73☆切り替えられたんですけど
「……んー……」
眩しさに目を細めながら、るなはゆっくりと意識を浮上させる。室内が明るい。照明が点けっぱなしだ。
どうして点けたまま寝てしまったのか? るなはしぱしぱと瞬きをする。思い出せない。まぁいいか……。うーん、と伸びをした。
途端、拳にゴンッと何かが当たった。
「……った!」
「……えっ?」
伸ばした腕の先、拳がゴンしたほうに顔を向ける。
そこには、整った顔を苦痛に歪ませ、片手で鼻を押さえる真鈴の顔があった。なぜ隣で寝ているのか。るなは思わず跳ね起き、まだ回転しきらない頭を抱える。
「え、え、えっ? えっ、な、なんで真鈴がいるのっ! どうやって侵入したのよー」
「……ヒドいことしておきながら、ヒドいこと言いますねぇ……」
寝転がったまま、恨めしそうに睨み上げてくる真鈴。欧米人の血が入った高い鼻を摩り、「鼻ぺちゃになったら、責任取ってくださいよ?」とぶつぶつ言っている。
やっと思考が追いついてきた。昨夜、『今日だけ泊まって』と口走った記憶が怒涛の勢いで蘇り、るなの顔が一気に紅潮する。
「……思い出したみたいですね。はい、謝罪ください」
「え、えーっとぉ……ごめーん」
あざとくぺろっと舌を出す。それを見て一瞬口元を緩ませた真鈴だったが、「ふーんだ」と子供のようにいじけて唇を尖らせた。
「昨日は『行かないで』とか『今日だけ泊まって』とかかわいいこと言っておきながら、その御礼がこれだもんなぁ……。ツンデレにもほどがありますよ」
「だから謝ってるでしょー? はいはい、ありがと。おかげで元気になりましたー」
「うわぁ、ボー読みぃ。るなさんサイテー」
「じゃあサイテーな人のベッドでいつまでも寝てないで、起きて荷物整理しに帰りなさいよ。もう8時よ?」
「イヤです。せっかくのるなさんのお布団、もう少し匂い嗅いでからじゃないともったいないですもん」
言って、真鈴はごろんとうつ伏せる。身体が大きく上下しているところを見ると、本当にシーツの匂いを嗅いでいると思われる。
「へ、変態! やめてよー。トウコさんに言いつけるからねーっ」
「その変態に泊まってくれと抱きついてきたコアラさんはどなたですか? トウコさんに事実を告げたら、恥ずかしいのはるなさんのほうでしょ。セルフハニートラップみたいなの、やめてくださいよ」
「とま……泊まってとは言ったけど、そういうキモいことするのはナシー! 日頃の行いで不利なのはそっちなんだからねー」
Tシャツを引っ張り、どうにか起こそうとするが、体格差と本気度は真鈴が大きく上回っている。まるで子供がマグロを釣り上げているようだ。力尽くでは敵わないと気付いたるなは、無防備な脇腹をこちょこちょとくすぐり始めた。
「ちょちょちょっ! あははははは! るなさん、やめ……あはははは!」
「やめなーい。起きる? 嗅がない?」
「あははははっ! お、起きます起きます! 嗅ぎませんからーぁ!」
真鈴が上半身を起こしたので、るなもようやく止めてやった。お互いベッド上で「ふー」と息をつく。
途端、ドアチャイムが鳴り響いた。同時にビクッと肩が跳ねる。
「だ、誰ですか? こんな朝早くに」
「し、しーっ! 絶対出てこないでよ?」
言いながらバサッと布団を掛け、るなは咳払いした後「はぁい」と扉に問いかける。
「るな、起きてる? 具合はどう?」
トウコの声だった。るなはあわあわと真鈴の痕跡を探す。『SUKIYAKIYA』の紙袋は一応畳んでベッドサイドに放り投げる。
急かすようにコンコンとノックをしてくるので、「今開けまーす」と叫びながら扉に急いだ。
「お、おはようございます。トウコさん……」
「おはよう。具合はどう? 体調心配だったから様子見に来たんだけど……目、ずいぶん腫れてるじゃない! ちょっと顔も赤いし、もしかして熱ある?」
頭ひとつ分だけしか開いていない扉の隙間から、心配そうなトウコの手が伸びてきた。るなはすかさず「い、いえっ、大丈夫です」と仰け反る。
「ちょっ、ちょっと急いで支度してたもので……。お陰様で元気になりました! ご心配おかけしました!」
「そう? 元気になったのならいいんだけど。10時には出発するから、遅れないようにバス集合ね」
「はい! 了解です」
るなはありったけの作り笑顔を向ける。安心したトウコは「じゃあね」とエレベーターホールへ消えた。角を曲がったトウコの姿が見えなくなると、るなは大きなため息を吐いて扉を閉めた。
なんだか朝から疲れたなぁ……と脱力しながらベッドへ視線を向ける。巨大な繭のような固まりがもぞりと動いた。
「帰りました? トウコさん」
「帰った。さっ、真鈴も帰って支度しなさいよ。私は朝ご飯行くから」
「アクアマリン戦は登板ないし、自宅が近いからってホテル取ってもらえなかったんです。あたしはマイカーなので、ゆっくり朝ご飯食べて、ゆっくり行きますよ」
「私がゆっくりしてられないのー。ほらっ、早くぅ」
無理矢理布団を剥ぎ取る。真鈴は「ちぇーっ」といたずらな笑みをよこしながら、ようやく身体を起こした。寝癖で少し跳ねた薄茶色の髪のまま、あくびをひとつ。なんとも無防備な姿だ。
「るなさん?」
呼ばれて振り返ると、ベッドから降りてきた真鈴が真面目な顔で覗き込んできた。長く温かい指先が、るなの目元にそっと触れる。
「……やっぱり腫れちゃいましたね。しっかり冷やしてくださいね?」
……どんなに邪険にしても、その瞳はどこまでも優しい……。至近距離で見つめられ、るなの胸の奥がキュッと温かくなった。
「分かってる。ご心配なく」
照れ隠しに、ぽすっと真鈴の肩に軽いパンチを見舞う。大げさに「うわぁ、肩がー」と痛がりだした。
るなは腹を抱えてげらげら笑う。イズミに植え付けられた呪いのような捨て台詞の恐怖は、まるで真鈴が吸い取ってくれたかのように不思議と消えてしまった。
「真鈴」
扉に向かう真鈴を呼び止める。
「……ありがとね」
振り返った真鈴は何も言わず、ただ満足げに微笑んで出て行った。
賑やかな朝が、扉の閉じる音と共に終わる。気持ちは充分切り替えられた。
今夜から、王者・アクアマリンに挑む。
そして、明日にはイズミと……。




