53☆離れないんですけど
髪を乾かし終えたるなはベッドに転がり、タブレットを何度も見返していた。
ディスプレイには、相変わらずイズミの投球フォームが映し出されている。何度も再生し、脳内でその軌道をなぞる。しかし、集中しようとすればするほど、ビュッフェ会場でナルミの『えっちよ、えっち!』という囁きがリフレインして離れない。
真鈴がかわいい日本人好きなのは知っている。それがセシアナ選手と球団関係者の中では有名なのも知っている。だが、それを身近な者から言われると、急にリアリティが増してしまう……。
ナルミは言った。『何人もの後輩が自慢してきた』と……。
「……自慢ってなによ……」
想像したくない光景が、鮮明な解像度で視界のタブレットを遮る。
一昨日の夜、自分の額に触れたあの唇が、かつてはイズミや名も知らぬ日本人選手たちのどこかに触れている……。
「……もー!」
ぶんぶんと首を振り、無理やりイズミのデータページをスクロールした。その時、枕元に放り出していたスマホが、短い振動と共に画面を光らせた。
通知には『まりん』の文字。心臓が跳ねた。頭の中の妄想を覗かれたような気分がして、るなは一瞬無視しようと目を逸らした。
だが、このままではいつまで経っても集中できなさそうだ。結局は吸い寄せられるように画面をタップした。
『何してますか? 部屋、行っていいですか?』
彼女らしい、強引でストレートな文面。るなは『データ分析中』と、一部の事実を打ち込んだが、送信ボタンをタップする前に、2通目が届いた。
『左肩に妙な張りがあるんです。寝てる間に悪化したら怖いので、テーピングお願いできませんか?』
「……ずるーっ……」
るなは小さく毒づいた。そんなことを言われて、断れるチームメイトがいるだろうか……。エースが不安を口にしているのだ。それがもし演技や嘘だったとしても、状態も見ずに断れるわけがない。
『トレーナーさんたちは6階じゃなかった? 連絡はしてみたの?』
『実はさっきの練習で、コーチとトレーナーが指定した投球数を、内緒で30球多く投げちゃったんです。思い当たる節を聞かれたら怒られちゃうので……』
……どうやら張りがあるのは本当のようだ。
『しょうがないなぁ。上手く貼れるか分かんないよ?』
そう返信した5分後、扉をノックする音が響いた。るなはまだ気持ちの整理が付かないまま、深呼吸を一つして扉を開ける。
そこにはTシャツにハーフパンツスタイルの真鈴が立っていた。ビュッフェ会場で纏っていたあの圧倒的なオーラは少し影を潜め、どこかしおらしい表情をしている。
「……どうぞ」
「すみません、こんな時間に」
真鈴は小さく会釈し中に入ると、ドレッサーチェアに腰を下ろした。
「コーチたちの指定を30球も多く投げて張りが出たって言ったら、そりゃ怒られるよ……」
「だからるなさんにお願いしに来たんじゃないですか……」
しゅん、と項垂れる真鈴。エースの自覚と、やらかした反省心はあるらしい。
「分かった分かった。どの辺?」
「ここです」
真鈴はくるりとるなに背を向け、躊躇いもなくTシャツの裾を掴むと一気に袖を抜いた。
るなは息を飲んだ。
目の前に現れたのは、彫刻のように白く美しく、それでいて実戦で鍛え抜かれたアスリートの背中だった。
真鈴が指差した左肩が、確かに僅かな赤みを帯びている。欧米人の血が入った真鈴の透き通るような白い肌が眩しい。
「どうですか? ちょっと熱持ってる気がするんですけど……」
我に返り、るなは顔を上げる。ドレッサーの中の真鈴と目が合った。下着を身につけていないので、豊満な胸の中央の薄桃色まで鏡に映っている。慌てて視線を左肩に移し、赤みを帯びた箇所に軽く触れてみた。
「……うん。赤くなってるし、熱持ってる。ちゃんとアイシングしたの?」
「もちろん。でも、足りなかったみたいですね。……これ、お願いしていいですか?」
真鈴がテーピング用のキネシオテープを手渡してきた。筋肉の負荷を軽減したり作用を助けるテープだ。学生の頃はセルフケアでチームメイトと貼り合いっこをしていたので、久しぶりではあるが難しいことではない。
初めて見る、真鈴の背中……。素肌に触れることすらも初めてだ。
受け取り、広背筋に添って長さを測る。
「……るなさん。さっき、ナルミさんと楽しそうでしたね」
曲がらないよう、丁寧に貼っていたるなの手が一瞬だけ止まる。鏡越しの視線に気付かぬふりをした。撫でるようにテープを貼っていく。しなやかな筋肉に嘘が伝わらないよう慎重に……。
「……別に、普通でしょ? チームメイトだもん……」
「何の話をしてたんですか? ナルミさん、こっち見てましたよね?」
「みんなが真鈴を見てるのはいつもじゃない。別に変な話してたわけじゃないし……」
……嘘だ。ナルミのあの卑猥な冗談が脳裏をよぎり、るなの顔が再び熱を帯びていく。
るなは心臓の鼓動が聞こえてしまいそうで、剥がしたテープの裏紙をわざとぐしゃぐしゃ音を立てた。
「みんなが見てる、ですか……。ねぇ、るなさん……」
左肩に添えていたるなの手に、真鈴が自分の手を重ねてきた。顔の紅潮が鏡越しに見られているはずだ。恥ずかしさに手を引っ込めようとすると、真鈴はぎゅっと強く握ってきた。
「あたしを……気持ち悪いって思わないでください……」
……茶化されるのだと思っていた。真鈴の声が震えている。るなは突然のことに抵抗を止め、真意を尋ねた。
「なに? 突然……」
「あたしは確かに汚れてる……。るなさんみたいな純粋な人からすれば、気持ち悪いと思われるかもしれません。好きでもない人と寝ることで、心の寂しさを埋めようとしてた。どんなにかわいい子と寝ても、満たされることはなかった……」
「……いいよ。そんな話……。なんで今、そんな話するの?」
「みんな『アクアマリンの神月真鈴』としてしか見てくれなかった。今だってそうです。あたしはただの神月真鈴なのに、常に完璧でいないといけない。お膳立てするように、周りもあたしを勝手なベールで包んでいく。あたしの中身になんて、誰も興味ないんです。容姿とピッチングしか見てくれてない。……るなさん以外は……」
ドレッサー横に備え付けられている間接照明が、端整な真鈴の横顔をオレンジ色に染めている。その光景が、真鈴の光りと闇を演出しているようだった。
制止も聞かず、真鈴は続けた。
「勝手なわがままなのは分かってます。そばにいてほしいんです。るなさんがいなくなったら、あたしはまた、器だけの空っぽな人間になってしまう……。ちゃんとあたしの中身と向き合ってくれるるなさんが必要なんです。るなさんがあたしを拒絶するのが怖い……。汚れたあたしを気持ち悪いと思っていなくなってしまうのが怖いんっです……。どうか、どうか嫌いにならないでくださいね……?」
握りしめられた左手が、痛いほどに強まる。急に小さく見えてきた白い背中に、るなは複雑な気持ちを覚えた。
明日は先発だというのに、カリスマエースが弱気になっている。そうさせているのは自分だ……。
るなだって、聞きたいことが山ほどある。
あの夜、ベッドルームで何て言ったのか。なぜ唇ではなく額だったのか。イズミと何を話して、どう過ごしていたのか。イルカの約束をどう受け取ったのか。
自分は本当に隣にふさわしい人間なのか……。




