリンの本拠地に相応しく、まるでサロンのような贅を極めた設備が整っている。
セシアナ最古の劣悪な球場の直後というのもあり、手入れの行き届いた施設にチームメイトたちはホッとしていた。
だが、ホームスタジアムとして見慣れた神月真鈴にとって、そのラクジュアリーなそれらは、ただの背景でしかない。
うっすらと地鳴りのように声援が聞こえる以外は静寂に包まれている空間で真鈴は独り、今は挑戦者のドルフィンズの1人として、腕を組みながらモニターを見上げている。
懐かしさも忘れ、真鈴はただ壁面に埋め込まれた大型ハイビジョンモニターの中のるなをジッと目で追っていた。
画面に映し出されているのは1回表、ドルフィンズの攻撃。
昨日も2本のツーベースで好調のるなは打順を上げ、1番ショートでスタメン。るにゃキャットタオルがレフトスタンドでひらめく中、悠然とバッターボックスへ向かう。
そして、そんなるなにマウンド上から鋭い眼光を向けているのは、王者アクアマリンの先発・荒崎イズミ……。
「るなさん、頑張れ……!」
真鈴は呟くと、願うようにキュッと唇を引き結んだ。
大丈夫、彼女は負けない。必ず勝つ……。そう信じてはいるものの、鼓動がうるさい。自分のことにはあまり緊張などしない真鈴だが、気付けば掌がしっとりと湿っていた。
プレイボールがかかり、攻撃開始の応援歌が流れ出す。るながゆっくりバットを構えた。イズミにも劣らない鋭い眼差しがかっこいい……。
思えば、自分以外にかっこいい選手などいないと思っていた。るなに出会うまでは。あの小さな身体に、自分にはない野球センスが全て詰め込まれている。
小柄のハンデをカバーするジャンプ力と瞬発力。多少バランスを崩しても正確に投じられる送球。コンパクトでミート力の高いバッティング……。
なにより、ピッチャーである自分は『両投げ』がどれだけ難しいかをよく知っている。そのうえ、器用に多彩な球種を操れるのだから……。
「やっぱり、もったいないですよ……」
本人の前では決して言えない。だが、ピッチャーを捨てて野手として生まれ変わることを選んだからこそセシアナで出会えた。それを思えば複雑な気分だ。
一方のイズミは元チームメイト。えげつないインコースばかりを突いてくる強気なピッチングが武器だ。絶妙に身体のすぐ近くを攻めてくるので、避けるのが下手な選手はデッドボールを食らってしまう……。
イズミがプレートに足をかけた。何か一言呟いたように見えた。モニター越しでも、るなへの憎悪が伝わってくる。
「危なっ!」
1球目。顔面のすれすれを行くストレート。見ているこちらがヒヤリと肝を冷やしたが、当のるなは少し首を反らしただけで、身体はびくとも動かなかった。
挨拶代わりの速球だ。これを食らうと、大抵の選手は怯んでしまう。それを顔色一つ変えずに構えるなど、やはりイズミとの対戦に慣れているのが一目瞭然だ。
「さっすがぁ」
ヒュウと口を鳴らす。1ボールナッシング。
2球目。胸元をえぐるスライダー。るなは見送った。ぎりぎりフレームインし、1ボール1ストライク。
るなの顔がアップで映った。畏れるでも怯むでもない、いつものるなだ。真っ直ぐにイズミを見抜き、投じられる指先だけに集中している。
逆に、イズミが顔を蹙めた。すぐに表情に出る。るなの表情に何を求めているのか、『おもしろくない』といったところだろう。
3球目。もう一度胸元に向かうインコース。それをるなはコンパクトに叩き、イズミの頭上を越えるセンター前ヒットにした。
「よっし! まずは1本」
真鈴は思わずガッツポーズをした。一塁上で、ふぅっと息を吐くるな。次の打者がバッターボックスに向かっているというのに、イズミはヘルメットを被り直するなを苦々しく睨み付けている。
だが、後続がイズミのいやらしいインコースの前に倒れ、ドルフィンズは一者残塁。その裏に先頭打者ホームランを浴び、あっけなく先制点を許した。
一塁側のベンチの様子が映った。アクアマリン監督である父が、ベンチで腕を組んで立っていた。今の自分と同じ格好だ。チェンジを迎え、グラウンドに走ろうとするイズミの肩を掴んだ。
父の隣にピッチングコーチも来た。イズミが前のめりで首を振っている。なにやらもめているようだ。三回の表、この回にはるなの2打席目が回ってくる。
厳格な父のことだ。イズミが感情を高ぶらせ、コントロールが甘くなっていることを指摘したのだろう。宥めようと間に入ったコーチの制止を振り切り、グラウンドへ飛び出して行った。
イズミのインコース裁きは一級品だ。どの球種でも、針の穴に糸を通すかのようなピッチングで攻めてくる。
だが、それは平静時だけなのだ。正確なコントロールも、感情を乱すと一気にボールに現れる。
元チームメイトだから分かる。それが、イズミが成長できないウイークポイントだ。
