51☆出発なんですけど
ヒカルの手伝いでなんとか新居に引っ越せたるな。いよいよ本当の独り暮らしが始まる。
リゾートマンションの307号室。底層だが、東向きのオーシャンビュー。家具付きなのでほとんどホテルと変わりない。広めのウォークインクローゼットと、ボードにたくさん物を置けるセミダブルベッドがお気に入りだ。
「じゃあ帰るけど、本当に大丈夫なのね?」
未開封の段ボールを見渡し、ヒカルはるなに念を押した。
「ちゃんと片付けますってぇ。ヒカル先輩だって、明日の準備しなきゃですもん。あとは1人で大丈夫です」
「るなの手伝いするって約束した時から、遠征の支度は済ましておいたから、私は大丈夫よ?」
ヒカルは大学時代の寮を思い出しているのだろう。同期や先輩によく『片付けなさい』と注意されていたるな。ヒカルだけは、来る度に無言で片付けてくれた。
「いやいや、だとしても身体休めてくださいっ。ほんとに今日はありがとうございました!」
るなが「御礼は今度!」と頭を下げると、ヒカルは口角を上げ首を傾げた。
「ドルフィンズは、明日からホワイトパンサーズだよね? うちはその次に当たるから、ホワイトパンサーズの打者のいい情報なにか入ったらちょうだい? 御礼はそれでいいよ」
「……相変わらず喰えないこと言いますねぇ」
「ふふっ。真鈴の登板も楽しみ。あの子はもともとノースリーグでずっとやってたから、あっちのほうが投げやすいでしょうね。真鈴に聞くのもありかな」
「確かに。でも真鈴って、データとかお構いなしで投げてる気がします。癖も弱点も関係なくがんがん投げてません? それで三振取れるからすごいですけど」
「それ、言えるかも。力じゃ足りないから頭で野球してる私とは逆だもん。同じ父の血が流れてるとは思えないな」
ヒカルは苦笑しながら靴を履いた。2人はしばらく対戦がないので会うことはない。お互い名残惜しそうに「じゃあまた」と手を振った。
ヒカルの去ったあとの新居はまだ他人の部屋のようで、どこか取り残された気持ちにもなる。お気に入りのインテリアでもあれば自室感も枠のだろうが。
サエのマンションまでは車移動の距離だが、リホのいる寮までは徒歩数分。交流戦終了後からは寮での食事も許可されているし、自炊も挑戦するつもりだ。
とはいえ、今日はくたびれたし時間もあまりない。17時には遠征バスが出発するので、中途半端に荷ほどきするのはやめたほうがよさそうだ。。遠征の準備はすでにしてあるので、るなは段ボールの山を視界に入れないようソファに寝転んだ。
バルコニーがパチパチ鳴りだした。スコールだ。途端に土砂降りになる。窓は開けっぱなしだが、バルコニーの屋根は大きいので部屋に入る心配がない。るなは雨音を横に目を閉じた。
思えば、昼間に部屋にいたことが少ない。毎日のように降りしきるスコールも、こうして雨音を静かに聞くのは、真鈴にバッティングラボに連れて行ってもらった時以来だ。
出会ったのもスコールがきっかけだった。あの時、自分がバスを間違えてなければ、サニータウンのバス停で降りていなければ、スコールに打たれていなければ、今の関係も、ドルフィンズの神月真鈴も生まれなかった……。
そして、交流戦で初めて対戦する『ドルフィンズ・夕海るな』と『アクアマリン・神月真鈴』だったであろう……。
もしその未来だったら、自分もカリスマの神月真鈴として見ていただろう。日本のメディアでも取り上げられていた大エースとの対戦に緊張したかもしれない。
そして自分は、真鈴の記憶にも残らない、単なる日本人プレイヤーだったかもしれない……。
雨音が激しくなってきた。バスの出発までは2時間ある。それまでに止むといいな……とバルコニー越しの空を眺めた。
北島も降っているのだろうか……。るなはメッセージアプリを立ち上げた。
『あたしもです。何度でも行きたいです』
イルカの写真を送ったあと、真鈴からそう返ってきた。るなの『OK!』というぶたさんスタンプで終了している昨日のメッセージ……。
『引っ越し終わったー。そっち、降ってる?』
気付けば、自分からメッセージしたことはほとんどない。いつも真鈴からだった。珍しい行動に気恥ずかしくなった。
「なんか……寂しいみたいじゃん……」
取り消そうとした。だが、その瞬間に既読マークが付いた。
『引っ越しお疲れ様です。あたしは一足お先にホワイトドーム入りして投球練習してました。こちらはまだ降ってませんよ』
『ホテル合流は夜になりますが、るなさんも気を付けて来てくださいね』
2通、ぽぽんと送られてきた。練習の合間だったとは、ちょっと申し訳ない。
明日先発予定の真鈴は、自宅マンションからそのまま球場入り。ホワイトパンサーズの本拠地であるホワイトドームまで車で通えない距離ではないらしいのだが、真鈴のワガママでチームメイトたちと同じホテルを取ってもらったとのこと。
『ありがと。19時半到着予定。北島の肉料理楽しみ』
送信。1分と経たないうちに返信がきた。
『肉料理ならあたしが作ってあげるのにぃ。でも北島は肉料理店が多いので、時間があったらおいしいとこお連れしたいです』
どんなお店? と打ち込んでいる最中に、真鈴から連続で届いた。
