68☆断れないんですけど
約束の朝。食事会場にリホの姿はなかった。
ちょっとキツく言い過ぎたかなぁ……と、自分の言葉を思い返す。
……いや、間違ったことは言っていない。頑固だがお利口さんのリホなら、すねたりやさぐれたりせずに受け取ってくれるはずだ。
すぐヘソを曲げる、誰かさんと違って……。
「るなさん、腰の痛みはどうですか?」
ごちそうさまをし、立ち上がったところで脳裏を過ぎった人物が、ひょっこり目の前に現れた。るなのTシャツをいきなりぺらりとめくり、腰のアザを確認しだす。
「きゃっ! いきなり何すんのよっ」
バッと強めにTシャツを引き下げ、背後の真鈴を睨み上げる。悪びれた様子のない真鈴は「え?」と、きょとん顔である。
「いいじゃないですか、これくらい。ブラホックがいくつあるのかまでは見てません」
「当たり前でしょー! 公然猥褻で訴えるわよ!」
「公然猥褻? 肌をさらしたのはるなさんですが。タッチもしてないのでチカン行為でもないですよ? 女性同士なのに、背中くらいで何を恥ずかしがってるんですかぁ」
そう言う真鈴は、タンクトップとショートパンツで白く長い手足を惜しみなくさらけ出している。同じ女性アスリート同士でも惚れ惚れするようなスタイルの持ち主には恥ずかしさなどないのだろうが……。
「私の身体は見世物じゃないのっ! おかげさまでスウィングにも問題ないから、今日から復活よ」
るなは裾を整えながら、食事会場を後にする。「それはよかったです!」と、真鈴もにこにこついてきた。
相変わらず危なげな機械音を鳴らすエレベーター。乗りたくはないが、るなの部屋は6階だ。腹ごなしに階段を昇るのも考えたが、やはり楽を選んでしまう。
エレベーター前には先客がいた。艶やかな黒髪を垂らし、キャップを目深に被る、そのシルエットは……。
「おはよ、リホ。ランニングでも行ってたの?」
肩に触れると、びくっと跳ねた。そろりと振り返った。キャップのつばから、大きなレモン型のお目々が覗いた。やはりリホだ。
しかし、リホはランニング時にはポニーテールに結っている。それに、細身のジーパンを履いているので、身体を動かす格好ではない。
「お、おはようございます……」
「出かけてたの? 私、昨日の返事もらおうと思って探してたんだ」
「あ……それは……」
リホの視線が斜め上に移る。「リホさん、おはようございます」と爽やかに挨拶する真鈴の声が降ってきた。
そうだった。セシアンキウイの約束は2人だけの秘密ごと。リホのプライドのためもあるが、2人で出かけることを真鈴に知られたら面倒なことになりかねない。
「真鈴。私、スマホ置いてきちゃったみたいなの。悪いけど見てきてくれない?」
るなはポケットをさぐるふりをした。
「えー? このスーパーカリスマをパシリに使おうだなんて、そんなこと言うの世界中でるなさんくらいですよー?」
「いいじゃない、唯一無二のるなさんなんだから。あー、ほらっ、早く行ってくれないとスマホ取られちゃうかも! 真鈴とメッセやり取りできなくなっちゃうかもー!」
「……なんか怪しいですねぇ。ちょっとボー読みな気がするし……」
「違う違うっ。慌ててるのー! ほら、早く早くぅ」
バタつかせていた両手で、真鈴を回れ右させる。そのまま背を押し「お願いねー!」と突き飛ばした。
いぶかしげに一度振り返った真鈴だったが、しぶしぶ食事会場へ戻って行った。やれやれと息をつき、リホへ向き直る。目が合ったリホは長い睫毛を揺らし、ぱちぱちと瞬きをした。
「ごめんなさい……。嘘つかせましたよね?」
「いいのいいの。それで? 反省会はどうする?」
「それなんですが……」
リホは俯いた。言わずとも、その態度が答えだろう。
「ごめんなさい。お誘いは嬉しいですが、やっぱり行けません」
ぺこりと腰を折る。残念だが、頑固なリホなりに考えて出した答えなのだろうから無理強いはできない。
「うん、分かった。また今度、別の機会に別のとこ行こ?」
「……いえ。食事ならいいんですけど、甘い物は外では……」
「徹底してるなぁ。分かった分かった。じゃ、今度はご飯ね」