「るなさん、気を付けて……」
モニターの中、ネクストバッターボックスで素振りをするるなに届くことはない。真鈴の不安が的中するかのように、9番打者が腰にデッドボールを受け、ノーアウト一塁でるなに回ってきた。
イズミがロジンバッグを叩きつけた。噛みつくような闘争心が伝わってくる。るなは涼しい顔でバッターボックスに入った。
2打席目。初球はるなの背を越える大暴投。ランナーはすかさず二塁を陥れた。
2球目。今度は頭を越えそうになったのを、キャッチャーが伸び上がって制した。ツーボールナッシング。
再び、ベンチの父の姿が映った。険しい顔でコーチに指示を出している。マウンドへ向かおうとベンチから出てきたコーチに気付いていないのかわざとなのか、イズミはすぐに投球モーションに入った。
フォアボールでは勝負にならない。イズミのプライドがストライクを狙う。感情に任せたボールは、低めの真ん中に入る。るなはそれを見逃さず、脇を閉めてすくい上げた。
「行った!」
真鈴はガッツポーズを作る。打球はレフト線へ。ランナーは三塁を駆け、ホームでクロスプレイ。タッチをかいくぐり生還している隙に、るなは三塁まで到達。タイムリースリーベースとなった。
その後、荒ぶるイズミは4失点。三回途中で降板になった。ベンチにグラブを叩きつける元チームメイトの姿を、真鈴は悲しい思いで見つめていた。
……自分も、一歩間違えていればああなっていたかもしれない……。
いや、そういう時代もあった。ヒカルへの憎しみだけで一心不乱に投げ続け、誰にも心を開かなかった頃が……。
憎らしいほどに愛おしい。その気持ちは痛いほど分かる。だが、自分を見失うほどの歪んだ憧れは、どこへ辿り着くのだろう……。
真鈴はモニターを消し、誰もいないロッカールームを後にした。早足で、地下駐車場を目指す。
※
ビジター選手用駐車場。真鈴は4回からの試合を、愛車のテレビで観戦していた。勢いづいたドルフィンズは、王者アクアマリン相手に、8回まで6対3でリードしている。
「やればできるじゃないですか」
華麗にジャンピングスローを披露する小さなるな。アクアマリンが誇る中継ぎの前に、三打席目はサードゴロに終わっていた。それでも、るなの表情もプレイも生き生きとしている。
「今日のご褒美はジェラートにでもしますかねぇ」
9回の表に入った。そろそろかな……と車窓の外に視線を向けると、鬼の形相で近寄ってくるイズミの姿がサイドミラーに映った。
「やっぱりね。来ると思った」
真鈴は運転席のウインドーを下げ、充血した赤目で睨んでくるイズミに声をかけた。イズミは真っ直ぐに助手席へ回る。「開けて」と低く言うので、ロックを解除してやった。
「残念だったね。あたしが乗ってなかったら、車体に傷付けてたかパンクさせてたかしたでしょ?」
「……そんなしょうもないことしないわよ」
「ほんと? 釘でも持って来たんじゃなくて?」
「……馬鹿じゃないの? カリスマさんは脳天気で羨ましいわね」
「……あたしがそっちいた時は、イズミってそんなこと言う人じゃなかったよね? それとも、それが本性?」
「どっちだっていいでしょ。あんたこそ、そろそろるなに本性出したらどうなの?」
「本性? あたしの本性って?」
イズミはポケットからスマホを取り出すと、真鈴の眼前に突き出してきた。
ディスプレイにはメール作成画面。本文はびっしりと文字で埋め尽くされており、宛名には日本の有名な新聞社の社名が記されていた。
そして、タイトルには『神月真鈴のプライベートにつきまして』とあった……。
「知ってる? るなのお兄さん、記者と結婚したの。一昨日るなを待ってる間、真鈴のプライベートについて色々聞かれたわ。私とるなの記事なんかよりも、カリスマのスキャンダルのほうが売れるんだから当たり前よね?」
本文には箇条書きで、年と月、そして真鈴が以前関係を持ったことのある選手の名がずらりと並べてあった。
「知ってる限りを書き出してみたの。それだけでもこんなにいるのね。この黒い丸が付いている子は辞めた選手。どれだけの涙を流させたのか、あんたって本当に罪深い人よねぇ」
真鈴は本文中に連なった、身に覚えのある名前の羅列に目を見開く。『その顔、待ってました』と言わんばかりに口角を上げるイズミが覗き込んできた。
切れ長の瞳を鋭く細め、真鈴は冷ややかに問う。
「記事にしてもらおうってわけね。……で? 脅迫の条件は何?」
「この送信ボタンを押すだけで、あなたのその綺麗な仮面は剥がれ落ちる。カリスマ投手の華々しい経歴も、ファンからの絶大な人気もね」
イズミの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。充血した瞳の奥には、執着と激昂が渦巻いていた。




