32☆義姉なんですけど
白い病室の天井を見つめるのが、ヒカルの新しい日課だった。
左目は厚いガーゼに覆われ、視界の半分が漆黒に塗り潰されている。時折、神経を逆撫でするような鋭い痛みが走るが、それよりも静寂がヒカルを支配していた。
「……いいボールだったんだよ? 真鈴……」
呟きは、シンと静まり返った部屋に吸い込まれていく。暗闇の向こう側で、あの日、自分に向かって突き刺さってきた白球の軌道を思い返していた。
シュート回転しながら内角高め、絶妙なコースへと食い込んできた一球。それは自分を信じて腕を振った妹の恐怖に打ち勝った証の一球だった。
『網膜剥離です。以前と同じ視力が戻る保証はありません』
動体視力を命とする野球選手にとって、それは致命傷に近い診断名だった。
だが、ヒカルの心にあるのは後悔ではなかった。
あれでよかったのだ。ヒカルは本気でそう思っていた。
自分の左目の光と引き換えに、真鈴は期待のピッチャーとして再生した。その事実は、ヒカルにとって何物にも代えがたい救いだった。
それなのに……。
『ヒカル……ヒカルの目を、あたしが潰した……。ごめんなさい、ごめんなさい……』
手術後、見舞いに来た真鈴は、泣き腫らし、震える声で繰り返し謝罪していた。
ヒカルは、痛む目元を細め、精一杯の笑顔を作って、『真鈴のせいじゃない。いいボールだったよ』と伝えた。それは本心だった。
だが、その言葉は、真鈴の腕を凍らせる呪いの言葉になってしまった……。
ヒカルの存在そのものが、真鈴にとっての『罪の証』になってしまっている……。
選手生命を絶たれるかもしれないケガを負ってもなお笑顔で妹を励ましたつもりが、自分を追いつめるダメ押しの一言になってしまったのだ……。
『このままじゃ、あの子を殺してしまう……』
日本への帰国を決めたのは最先端医療を受けるためでもあったが、何より真鈴を自分という呪縛から解き放つためだった。
『治療のために日本へ行くことになったの。大丈夫。私は見えるようになる。だから真鈴も投げ続けて? またキャッチボールしようね』
そう告げた時の、真鈴の縋るような目……。それを振り切って飛行機に乗った時、ヒカルは初めて一人で泣いた。
『しばらく片目だけで見る生活をしてたから、両目で見れるようにリハビリを続ければ、またスポーツも出来るようになるでしょう』
日本での治療は上手くいった。視力は順調に回復し、リハビリも毎日頑張った。
野球を再開出来たのは、事故から1年4カ月後。スポーツ推薦はもちろん取れなかったので、せめて野球部がある高校に、と進学していた。1年生の後半から入部するという、異例の部員になった。
ブランクを取り戻すため、ヒカルは狂ったように練習した。毎日、最後まで残ってトレーニングも欠かさなかった。
なぜ、そこまでして野球に固執したのか……。
それは、自分が真鈴にかけてしまった呪いを解くためだった。
手紙は書かなかった。電話もしなかった。言葉を贈れば、それはまた『優しさという暴力』になって真鈴を縛る気がしたからだ。
自分が野球を続けて、有名になって、いつかどこかで真鈴の耳に入ればいい。
野球を再開出来たことを知れば、真鈴は自らの手を汚した罪から抜け出せるはずだ。
……しかし、その駆け引きは最悪な裏目に出てしまう……。
『待ってたのに……。信じて待ってたのに……。嘘つき! どうして帰って来てくれなかったの? どうしてあたしから逃げたの? ヒカルの嘘つき!』
……祖父の葬儀。3年ぶりに再会した真鈴は、ヒカルが知っている天真爛漫な妹ではなかった。
成長し、大人びた体つき。けれどその瞳には、かつての温かな光など微塵もなく、氷のような憎悪と、どす黒い執着が渦巻いていた。
震える声で責められたとき、ヒカルは何も言えなかった。
真鈴にとって『自分だけが過去に取り残された』という絶望を深める結果になったのだ。
真鈴は叫んだ。ヒカルを罵倒し、それまでの3年間の孤独を、呪いのように吐き出した。
その姿を見て、ヒカルは自分の傲慢さを知った。
自分が真鈴のためにと選んだ離別は、真鈴にとってはただの『逃げ』であり、『見捨てられた』という拒絶でしかなかったのだ……。
そして、真鈴はその日を境に『怪物』になった。
イップスを克服したのではない。姉への愛を憎しみに変換することで、無理やり心に蓋をしたのだ。
日本にいても、高校生になった真鈴の活躍が耳に入るようになった。動画で見るマウンド上の真鈴は、ただ淡々とアウトを取るだけの機械人形のようだった。野球を楽しんでいるあの頃の面影など微塵もない。
『ごめんね、真鈴……。私は野球を愛してほしかっただけなのに、私のせいで野球を心から楽しめなくなっっちゃったんだね……』
ヒカルの苦悩は更に続く。
ずっと支えてくれていた母が病に倒れたのだ。余命1年と宣告された。大学4年の夏だった。
看病に行くたび、野球を続けてほしいと母に言われた。せっかく取り戻した視力なんだから、こんなとこにいないで練習しなさいと言われた。笑顔で、そう言ってくれた。
プロと実業団からオファーがあった。ヒカルは迷わず、都内の実業団に入ることを決めた。母のそばを離れたくなかったからだ。もちろんそんなことは誰にも口外しない。
実業団で成績を残し、1年目のシーズンが終わった日に母が言った。
『私が死んだら、セシアナの海に散骨してほしいの。あの青い空と青い海が好きだったから。ヒカルと真鈴が仲直りして、2人が活躍する姿が見たかったな』
……2カ月後、母は息を引き取った。遺骨は、再婚相手である義父の墓に埋葬された。
願いであったセシアナの海へは、一本だけ沈めた。
そして、もう1つの願いを叶えるために、フォレストビーナスとの契約に応じた。
失うものは、もうなにもない……。