「はい、本当にすみません。……これ、お詫びのつもりです」
リホは、るなの右手にそっと紙袋をかけた。ずっしりと重たい。るなは驚いて手元を見る。取っ手の隙間から、緑色のフルーツらしき物が見えた。
「もしかして……! 買いに行ってたの?」
「るなさんまで食べられないのは申し訳ないですから。私はこれを……」
リホはもう1つ紙袋をぶらさげていた。恥ずかしそうにおずおず取り出す。緑色の中に黒いつぶつぶが入った飲み物が出てきた。おそらく、キウイベースのスムージーだ。
なるほどね……! と、るなは胸が熱くなった。
スムージーなら、スイーツという概念ではないので罪悪感はない。なにより、るなへの恩と配慮も忘れない。
本当にかわいい後輩だ……。
「ありがと! おごるつもりが、おごらせちゃったね」
「いえ。気付かせてくださったんで。御礼とお詫びです」
チン、とエレベーターの扉が開いた。同時に背後から「なかったですよー?」と真鈴のふてぶてしい声が近付いてくる。るなとリホは目を合わせ、紙袋をサッと隠した。
「ごめぇん、じゃあ部屋かも。ありがとね、真鈴」
「もう……。るなさんのお部屋に行って、試しに鳴らしてみましょうか?」
「えっ! あ、いいっ、いい! どうせ置くとしたらあそこかなー、ってのあるから!」
「ふぅん……?」
疑わしげな真鈴が、るなの顔をまじまじと覗いてくる。後ろに回した紙袋が見つかるのも時間の問題だ。るなは「さー、探さなきゃなーぁ」と言って、いそいそとエレベーターへ乗り込んだ。
ガゴンッと大げさな音を立て、エレベーターの扉が閉まる。日本人はなぜかエレベーター内では無口になる。こんな時、ポーカーフェイスのリホが羨ましいなぁ……と見上げたが、リホはすまし顔でランプの点灯を見つめていた。
「じゃあるなさん、全体練習頑張ってきてくださいねー。あまり無理はしないように。痛くなったら、すぐトレーナーに申告するんですよー?」
るなは6階で降りた。8階の真鈴は片手をひらひら、リホはぺこりと頭を下げる。「おっけー」と片手を上げたところで扉が閉まった。
部屋に着くなり、ポケットの中のスマホが揺れた。もう数分早かったら真鈴にバレていた。危ない危ない。ごそごそ取り出し、画面を覗く。
兄からの着信だった。嫌な予感しかない。るなは一度息を吸い、通話ボタンをタップした。
「なにーぃ?」
『ハーイ、るなちゃん。ケガの具合はいかが?』
……嫌な予感が的中してしまった……。
外出中なのか、周囲が騒がしい。それゆえ、ぶりぶりしたリカコの声が一段と大きい。朝っぱらから兄の嫌味もうんざりだが、義姉のこびを売るような甘ったるい声のほうが何百倍もうんざりだ。記者という仕事も手伝ってか、どうしても好きにはなれない……。
るなは冷蔵庫へキウイボートを片手で器用にしまう。早出の練習があるからとかなんとか理由をつけて、さっさと切らせてもらおう。
「リカコさん? どうしたんですか、お兄ちゃんの携帯で電話してくるなんて」
『私の番号から急にかけたら、るなちゃんびっくりしちゃうでしょう? しゅんくんなら隣にいるわよ? 代わる?』
「いえ。私は別に用事ないんで」
きっぱり言うと、受話口の向こうから、雑踏に紛れた『聞こえてんぞ、こらー』という兄の声が聞こえてきた。どうやらスピーカーモードらしい。骨折でリハビリ中だが、残念なほどに元気そうでなによりである。
「ケガなら大したことありませんよ。打撲だけでしたし、今日は出れますんで。ご心配ありがとうございます」
『ならよかった! じゃあ、明日のアクアマリン戦も大丈夫ね?』
「……まぁ、身体的には、ですけど」
『うんうん。実はね、うちの新聞でセシアナ女子野球の特集やることになってね。ぜひ、るなちゃんと永遠のライバルの記事を書かせてもらおうと思って』
アクアマリン戦……。永遠のライバル……。
るなの脳裏に、意地悪そうにニヤリと笑う女の顔が浮かんだ。反射的にゾワッと鳥肌が立つ。
「もしかして、イズミのことですか? 高校の時の記事読んでもらえば分かりますけど、ライバルって思ってるの、あっちだけですからね?」
