71☆気まぐれなんですけど
ホテルのエレベーターを降り、重い足取りで廊下を歩く。ふかふかの絨毯は足音を殺してくれているのに、るなの内側で打ち鳴らされる心臓の鼓動だけが、耳の奥でうるさく響いていた。
「ごめんね、るな。昨日休んだとはいえ、連戦の最中に引き受ける仕事じゃなかったわね……。あの子、見た目からして闘争心丸出しだもの。精神的に頑張り過ぎて疲れちゃったのよね? 今日はゆっくり休んで? 何かあったら、すぐ連絡してちょうだい」
顔色の悪いるなを部屋の前まで送り、トウコが「本当に大丈夫?」と覗き込む。
「……大丈夫です。おやすみなさい……」
ぺこりと会釈し、るなは扉を閉めた。室内の静けさが、やたらと心臓の鼓動を加速させる。るなはしばらく扉にもたれかかり、何度も深く深呼吸をした。
「大丈夫、大丈夫……。私は勝てる。何も起きない……」
口に出し、自分に言い聞かせる。瞼を閉じ、何度も唱えた。
鼓動が治まりかけ、るなはゆっくり目を開けた。ライトグリーンの紙袋が視界に入った。
「キウイボート……」
今朝、リホがわざわざ買ってきてくれたものだ。突然のリカコからの電話で、冷蔵庫へ押し込んだままだった。明日の朝にはホテルを移動する。こんな気持ちのまま食べるのはもったいないが、少しは気分も晴れるかもしれない……。
よし、と、もたれていた扉から背を離した途端、突然ドアチャイムが鳴った。
ビクッと肩が跳ねた。また、鼓動がうるさくなる。まさか、イズミ……? るなは振り返ることもできず、足がすくんだまま固まっていた。
もう一度チャイムが鳴る。コンコン、とノックも聞こえる。やがて「るなさーん?」と声がした。
「ま、真鈴……?」
絞り出した声は震えていた。問いかけておきながら、両手は真っ直ぐドアノブにかかっていた。扉を開くと、驚いたようにぱちぱちと瞬きをする真鈴が見下ろしてきた。
「るなさん、あたし何度も電話して……」
「真鈴っ!」
母と再会した迷子のように、真鈴に飛びついた。廊下ということも忘れ、ただすがるようにギュッと両手に力を入れる。
「え……。る、るなさん……?」
困惑する真鈴だったが、子供のように泣きじゃくるるなを見てただ事じゃないと察し、「とりあえず入りましょ?」と優しく髪を撫でた。
部屋に入っても、るなはただわんわんと泣き続け、真鈴のTシャツを濡らす。るなの嗚咽だけが響く室内で、2人はしばらく玄関で立ちすくんでいた。
「るなさん……? お水、飲みましょうか」
どのくらい経った頃だろうか。何十分もそうしていた気がする。黙ってるなの黒髪を撫で続けていた真鈴が、そっとるなの腕を解いた。
「やだっ! 行かないでっ!」
しゃくり上げながら、るなは懇願する。「どこにも行きませんよ」と、るなに目線を合わせる真鈴。肩を抱き、るなをソファへ座らせようとする。それでもるなが袖を放さないので、仕方なくるなも連れて冷蔵庫へ向かった。
「あれ……? なんか、おいしそうなものがありますけど……」
真鈴がいたずらに笑う。冷蔵庫のど真ん中に無造作に突っ込まれたキウイボートを指さしている。るなはぶんぶん首を振り、一言「だめ!」と地団駄を踏んだ。
「お水より、こっちのほうが落ち着くかな? るなさん、スプーンはどこですか?」
「ダメっ! それはダメなのー!」
「お兄さんにおやつ取られた時も、こんな風に怒ってたんですかねぇ。あぁ、この紙袋かな?」
止めるるなをずりずり引きずり、真鈴は紙袋の中からプラスチックスプーンを取り出した。もはや泣いてるのか怒っているのか分からないるなを強引にソファに座らせ、自分も密着して座る。
