42☆宣言なんですけど
水音に紛れ、ドアチャイムがシャワールームに響いた。
ヒカルとのイタリアンディナーを堪能し、残りわずかの滞在にになったシャニータウンホテルへ戻ってきたるな。
鏡備え付けの時計は、午後23時を示している。こんな時間に訪れるのは1人しかいない……。るなは洗い立ての髪と肌を雑に拭く。
それが誰だか察しはつくが、いそいそとバスタオルを巻き「はーい?」と玄関扉越しに尋ねた。
「るなさーん。あたしです。起きてますー?」
チャイムを連打しておきながら、起きてますかの質問はおかしいでしょ……と心の中でツッコミ、「服着るから、ちょっと待ってー」と応える。
髪はびしょびしょだが、ひとまずぶたさんパジャマだけ着て扉を開けた。先程まで白馬の王子様だった真鈴が、ロングTシャツにスパッツといういつものスタイルで立っていた。
「……あぁ、お風呂でしたか。誘ってくれれば一緒に入ったのに」
「誘うわけないでしょっ。……で、どうしたの? こんな時間に」
「まぁまぁ、立ち話もなんですから、ちょっと中に入れてくださいよ」
真鈴が部屋に呼ぶことはあっても、るなの部屋に訪れることはあまりない。何の用事なのか分からぬまま、「あんま長居しないでよ?」と釘を刺しながら扉を閉めた。
室内には再びシャワー上がりの熱気がこもる。真鈴は勝手知ったる様子でベッドの端に腰を下ろした。
「……普通、女性は濡れ髪のままだと色っぽく見えるもんなんですけどねぇ」
るなの手が止まる。ギロリと睨んでみても、真鈴はにこにことこちらを眺めるだけだ。色気ゼロの自覚はあれど、容姿端麗にずばっと言われると神を呪いたくもなる。
「……何が言いたいの? そんなこと言いに来たんなら追い出すよ?」
「あははっ。冗談ですよぉ。いつもかわいいなーって言ってるんです。ちょっとお酒飲み過ぎちゃって。抱きしめに来ただけですんで、用が済んだらすぐ帰ります」
「『だけ』ってなによ。用は済ませないけど、帰ってもらっていい?」
冷たく突き放してみても、真鈴はどこ吹く風だ。むしろ、るなの冷たい反応さえも楽しんでいるかのよう。
「るなさんも今日はあたしに会えなくて寂しかったでしょうけど、あたしもるなさんに会えなくて寂しかったんですー」
「大丈夫。私は寂しくなかったから、安心して」
「あ、そういえば、さっき写真送ったんですけど、見てくれましたよね? 既読になってるのに返事くれないとかヒドいじゃないですか。サザンチームの決起集会に行ってたんですけど、素敵なプライベートビーチのあるイタリアンだったので、今度るなさも連れて行ってあげますね。これ、お土産です」
ご機嫌な真鈴はるなの話しなど聞かず、得意気に平たい箱をるなの眼前に差し出す。表面には先程のイタリアンレストランのロゴ。香ばしいガーリックとチーズの香りが、紛うことなくピザだと主張している。
ヒカルと会っていたのを隠すつもりはない。だが、言ってめんどくさいことになるのは目に見えている。いや、言わないでバレるほうがめんどくさくなる……。
問題なのは食事ではない。物件巡りと引っ越しである。
るなが畏れるのは、自分の自立を彼女がどう受け止めるかだ。
「……あのね、真鈴。私……」
言いかけた言葉が、喉の奥で引っかかる。
真鈴はるなが申し訳なさを抱えているような表情をしていることに気づいたのか、少しだけ首を傾げた。その仕草は、まるで主人の機嫌を伺う大きな白い犬のようで、罪悪感をさらに煽る。
「あ……あのね? 今日ここのお店行ったの……」
「え? るなさんもいました? 30人くらいいたけど、るなさんいたら気付くはずだけどなぁ。参加してたのって、選抜選手だけじゃなかったんですか?」
真鈴の純粋な疑問が、るなの胸をチクリと刺す。
「あー、いやいや。だから、ほらっ、ヒカル先輩と……。普通に夕飯食べに行ったの。そしたら、たまたま決起集会やっててさ……」
濡れたままのおかっぱをタオルで巻き、目を逸らした。冷房の風が湿った肩先を撫で、肌寒さを運んでくる。逃げ場を失ったるなの頬に、真鈴の視線が痛いほど突き刺さった。
「……へーぇ? ヒカルと2人で行ったんですかぁ。そうですかそうですかぁ。じゃあピザも食べたんでしょうから、これはあたしが持って帰ります」
真鈴の声からスッと温度が消えた。ひょいっとピザの箱を取り上げられ、るなは反射的に手を伸ばす。
「いるいる食べるー! ……ほ、ほらっ、真鈴のせっかくの気持ちを台無しにしたら、ヒカル先輩にも怒られちゃうしぃ」