『まぁ、そう怒らないで? るなちゃんがそう断言してても、見出し的にそのほうがバエるのよ。高校野球で投げ合ったライバルの対談。舞台をセシアナに移して今度は打つか打たれるかの戦い! ってね。……ふふっ、お子ちゃまじゃないから分かるでしょ?』
馬鹿にしたような口調に、るなのイラ立ちが増す。兄も兄だ。るながイズミのことなど眼中にないのを知っているくせに、愛妻の仕事の手伝いとなれば橋渡しをするのか。
『それでね、今回は私一人でそっちに行くの。セントラル空港に18時だから、るなちゃんがちょうど試合終わる頃に合流できるから。あ、もちろん荒崎イズミにも及川マネージャーにも承諾得てるわよ?』
「えっ!」
るなは驚愕した。イズミだけでなく、すでにマネージャーのトウコにも承諾を得ているだなんて……。ならば、なぜ自分のところに連絡をくれないのか? それともはったりだろうか……。
「申し訳ないですけど、リカコさんのお仕事のお役には立てません。試合に集中したいので、今回はお断りさせていただきます!」
『えー? なにーぃ? もしもーし……あれ? 急に何も聞こえなくなっちゃったぁ』
「ちょっと、リカコさん? もしもし? 聞こえます?」
『えー? 聞こえなーい』
……聞こえてるじゃんか! とわなわな拳を握るるな。『じゃあ、着いたら連絡するからー』と一方的に切られた。
「信じられない! 有り得ない!」
るなは怒りで震える指先で、トウコの名をタップする。ワンコール待たずに『あら、るな。今ちょうど……』と弾む声が聞こえてきた。
「あら、じゃないです! どうして私と荒崎イズミの対談を許可したんですか!」
『え? 待って、るな。何をそんなに怒ってるの? 私もついさっき電話を切ったところなのよ? だから今からあなたにかけようと……』
「さっきとか今とかの話じゃないです! どうして勝手に引き受けちゃうんですかって言ってるんです!」
トウコの声のトーンが、スッと冷えた。
『るな? あなたはまだこっちに来て間もないけど、グッズも売れてる立派な人気選手よ? 分かってると思うけど、人気選手はチームの広告塔なの。プレイ中だけじゃなく、それ以外でもあなたの魅力を売る必要がある。これも仕事の1つなの。相手選手の好き嫌いでわがまま言わないで』
そうだ……。ただ野球をやるだけがプロではない……。ファンを増やして収益を増やす。それも選手の仕事だ……。
だからといって、そうですねと怒りは治まらない。もちろん頭では分かっている。矛先がリカコであって、トウコではないことも。
るなが沈黙した理由を察したのか、トウコは一度ため息をついてから口を開いた。
『……分かってる。過剰に意識してるのは荒崎のほうだって。るなはむしろ、比べられて迷惑なんでしょ?』
「それだけじゃ……ないですけど……」
言えない……。イズミに襲われただなんて……。
次に会った時、また襲われるか刺されるか分からなくて怖いだなんて……。
『……まぁ顔は怖いけど、取って食ったりはしないわよ。大丈夫、会場までは私が車で送ってあげる。対談中も映らないところで見守ってるし、NGがあればカットするように私が言うわ』
「ありがとうございます、トウコさん……」
『マネージャーなんだから当たり前よ? ……もしかしたらイヤな仕事もあるかもしれないけど、セシアナは日本以上に推し選手への愛が熱いの。メディアにもたくさん顔売らないとね』
プロ野球は興行ビジネス。球団側が受けた案件を、商品である選手が断ることはできない。もちろん、真鈴クラスになれば話は別だが。
シーズンオフでもなく、むしろ2日後に対戦を迎えるイズミと対談なんて、気が重すぎる……。
「分かりました。今日の試合後ですよね?」
トウコに待ち合わせ時間と場所を聞き、るなは通話を切って深いため息をつく。せっかくのキウイボートも、食べる気が失せてしまった。スマホをベッドに叩きつけ、震える指先を見つめる。
逃げてはいられない……。イズミとの戦いは、今日の対談ではなく2日後に迫るアクアマリン戦だ。
気持ちで負けては飲み込まれる……。