「ダメっ! これはダメ! ダメなのー!」
「大丈夫大丈夫、取りませんから。あたしは食べませんよ。るなさんの宝物なんでしょ? ここのキウイボート、めちゃめちゃおいしいんですよねぇ」
呑気にスプーンのロゴを眺める真鈴。小学生から北島に住んでいたので、このキウイ専門店を知っててもおかしくはない。頑として袖を放さないので、真鈴はキウイボートのケースを片手で器用に開けた。
「アーン、してほしいですか? ……ってか、あたしがしたいんですけど」
るなはおかっぱをぶんぶん振る。涙で濡れた頬に、横髪が貼り付く。
「けーち。今ならさせてくれると思ったのになぁ」
けらけら笑う真鈴。るなは涙を流しながら、無言で真鈴の腕をばしばし叩き続ける。「分かった分かった」とるなの手を受け止めた真鈴は、そっと指を絡めた。
「心配したんですよ? るなさんの久しぶりの決勝打のお祝いにおいしいもの用意したからずっと電話してたのに繋がらないから……。トウコさんにエレベーターで会ったので、るなさん知りませんかって聞きました。取材に行ってたんですってね。取材で何かあったんですか?」
一度引きかけたるなの涙が、またぶわぁっと溢れ出す。次々に流れ落ちる滴を、真鈴は静かに拭い続けた。
永遠に泣き止まないるなに寄り添っていた真鈴が、唐突にテーブルへ手を伸ばした。そしてわんわん口を開けて泣いているるなの口に、ぽいっと星形にくり抜かれたキウイを放り込んだ。
「……おいしいでしょう?」
真鈴はにっこり笑う。しゃくり上げながらも、るなはもぐもぐ咀嚼しだした。ごくりと飲み込むと、こくり頷く。
「でしょう? セシアンキウイは大きいのに、味はゴールデンキウイなんかよりもずっと濃厚なんです。ビタミンもたくさん入ってるから、明日も元気いっぱい決勝打打てますよ?」
「……おいしい……」
「でしょでしょ? もっと食べますか?」
るながヒナのように口をぱかんと開けた。真鈴はしめしめ、と今のうちに次々キウイを放り込む。相変わらず涙は「おいしい」の言葉とは裏腹に流れているが、下層のキウイゼリーに到達する頃には枯れてきた。
「おばあちゃんちの周りはメロンが特産品でしたから、小さい頃はメロンばっか食べてたんですよ。でも、北島に引っ越してきて、こんなおいしいフルーツがあったんだ! って衝撃でした。るなさんに食べさせたいものの1つだったんですけど、まさかいつの間にか買ってきていたとはねぇ。車もないし方向音痴のるなさんが、どうやって手に入れたんでしょうねぇ」
茶色い皮だけがぺらりと残ったトレイを見つめる真鈴。いたずらな笑みで振り返る。「まぁ、それは後で問い詰めるとして」と、真っ赤に腫れ上がったるなの目を覗き込んだ。
「何があったか、話してくれますか?」
「……」
「聞かないほうがよければ、あたしに出来ることを言ってください。何でもしますよ? るなさんが元気になってくれるなら」
るなはしばらく無言で見つめ返していた。真鈴は焦らすまいと、優しくるなと指を絡めたまま開口を待つ。やがてるなはその指をギュッと握り、「イズミに……」と切り出した。
また涙が溢れそうになるのを堪えながら、るなは必死で一部始終を話した。真鈴はそれを、無言で受け止める。
「すれ違いざまに、『私が勝ったら、この前の続きしましょうね?』って言われたの……。思い出して怖くなっちゃって……」
話し終わると、今度は真鈴が強く握り返した。
「大丈夫。何も起きません。あたしが守ります。それに、るなさんは絶対に勝つ! だって、負けたことないんでしょう?」
