66☆モトカノなんですけど
真鈴の瞳には、温かな光が灯っている。だが、真鈴はるなの表情の変化に気づいたように、フッと口元を緩めた。
「でもね、るなさん。るなさんたちが言ってる『元カノ』って、『昔のガールフレンド』って意味じゃないんですよ?」
「……え?」
るなが驚いて目を丸くすると、真鈴はいたずらな笑みを浮かべた。
「安心してください。あたしとモエカは付き合ってたわけじゃないですから。日本語ではそういう意味でしょうけど、セシアナ語で『モトカノ』は『キャッチャーミット』です」
「……え、え、え? ミット?」
思わず声がひっくり返ったるなに、真鈴は絶えきれずぷっと吹き出した。
「考えてもみてくださいよー。だから、日本人だけでしょう? あたしとモエカのことをぐちゃぐちゃ言ってるやつ。モエカは高校から野球留学してきたんですけど、その意味を知った途端に『モエカにぴったりー!』って気に入って使いまくってたんです」
「あ、あぁ……そゆこと……?」
るなは脱力し、ぐにゃっと背もたれに身を預ける。元カノでないのならば、電話でのブチ切れが更に痛い勘違いとして重なっていくではないか……。
「まぁ無理もないですよねぇ。るなさんは日本人選手としか喋れないし、SNSも日本語しか読めませんもんねぇ。そりゃ勘違いもするでしょうし、ヤキモチも……」
「妬いてないっ。だって、あれよ? こっちに長いこといるサエさんだって知らなかったみたいだったよ?」
「へー、そうですか。んーまぁ、モエカ自体がプロに入って無名になっちゃいましたからねぇ。噂も埋もれてたのかもですね。じゃあ、明日にでも言ってみたらどうですか? 『それ、サエさんのモトカノですか?』って」
真鈴がるなの手元を指指す。ただでさえつり上がったサエの眉が『はぁ?』っと中央に寄るのが想像つく。
「んもう……紛らわしいなぁ。ロッカーであんだけ激怒してモエカをかばってれば、ナルミさんだって他の日本人選手だって、きっとみんな勘違いしてるよ」
るなが言うと、まりんはぷいっと顔をそむけた。
「……あれはサラが悪い。モエカを馬鹿にしたのは確かにカチンときましたけど、あたしが完璧に押さえても勝てなかったのに、開き直って人のことばかり悪く言うサラに腹が立ったんです。おもしろいから勘違いさせとけばいいじゃないですか。キャッチャーミットだって知った時、今のるなさんみたいなお間抜けな顔するんでしょうねぇ」
「……女ったらしの誰かさんじゃなければ、信憑性はなかったでしょうけどねー……」
ぼそっと呟く。振り返り、真鈴が「なんか言いました?」と顔を近付けてきた。
「なーんも。でも……ネットでモエカが叩かれてるままなのはかわいそうじゃない? 真鈴ファンが黙ってないよ?」
「オーディエンスは否定したところで黙りませんよ。ネットなんて好き放題書きますからね。信じるも信じないも、ユーザー次第でしょう。モエカにヤキモチ妬くのは、るなさんだけで充分です」
「だから、妬いてないってば!」
「あははっ、またまたぁ。でも……」
真鈴の笑顔がスッと引き締まった。自分の掌を見つめ、ゆっくりと握りしめる。
「例え、るなさんが妬いてくれたとしても、モエカを守れるのはあたしだけです……。モエカはご存じの通り、誤解を生みやすい。高校の頃も、あたしとバッテリーを組んでるからってだけで『調子に乗ってる』とか『捕球だけが取り柄のくせに』とか嫌がらせを受けてました……。酷い時にはミットを隠されたこともあった。落ち込んで、辞めようかなって言い出したこともあった……」
唇を噛みしめる真鈴。自分のことのように悔しそうだ。
「ある日、あたしも我慢できなくなってみんなに言ったんです。『モエカがいなくなったら、誰があたしの球を受けてくれるんだ』って。それ以来、モエカへの暴言やいやがらせはなくなりました。2年になっても3年になっても、モエカのようにあたしの球を受けられるキャッチャーは現れなかった。自然と周りも認めてあげてましたよ。『真鈴の球は、モエカにしか捕れない』ってね」
「……真鈴が投げ続けられたのは、モエカがいてくれたから、ってことね」
「その通りです。モエカは感謝してくれましたけど、感謝してたのはあたしのほうですよ。でなきゃ高校3年間、あたしは何をしていたか分からない。あたしにとって、モエカは恩人なんです。だから、あたしが守ってあげたいんです……」
真鈴の声には、揺るぎない覚悟と、深い慈悲が込められていた。 ただ甘やかしているのではない。自分を救ってくれた過去の相棒に対する、真鈴なりの義理と愛情なのだろう……。
「……そっか。真鈴は優しいね……」
「違いますよ。身勝手な自己満足です……」
自嘲気味に肩をすくめる真鈴の横顔を、るなは静かに見つめた。