必死の弁明を口にしながら、るなは箱の端を掴もうとする。だが、一度すねた真鈴は唇を尖らせ、るなの手が届かない高さまで掲げた。
「ふーんだ。怒られればいいじゃないですか。あたしがるなさんに会いたがってた頃、るなさんは他の女とデートしてたんですもん。怒られればいいですよ」
「ヒカル先輩と出かけてたのに、ヒカル先輩に怒られるっておかしいでしょー」
「……あっ! もしかして、あたしが写真とメッセ送った時、あの店にいたんですか?」
真鈴の瞳が、獲物を捕らえる猛禽類のように鋭く光った。逃がさないと言わんばかりに、ずずいっと顔が近付いてくる。
「え……あー……うん。上から見てた……」
「うわぁ、なのに返事くれないとかヒドすぎません? いいですねぇ、オールスターに出ない人はお気楽で。あたしなんて選手たちにもファンサービスしてたんですよ? 文字通り『高みの見物』ですか」
「だ、だけど、すごいなーって思ったよ? あれだけの人気選手たちが、こぞって真鈴と写真撮りたがってたじゃない? あのホワイトコーデもめっちゃ似合ってたし」
真鈴が「お?」という顔をした。無自覚に彼女の承認欲求に触れたらしい。褒めたらちょっとご機嫌が戻ってきたようで、ピザの箱がすとんと降りてきた。
すかさず両手で掴む。まだほんのり温かい。互いに箱を掴んだままなので、卒業証書授与のような様になった。
「今度こそ惚れました?」
期待に満ちた瞳で見つめられ、るなは素直に「ううん」と首を横に振る。いつものやり取り。いつもの拒絶。真鈴はオーバーリアクションでガックリと肩を落とした。
「……あぁ、どうしたら届くのかなぁ。あたしの愛……」
「大丈夫。届いてるけど受け取れないだけだから」
「あっさり言い切るのやめてください。あぁ、どうしたら受け取ってくれるのかなぁ。食べ物はすぐ受け取ってくれるのにぃ……」
ため息をつく真鈴を見て、るなは「確かに」とピザを手放した。
これ以上、甘えてはいけない……。その自制心がるなの口を動かす。
「え……? いらないんですか? ピザですよ? 高級イタリアンの窯焼きピザですよ?」
「……あのね、私、週末に引っ越すの」
唐突な宣言が、室内を一瞬で凍りつかせた。真鈴の切れ長の目が見開かれ、不安に揺れる。
「……引っ越す? あたしの隣にいなくなっちゃうってことですか? そんなのイヤです! ホテル代ならあたしが出します!」
「そういう問題じゃないの。私は……」
「じゃあどういう問題なんですか? るなさんが引っ越すなら、あたしも引っ越します!」
「真鈴にはアクアドームの近くにマンションがあるんでしょ? 今日、ヒカル先輩に付き合ってもらって契約もしてきたの。だからさ……」
るなは一度言葉を切り、真っ直ぐ見つめ帰す。不安げだった焦げちゃ色の瞳が、怯えを含んだ。
「いつまでも真鈴が私の食事の心配しなくていいように、自炊も頑張ろうと思ってる」
真鈴が信じられないものを見るような顔で硬直した。徐々にぶんぶんと首を横に振り、一度手放したピザをるなに押しつける。
「イヤです! 自炊なんかしなくても、あたしがずっとずーっとるなさんのご飯作ります!」
「そんなわけにいかないでしょ? 真鈴ほど大物になれば別だけど、私はトレードとかで他球団に移籍することがあるかもしれない。ずっと一緒のチームにいるとも限らないんだから」
るなはピザを押し戻す。結果が出なければ明日はない。それがプロ野球という厳しい世界だ。自分の要望や欲求ではどうにもならないことを、るなはすでに経験している。
だが、例外をやってのけた大物には、その覚悟とは別の覚悟があるらしい。真鈴は何度も首を横に振り、るなの言葉を否定する。
「るなさんがどこか行くなら、あたしも一緒に行きます! あたしが移りたいって言えば、どこの球団だって欲しがりますよ!」
「……じゃあ、ハッキリ言うけど……真鈴のことを振り回したくないの」
真鈴が息を飲んだのが聞こえた。るなはなるべく真鈴の感情を刺激しないよう、トーンを落として続けた。
「そんなに才能も人気もあるのに、私なんかの隣にいるの、もったいないもん。球団だって迷惑だよ? もしも私をトレードに出したら、もれなくセシアナのエースまでいなくなるんだから。そんなの、私には重たい。真鈴が私のご飯を気にしてくれるのは嬉しいし有り難いけど、私がちゃんと自炊できるようになれば、真鈴も安心してくれるでしょ?」
