60☆ネコなんですけど
「るにゃキャットの人ぉ?」
覗き込んできたその人物は、目が合うなりぱぁっと花咲くような笑顔を見せた。
ほぼ無名といえどプロ野球選手にも関わらず、帽子やサングラスもなし。頭に乗ったキジトラ模様の愛らしいカチューシャが、逆に人目を引く。ホワイトパンサーズの一塁手、水島モエカである。
昼間のあの執拗なまでの抱きつき。それによって負った打ち身の痛みと怒りがカムバックする。悪びれる様子など微塵もない、あまりにも無邪気な笑顔だ。
「モ、モエカ……っ」
るなは思わずキャップのつばを跳ね上げ、花壇の縁から立ち上がりかけた。
隣では、リホが完全に固まっている。キャップを目深に被ったまま、まるで気配を消すかのように身を縮めていた。先発前夜の秘密の買い食いを、よりによって他チームの選手に見つかるなど、彼女のプライドとストイックなキャラクターからすれば、まさに絶体絶命のシチュエーションだろう。
「やっぱりそうだ! 奇遇だねぇ。こんなところで何してるのー?」
クロスバイクを器用に片手で支えるモエカの視線が、るなの口元、そして手元のアイスで止まった。
「あ、このアイスおいしいよねー! モエカもこれ買いに来たのー! モエカは南島には行ったことないけど、これ南島には売ってないんでしょ? こんなにおいしいの売ってないのかわいそう!」
無邪気にそう言って、モエカはリホの方へも視線を向けた。リホは相変わらず俯いたまま、オブジェのように固まっている。あくまでこの嵐が去ってくれるまで沈黙するつもりなのだろう。
るなはリホの食べかけのアイスを急いで完食し、モエカの前に立ちはだかるように一歩踏み出した。リホの秘密を守るため、そして、何より昼間の件のケジメをつけるために。
「ちょっと、モエカ! アイスの前に、言うことあるでしょ!?」
「え? 言うこと?」
モエカは小首を傾げ、大きな目をぱちくりとさせた。そのあまりにもピュアな反応に、るなの眉が寄る。
「昼間のことだよ! あんたに思いっきり抱きつかれたせいで、私、打ち身になって明日休養なんだからね! アスリートの身体にケガさせといて、謝罪の一言もないなんてあり得ないんだけど!」
一気にまくしたてたるなに、モエカは一瞬だけ驚いたように目を丸くした。だが、すぐにその表情は、今度は本当に申し訳なさそうな、捨てられた子犬のような顔へと変わる。
「えっ……るにゃキャット、ケガしちゃったの……? モエカ、嬉しくてつい力が入っちゃって……ごめんなさい……」
シュンと項垂れるモエカ。その変わり身の早さと、意外なほどの素直な謝罪に、るなは逆に毒気を抜かれてしまう。
「あ、いや……大事を取ってだけどさ……明日休めば大丈夫だと思うんだけど……」
「本当? 本当に大丈夫……? よかったぁ……。モエカ、るにゃキャットのこと大好きだから、嫌われちゃったらどうしようって……」
モエカは潤んだ瞳で真っ直ぐるなを見つめてくる。この、計算なのか天然なのか分からない距離の詰め方にるなは、調子狂うなぁ……と心の中でため息をついた。
「……そっちの人も具合悪いの?」
キャップを限界まで下げ、微動だにしないリホを覗き込もうとするモエカ。るなは慌てて間に入る。
「そ、そのカチューシャかわいいねー! よく似合ってるー」
るなはどうにか気を逸らそうと、ボー読みになりながらもモエカのキジトラ模様のカチューシャを指さす。モエカはそのカチューシャが相当お気に入りなのか、むふーっと口角を上げた。
「これぇ? かわいいでしょー! これは真鈴ちゃんがプレゼントしてくれたやつなんだぁ」
るなの心がざわつきだした。『元カノ』というワードが脳裏に蘇る。とっさに話を逸らそうとしただけなのに、触れた点の悪さに後悔が湧いてくる。
そうとも知らないモエカは、何やらいそいそとスマホをいじりだした。背後では、リホが必死に息を殺している。どうにかモエカの注意を逸らし、ここを切り抜けたいのだが……。
「あった! これこれー」
離脱に思考を回していると、モエカは「見てー」とスマホを差し出してきた。
画面には2人の少女が映っていた。1人はモエカだ。顔もほとんど変わっていないし、今と同じキジトラのカチューシャを付け、満面の笑みでピースサインをしている。購入前なのか、カチューシャからは値札がぶら下がっていた。
