56☆つぶれたんですけど
グラウンドでの試合前練習が始まった。
まず、ビジターであるドルフィンズが守備練習を行う。るなは今日もスタメンの予定なので、コーチの指示のもとショートの守備位置についた。
日本の多くの球場は内野は土、外野は芝生である。しかしこちらはメジャーリーグによく見られる、ベース周りやランニングコース以外は全て芝というタイプだった。
るなはふかふかの天然芝を踏みしめ、違和感に気付く。足元の芝の目を見て驚愕した。
「……なにこれっ」
天然芝のホワイトドーム。いや、グレードームと改名したほうがよさそうな外観と等しく、芝も手入れが行き届いていなかった。つむじのように渦を巻いてる箇所もあれば、土が剥き出しになるほど草が剥げている箇所も多い。
土の部分もえぐられたままの箇所がちらほら。日本の地方球場でも有り得ないコンディションだな……と、るなはなるべく平らになるよう、足で踏みならした。
案の定、ノック時のゴロがイレギュラーに跳ねた。予測不可能にバウンドして逃げていく打球を慌てて追い、るなは疲労の汗より冷や汗が上回るのを感じた。
「るにゃキャットちゃぁーん!」
ファースト近くのイレギュラーバウンドに苦戦している一塁手の動きを目で追っていたるなを、気の抜けるような緩い声が呼んだ。
声のほうを向く。一塁側ベンチで、キャップを後ろ前に被った選手がこちらにぶんぶん手を振っていた。
「こらっ、モエカ!」
敵チームの守備練習中にも関わらずグラウンドに飛び込んでこようとしたモエカを、チームメイトが慌てて止めた。なおもモエカは「なんでー?」とじたばたもがいている。
先ほどビジター用ロッカールームに勝手に侵入し、真鈴に連れ出されたモエカ。チームメイトたちの様子からするに、モエカの自由奔放には慣れているようだ。
るなと目が合うや否や、少女のように瞳を輝かせる純真無垢。コーチらしき人に叱られている間も、すきをついてはこちらにダッシュしてくるので、周りのチームメイトたちがてんやわんやになっている。
るなは、忍ばせてきたキーホルダーをポケットの上からそっと撫でる。練習交代のタイミングで返すべきか、気付かなかったふりをして持って帰るべきか悩んだが決めきれず、とりあえずポケットに入れてきたのだ。
真鈴を通して返すという選択肢は、最初に切り捨てた。それは、るななりの複雑な気持ちを深めたくないという思いがあったからだ。
「るなっ! 行ったぞ!」
コーチの声にハッと向き直る。ショートライナーが飛んできていた。すかさずジャンピングキャッチ。チームメイトたちが「ナイスー!」と拍手をくれた。
危うく後ろに逸らすところだった。るなはふーっと息をつく。
三振でアウトを取るタイプの真鈴はともかく、ゴロを打たせて取るタイプのリホの登板が明日に控えている。ショートゴロ、来なきゃいいなぁ……と弱気になるほど難しいグラウンド状態だ。
「るにゃキャットちゃぁーん」
チームメイトたちの目を盗んできたらしく、モエカが猛ダッシュで駆け寄ってきた。るなが振り返ると同時に、ダイビングハグ状態になった。小さなるなは、勢いでグラウンド上に押し倒された。
「い……ったぁ……」
「あれぇ、ごめぇん。るにゃキャットちゃんが軽すぎるからぁ」
謝罪の意思があるんだかないんだか、モエカはグラウンドにのびているるな覗き込んでいる。幸い頭は打たなかったものの、勢いとモエカの重みで腰を強打したるなは、患部を摩りながら身を起こした。
「ちょっとっ!うちのチームメイトに何してくれんの! るながケガしたらどうすんのよ!」
三塁側ベンチから飛び出してきた年長のナルミがモエカに怒鳴った。まだるなの足元に乗ったままのモエカの首根っこを掴み、無理矢理立たせる。
「おいっ! そっちこそ、うちの選手に乱暴すんなよ!」
モエカを止めきれなかったホワイトパンサーズの選手たちも、ドヤドヤと一塁側ベンチから飛び出してきた。それを見て、ドルフィンズ側も「そっちが悪いんだろーが!」と鼻息荒く集まってくる。