るなが言い切ると、真鈴はピザの箱を乱暴にテーブルへ置いた。顔を逸らし、ふつふつと湧き上がってくる怒りを押し殺している。
「……分かってないです。ぜんっぜん分かってない。るなさんはご飯を理由にあたしといるかもしれないけど、あたしはそれでも構わない。ご飯なんか食べても食べなくても、るなさんが隣にいてくれるならそれでいいのに……」
ドンッと拳をテーブルに打ち落とす真鈴。怒りと悲しみの音が、静かな部屋に轟いた。
分かってないわけじゃない……。分かってるからこその、るななりの『自立』なのだ。
真鈴の愛は、確かに重い。物理的な重圧すら感じるほどに。
けれど、こうして深夜に押しかけてきて、嫉妬して、それでもお土産を届けてくれる彼女の熱量が、異国の地で1人戦うるなの孤独を溶かしてくれているのもまた事実だ。
真鈴が急にいなくなったら、寂しいのは自分のほうかもしれない。依存する前に自立しなければ……。そんな決意さえも、彼女の無償の愛の前ではちっぽけに見えてしまう。
るなのほうが泣きそうになってきた。
「引っ越しはすぐするけど、実際に住むのはオールスターと交流戦が終わってからだから。交流戦期間中はずっとみんなと同じホテルでしょ?」
「そうですけど……。るなさんの新居は他に空いてる部屋ないんですか?」
「うん、ない。だから私、高層マンションなのに5階だし。たまには遊びに来てもいいよ? その……まずくてもよければ、練習した料理食べに来ても……」
尻すぼみにごにょごにょ言うと、真鈴が疑わし気な視線をよこしてきた。るなはタオルで視線を妨げ、俯いてわしゃわしゃとタオルドライし出す。
「……ほんとですか? るなさんの手料理、食べに行ってもいいんですか?」
「た、たまによ? たまに! 私だって試合とか練習とかで忙しいんだから。人様に作れるとしたら、ホームゲームの合間しかないからね?」
「それでもいいです。なんなら、あたしが教えに……あっ、でもるなさんが本格的に作れるようになっちゃったら、あたしの元から巣立っちゃう」
「人をヒナみたいに言わないで」
「そうですよね。アーんさせてくれないし」
真鈴の手がにゅっと伸びてくる。両手でるなの頭をわしづかみにし、上からしゃかしゃかとタオルドライしてきた。
「いいよぉ、自分でやるからぁ」
「いいんです。一緒にいる時くらい、甘えさせてください」
「甘えさせてって……」
どっちが甘やかされてるんだか……と、るなは心の中でツッコむ。
しかし、るなの面倒をみることで充実感を得ているカリスマが嬉しそうなので、複雑ながらもなすがまま髪をゆだねた。促されるまま、ドレッサーに座らされる。何の曲だかは知らないが、ドライヤーの風音に紛れてご機嫌な鼻歌が聞こえてきた。
……いや、甘やかしてるのは、やっぱり自分かな……と苦笑が漏れた。
「るなさん」
「うん?」
ほかほかになったおかっぱをブラシで整えながら、真鈴が鏡越しに覗き込んできた。
「合鍵、くださいね?」
「言うと思った。ダメ」
「言うと思いました。ケチ」
「ケチじゃない。そんなのあげたら、毎日来そうだもん。なんならちゃっかり住みつきそうだし」
図星だったのか、真鈴はへらへら笑ってごまかした。呆れたるなは立ち上がり、買い置きの炭酸水を冷蔵庫から2本取り出す。髪と共に、部屋の空気も湿り気が晴れた気がした。
「あたしもこのホテルにいる意味なくなったし、交流戦終わったらこの辺で家探しますかねぇ。アクアンシティのマンションはシーズンオフに引き払って、売りにでも出さないとな……」
ため息交じりの独り言を漏らし、真鈴はピザの箱を開けた。途端に食欲をそそるチーズの香りが部屋を満たす。シャンパンが欲しいところだが、真鈴は明日オールスターの先発なので炭酸水を手渡した。
「全部いただきたいところだけど、真鈴も一緒に食べて? さすがにこの時間から丸ごと1枚は罪悪感が……」
「え? るなさんでも気にするんですか?」
「……一応、アスリートなんで」
るながムスッと唇を尖らせると、真鈴は「冗談ですよー」とテーブルにつく。少し冷めたそのピザは、レストランでヒカルと食べたものとは、また違うおいしさがあった。
将来の不安が消えたわけではない。実力と成績が全ての球界で、明日の補償もないままるなは生きている。
けれど、隣ではしゃぐエースの重すぎる愛が、今は不思議と心地よい重石となって自分をこの場所に繋ぎ止めてくれている気がした。