「……ないけど……高校時代の話しだし……」
「なーに弱気になってるんですかぁ。しおらしいるなさんもかわいいですけど、かっこいいるなさんのほうが魅力的だなぁ。小学生みたいな顔してるくせに、言うこともプレイもいっちょ前で。ギャップ萌えするじゃないですか」
「……言い方!」
るながぽすっと腕にパンチしようとした。真鈴はそれを受け止め、「それも本当ですけど」と続ける。
「るなさんは負けません。絶対打てる。でも、そんな弱気じゃ勝てるものも勝てませんよ?」
「……分かってる。負けないよ、きっと……」
「きっとじゃないです! あんな『るなオタ』の思うつぼになっちゃダメですよ。あいつは勝つ自信がないから、るなさんを精神的に揺さぶろうとしてるんです。された恐怖は簡単に消えないかもしれませんが、そんなに目乾かしてたら、動体視力も落ちますよ? 打てるものも打てません」
最後に「ね?」と優しく頬を撫でる。こくんと頷いたのを見て、真鈴は満足げに微笑んで立ち上がった。
「キウイボートでもうお腹いっぱいになっちゃったでしょうから、これは明日にでもチンして食べてください。温かいうちに食べてもらおうと思って、試合終わる直前に車飛ばして買いに行ったのに、いっくら連絡しても捕まらないんですもん」
玄関に落ちていた紙袋を、「はい」とるなに差し出す。紙袋には『SUKIYAKIYA』と印刷されていた。ずしりと重たい。
「すき焼き丼です。こっちでは有名な和食屋でして、お肉は日本から取り寄せた黒毛和牛の……って、聞いてます?」
説明する横で、るなはいそいそと丼を取り出す。水滴のたくさん付いたフタを取り、ぱぁっとお目々を輝かせた。
巨大なキウイボートを完食したばかりだというのに、特盛りのすき焼き丼をかき込み始める。涙の跡でかぺかぺになっている頬をリスのように膨らませるな。泣いたり怒ったり食べたりと忙しい姿を見て、真鈴は腹を抱えて笑い出した。
「……なによぉ」
「あははっ。いやいや、かわいいなーと思っただけですよ。でも、ちゃんと『いただきます』は言いましょうね?」
「あっ……いただきます」
罰が悪そうにぺこんと頭を下げ、再び箸を進める。超特盛りをあっという間に完食しそうだ。真鈴はケトルで紅茶を入れ、テーブルに2つ並べた。
ものの5分で箸を置いたるなは、ふぅーっと背もたれに身を預けた。号泣した赤目も涙の跡も残ったまま、「ごちそうさま」と振り返る。
「どういたしまして。おいしかったでしょう? アクアマリン戦が終わったら、今度はおいしい焼き肉屋にご招待しますよ」
「うん。ありがとね、真鈴……」
ふわっと首に両手を回し、るなは今度は真鈴に身を預ける。抱き留め、真鈴はるなの小さな背に手を回した。ソファで抱き合ったまま、2人はしばらくお互いの鼓動を聞いていた。
「……ねぇ、真鈴」
「なんですか?」
「今日だけ……泊まって?」
「えっ?」
真鈴は驚いてるなの顔を覗き込もうとした。だが、るなは首筋に顔を埋めたまま頑として動かない。
「……いいんですか? 襲われちゃうかもしれませんよ?」
「……しないよ。真鈴は、私にはそんなことしない……」
言い切られ、真鈴はやれやれと脱力する。
「気まぐれな子ネコちゃんですねぇ。昨日は断ったくせに」
「分かってるもん。冗談だって」
「……はいはい。ちゃんとスペース空けて寝ますよ」
るなのお尻をぺしっと叩く。「なにすんのよ」と10倍でお返しがきた。
「いたっ! るなさん、力強すぎ……」
真鈴はじんじん痛む後頭部を摩り、わがままでも甘えてくれる嬉しさに胸が熱くなるのを感じていた。