自己満足だなんて言いながらも、その瞳は真っ直ぐで温かい。真鈴が背負ってきた孤独と、それを支え続けたモエカとの絆の深さは、高校3年間以上の繋がりを感じさせる。
「ふあ……待ってぇ……」
ぐっすり眠っていたモエカが、もぞもぞ寝返りをうった。ボールを追いかけている夢でも見ているのだろうか。モエカの両手が空中でふにゃふにゃとさ迷う。
「……るなさんでも追いかけてるんですかね」
「もうダイビングハグしないようにって、しっかり仕付けといてよ? あなたの恩人さん」
「分かってますよ。これ以上、あたしのるなさんを傷付けさせません。誰にも……」
端整な顔が近付いてくる。耳元で低く囁き、真鈴はるなの肩をぐっと抱き寄せた。
「だから、さっきみたいに『他の子と好きなことすれば』なんて、悲しいこと言わないでくださいね? あたしが好きなのは、る……」
「す、ストップ!」
るなは慌てて真鈴の口を片手で塞ぐ。そのまま顔面を押し戻し、「しーっ!」と人差し指を唇に当てた。
「まりんちゃ……。あ、あぁ……だめぇ、そこはぁ……あぁん……」
ベッドから、悩ましい声が聞こえてきた。へらへら笑いながら、身を捩りだしたモエカ……。
真鈴も、ぎょっとして振り返った。なおも「んー……そこ、いい……。まりんちゃ……」とくねくねしている。
「……寝言かぁ。どうやら、夢の中でいいことされてるみたいね……」
るなが小声で耳打ちすると、真鈴は慌ててぶんぶん首を振った。
「ち、違いますよ? モエカとは何もしてない! ほんとに何もしてませんからね?」
「へぇ? でも、夢の中では何かしてるみたいよー?」
「違います! だって、モエカは……」
真鈴が言いかけたところで、寝言とは思えないボリュームで「あぁー!」と、モエカが絶叫した。
「まりんちゃぁん! い、いい……っ、いっちゃう……! 今のインコース、もう1球いっちゃうー?」
……再び、静寂が訪れた……。
「……インコース……」
るなは脱力し、思わず膝から崩れ落ちそうになった。真鈴の顔を見ると、耳まで真っ赤にして呆然とモエカを見つめている。
「ほ、ほらねっ! ただの配球の夢ですよ! るなさんはいちいち誤解しすぎです。あたしのこと、何だと思ってるんですかぁ」
「あははっ。自分だって焦ってたくせにー。後ろめたい言動があるから自信なかったんでしょ?」
「ないですってばぁ! モエカとあたしは、健全なバッテリーですってー」
「はいはい。分かった分かった」
苦笑したるなが立ち上がると、真鈴は「まったくもう……」とソファにだらりと身を預ける。ベッドの上のモエカが「へへ……ナイスボール……」と満足そうに笑い、再びすーすーと規則正しい寝息を立て始めた。
「……ねぇ、もう一つ聞いていい?」
ソファの背もたれに頭を乗せたままの真鈴が見上げる。
「なんですか?」
「私がモエカを突き飛ばした時、モエカに何て言ったの?」
「あぁ、あれですか。あれは……」
真鈴は思い出し笑いなのか、一度くすっと笑った。
「『キーホルダー、預かってるから後で』って。どこに落としたか分かんなかったらしいです。嬉しそうにしてたでしょ?」
視線で促され、るなはベッドサイドのバッグを覗く。無造作に置いてあるリュックにぶらさがっていたのは、少し潰れた『るにゃキャットキーホルダー』だった。
これを取りに? そして、ガルプロをしに……?
まったく、2人の時は高校時代で止まっているのかとツッコみたくなってしまう……。
「なんだ……そんなことぉ? ネット上も妄想祭だったよ?」
「そんなこととは失礼ですねぇ。モエカはネコ好きなんです。あと、かわいいものもね」
じぃーっと見つめられ、「もの?」と自分を指さするな。
「どっちが失礼よ。……じゃ、私は帰るから。明日試合に出ないからって、遅くまで遊んでたのバレたらコーチに怒られちゃう」
「ですね。じゃ、あたしもるなさんの部屋に行こうかな。ベッドはモエカに占領されちゃってるし」
確かにモエカは見事な大の字を描いている。だが、ベッドはダブルベッドだ。多少ずらせば、真鈴1人くらい余裕で眠れる。
「……そんなにモエカと寝るのがイヤなら、床で寝れば?」
「……もう、分かってるくせに、意地悪な言い方するんだもんなー……」
真鈴はやれやれと立ち上がり、扉へ向かうるなを名残惜しそうに見送る。「おやすみ」と手を振り、エレベーターホールへ向かった。
静まり返った廊下に、ゴイーンという機械音が響く。今にも止まりそうなエレベーターに乗ると、ふっと笑いが込み上げてきた。
「まったく……元カノじゃなくて、キャッチャーミットだなんてさ……」
呆れつつも、胸の奥にあったもやもやがすっかり消え去っていることに気づく。自室に着く頃には、一連の勘違いを笑えるようになっている自分がいた。