当事者のるなとモエカは引き剥がされ、一触即発のぴりついた空気が漂う。英語とスペイン語の怒号が飛び交う中、モエカはこりもせず「るにゃキャットちゃんとお話したかったのにーぃ」と子供のように地団駄を踏んでいる。
「るな、大丈夫そう? 白パンのやつら、うちらのことナメすぎだっての!」
目尻を釣り上げたままのナルミが覗き込んできた。蒙古斑みたいになってなければいいな、と思いながら「多分、大丈夫です」とるなは頷く。
2ゲーム差でノースリーグ1暗いのアクアマリンを追いかけるホワイトパンサーズにとって、サザンリーグ5位のドルフィンズはカモに過ぎない。
でもそれは、先発が、神月真鈴でなければの話だ。せっかくのカモなのに、よりによって今日がその日となれば、ホワイトパンサーズ側としては歯軋りする思いだろう。
そのピリつきに着火してしまったきっかけのモエカが、外国人選手2人によってずるずるとベンチに引き戻されていく。コーチらまでもめ始め、もはや収集のつかない団子状態のその先で、るにゃキャットの描かれたタオルをひらひらとはためかせている。ぬいぐるみとキーホルダーだけでなく、タオルまで購入したらしい。
「あいつ、るなのファンなわけ? 同じ日本人として恥ずかしいわ。るな、あんまりあーゆーのとは関わっちゃダメよ?」
「そうですね……。気を付けます」
るなはベンチ奥の扉に消えていくモエカを視線で追いながら、ユニフォームについた土を払う。ポケット越しにキーホルダーに触れた。先ほどより少しつぶれている。そっと取り出してみた。中身の綿は出てはいないが、ふっくら感がなくなっていた。それでも、るにゃキャットは愛らしく笑っている。
「るな、どこ打った? 一応医務室行こう」
血相を変えたトレーナーがるなの腰部に触れた。ずきずき痛む。大事には至っていないと思うが、念のため医務室で見てもらうことにする。トレーナーに先導されベンチに下がろうとしたるなの手から、るにゃキャットがするりと抜けた。
「これは、あたしが預かっておきます」
頭上から真鈴の声が降ってきた。るなが振り返ると、真鈴は取り上げたキーホルダーをサッとポケットに入れた。
「あっ、返してよー」
「まったく……るなさんは無防備過ぎます。何度抱きつかれれば懲りるんですか」
「しょ、しょうがないでしょー! 不意打ちなんだから」
「やれやれですよ。昨日のテーピングの御礼に、今夜はあたしがるなさんのお尻に湿布貼ってあげますね」
呆れ顔の真鈴に「テーピング?」とトレーナーが追求しようとした。肩の張りの原因を隠し通したい真鈴は「なんでもないです」と身を翻す。
グラウンド上では、相変わらず2チームが睨みを利かせあっている。真鈴は颯爽とその中に割り込み、英語で一言何か口にした。
すると辺りは一瞬にして静まり返り、モーセの海割りのように道が切り開かれた。真鈴は涼しい顔でその真ん中を進み、マウンドに立つ。
両チームの選手やコーチが見つめる中、マウンド上でシャドーピッチングを始めた真鈴。大きな白鳥が羽ばたくようなそのダイナミックで美しいフォームに、みな目を奪われる。
防具を付けたまま輪の中にいたサエが、ハッと我に返った。ボールを1つ真鈴に投げ、定位置で構える。真鈴はサエのミットに1球投じると、ギャラリーのように取り囲んでいた選手たちにじろりと向いた。
気が散るんですけど? といった視線で一喝。両チームの選手たちは真鈴の投球を名残惜しそうに振り返りながら、それぞれのベンチへ下がって行った。
「るな、行くよ?」
トレーナーに促され、るなは真鈴のポケットのふくらみにやきもきしながら医務室に向かう。
あの不思議ちゃんのことだ。『真鈴の元カノ』という説は不実に決まっている。誰もがそう思うだろう。
なのに、誰もが近寄りがたい神月真鈴に平然と抱きついていたところを思い出すと、あながち嘘でも妄想でもないかもしれないと自分の中の自分が否定する……。
それは、るなだからこそ感じる。
真鈴は、自分を特別視しない人に心を開く……。
キーホルダーはいつ、どうやって返すつもりなのだろうか……。
るなは医務室の白いベッドに横たわり、触察の痛みに耐える。試合前から、早くも波乱の幕開けとなった。