『迷惑じゃないですか?』
るなは手を止めた。
真鈴は明らかに畏れている。るなに嫌われることを……。
今までぐいぐいアタックが当たり前だったのに、るながイズミを拒絶した現場を目撃したことで、自分とイズミを重ねてしまったのだろう。
大好きだった義姉を失った過去も、その恐怖を加速させているのかもしれない。
入力しかけの文字を一度削除し、『連れてって』とだけ送った。
『新居はどうですか?』
真鈴が話題を逸らしてきた。誘ったことをすでに後悔したのだろうか。文字だけでは判別できないので、るなは話を切り上げることにした。
『会った時話すよ。練習中にごめん。頑張って!』
すぐに既読が付いたが、それから返信はなかった。誤解を生んではいけないので、やはり会って話すのが一番だ。
*
遠征バス出発時刻になっても、スコールは止まなかった。寮の前でチームメイトたちと合流。大きなスポーツバッグとリュック、それとカートを引き上げうんしょと乗り込む。
「るなさん、お疲れ様です」
後方席に行こうとしたるなを、リホが呼び止めた。
「お疲れー。隣、いい?」
「はい」
るなは左列席に荷物たちを置き、右列席のリホの隣に座った。
「私、るなさんに謝らなきゃいけないことがあるんです……」
唐突に、リホが「ごめんなさい」と頭を下げた。
「え、え? 何? 私、何かされたっけ?」
「いえ、あの……アクアマリンのイズミさんなんですけど、るなさんが観に来てるか聞かれまして……」
そういうことか……と合点がいった。
いくら粘着質なイズミでも5階席にある関係者席まで、来ているかどうか分からないるなを探しに来たりはしないだろう。
伏せ目がちになったリホの長い睫毛が際立つ。背景のスコールでさえ、リホと重なれば美しい絵にも見える。
「後から思い出したんです。るなさんとイズミさん、高校の頃はライバルだったんでしたよね。私、余計なこと言っちゃったなって……」
「あははっ。いいよいいよ。全然ライバルとか思ってないし。気にしないで?」
「そうですか……? 何もなかったならいいですけど……」
大ありだったが、リホにはなんの罪もない。整った眉を垂らしているので「大丈夫、大丈夫!」と肩を叩いた。
バスが走り出す。昨年の交流戦の話を切り出した。アクアマリン3連戦は全敗で、特に真鈴には完封負けしたと教えてくれた。リホはそれ以降、イズミの話題に触れることはなかった。
無口なリホだが、るなの質問には丁寧に答えてくれる。あれこれと話しているうちに、昨日イルカの写真を撮った近くまで来たことに気付いた。スコールが止んだ後なので、海面は少しくすんでいる。るなはスマホを取り出し、イルカの写真をリホに見せた。
「かわいいですね。それに、すごく奇麗に撮れてます」
「でしょでしょー。リホは生で見たことある?」
「ないですね。でも、この辺はイルカのウォッチングポイントで有名なんですよ。観光ガイドにも『好きな人と一緒に見れたら結ばれる』とか載ってるらしくて、デートスポットで有名なんですって」
「う……嘘っ!」
何も知らず『一緒に見たい』と送ってしまった……!
これではまるで、自分が真鈴と結ばれることを願っているみたいではないか……!
るなは頬が熱くなっていくのを感じた。リホが「どうしました?」と覗き込んでくる。
「い、いや……なんでもない。ちょっと車内が暑くて……」
「……そうですか? まぁスコールの後ですし、ちょっと蒸しますけど……」
リホは大きな瞳をぱちくりさせ、首を傾げる。だが、賢く物静かなリホは、ツッコむことなく視線を窓の外へ戻した。
珍しく『迷惑じゃないですか?』なんて、あんなに弱気なメッセージを送ってきた。真鈴がジンクスを知らないか、もしくは、るながジンクスを知らずに送ったと分かっているか……という可能性も考えられる。
スマホの画面をそっと点ける。メッセージを見返してみた。『一緒に見たい』と送った自分の言葉が、今度は別の重みを持って胸に突き刺さった。
もし真鈴がそのジンクスを信じているなら、『あなたと結ばれたい』と肯定したも同然ではないか……!
乾いた笑いしか出ない……。
バスはスコール上がりの湿った空気の中、北島へとひた走る。
今夜ホテルで真鈴の顔を見たら、どんな顔をすればいいんだろうか……。『ジンクスのことなんて知らなかった』と、あえて言い訳するのも傷付けそうだ。
寂しがり屋で、自信家で、それでいてガラス細工みたいに繊細な、あの大エース……。彼女は今、ホワイトドームの投球練習場で、明日もその名誉を守るために腕を磨いているのだろう。
バスのタイヤが跳ね上げる水飛沫の音を聞きながら、るなは無意識に、まだ個性のない新居の広いセミダブルベッドを思い浮かべていた。
そこにお気に入りのインテリアが増える頃、自分と真鈴の関係はどうなっているのだろう……。
るなは深く座席に背中を預けた。北島に着いたら、今度はこちらから何かメッセージを送ってみようか……。いや、また練習中だったらいけないし、あちらからの連絡を待とうか……。
バスは夕闇に包まれ始めたハイウェイを、真鈴の待つ北島へと加速していった。