その隣には、振り向きざまにシャッターを切られたのであろういかにも「ん?」という表情の真鈴。こちらもあまり変わっていないが、目元が今より少しだけ柔らかい。
「真鈴……」
「そー! 修学旅行で行った『キャッツピア』で真鈴ちゃんが買ってくれたのー」
「キャッツピア……?」
「知らない? ここからもうちょっと北に行ったとこにある、にゃんこづくしのテーマパークだよー」
モエカは次々と画面をスライドさせ、当時の自分の画像をるなに披露し出した。
だが、自撮りしはしゃぐモエカよりも、常に隣にいる真鈴に目がいってしまう。呆れ顔や苦笑が多いが、それでもずっと一緒にいたことが明白に伝わってくる。
義姉のヒカルと離れてからは、誰にも心を開いてないのだとばかり思っていた……。
自分と出会うまでは……。
『そばにいてほしいんです。るなさんがいなくなったら、あたしはまた、器だけの空っぽな人間になってしまう……。ちゃんとあたしの中身と向き合ってくれるるなさんが必要なんです。るなさんがあたしを拒絶するのが怖い……。汚れたあたしを気持ち悪いと思っていなくなってしまうのが怖いんです……。どうか、どうか嫌いにならないでくださいね……?』
……思い上がりだったのだろうか……。
真鈴はいつも寂しさに怯えているのだと思っていた……。
自分を必要とし、自分しかいないのだと思っていた……。
とんだうぬぼれだった……?
「ずいぶん仲が良かったんだね。お似合いじゃない」
尖った語尾に、自分が一番驚いた。モエカはスライドさせていた指を止めた。くりくりのお目々で「え?」と見つめられ、自分は何を言ってるのだと顔を逸らした。
「あ、いや……ち、違うの。その……真鈴はあなたのこと大切に思ってるみたいだし。私がセカンドベースで突き飛ばしちゃった時も……」
「……そう? 真鈴ちゃんはいつも優しいよ?」
不思議そうに首を傾げるモエカ。その表情には、嫌味も敵意も感じられず、純粋な疑問しかない。るなは澄んだモエカの瞳を直視できなかった。
視野にリホが映った。相変わらず微動だにしないが、会話は全て聞こえているはずだ。『ただのチームメイト』のリホにとって、自分と真鈴はどう見えているのだろうか……。
「あーっ! にゃん太郎ー!」
モエカが急に叫んだ。るなが驚いてモエカの視線を辿ると、花壇の隙間から茶トラの猫がひょっこり顔を出していた。
だが、モエカの黄色い声に驚き、すぐにサッと身を翻してしまった。あっという間にコンビニの裏側へ走り去って行く。
「あっ、待ってにゃん太郎ー! 今日もおやつ持ってきたんだってばーぁ」
モエカもものすごいスピードで追いかけていく。クロスバイクがガシャンと音を立てて倒れた。
モヤ付きだけを残し、モエカの姿は見えなくなった。微かに「どこー?」と呼ぶ声も遠ざかっていく。
「るなさん、かばってくれてありがとうございます」
時を止めていたリホが、ようやく息を吹き返した。何事もなかったかのように、いつものクールな顔でクロスバイクをひょいと起こし、邪魔にならないよう隅に寄せる。
「私は今のうちに失礼します。るなさんは?」
「あ、あぁ、私ももう戻るよ。ちょっと散歩に来ただけだし。アイス、残念だったね。せっかく食べてたのに……」
「いいんです。何口か食べられましたから」
言って、リホは歩き出した。モエカの去った方角にもう一度振り返り、るなもホテルへの帰路につく。
結局、真鈴とモエカが本当に付き合っていたのかは分からないままだ。なぜ別れたのかも。ケンカ? 進路? それとも浮気……? 想像だけが広がっていく。
静かな公道。るなとリホはぽつんと佇むホテルを、黙って足早に目指した。2人分のアイスで冷えた身体が、思考までも徐々に冷静にしてくれる。
気にならないと言えば嘘になる。だが、女性関係について真鈴の過去を掘り下げればきっとキリがない。
今を信じてあげればいいのかな……。そう考えるほうが余計なモヤ付きに引っ張られなくて済む。
モエカは悪い子ではなさそうだ。バッテリーだったのだから、仲がよくても何も不思議ではない。
感情を表に出さないリホのポーカーフェイスな横顔をちらりと盗み見し、感情のままに生きる真鈴やモエカと足して割ればちょうどいいのにな……と苦笑するるなだった。




