30☆事故なんですけど
ヒカルは、神月渉の前妻の娘。母は純粋な日本人で、野球関係者ではなく、いわゆる『一般女性』なのでメディアに顔露室はされていなかった。
当時26歳でアクアマリンのエースだった愛人との間に子供が出来た神月渉は、メディアに騒がれないうちにヒカルの母と離婚。まだ4歳だったヒカルは母と2人で暮らすことになった。
一方、真鈴は母の実家で祖母に育てられた。小学校に上がるタイミングで両親の元で暮らすことになる。
地域の女子野球チームで、2人は出会う。お互いの存在は父からオープンに知らされていたので、義理といえど姉妹が出来たことに2人はお互い喜んでいた。
距離が縮まるのに時間はかからなかった。
当時5年生、キャッチャーをやっていたヒカルは、まだ1年生の真鈴の投球練習に、毎日付き合っていた。
温和なヒカルの母と大雑把な真鈴の母も、特にいがみ合うことなく義姉妹の成長を微笑ましく見守った。
「……大好きだった。本当に大好きだったんです。優しくて温かくて、あたしより背が低いくせに、上手くいかなくてあたしがふてくされると『大丈夫、大丈夫』っていつも抱きしめてくれた。母親が違うなんて関係なかった。あたしにとっては、ヒカルは世界でたった1人の、本物の『お姉ちゃん』だったんです」
だが、ある日の公式戦が、その歯車を狂わせる。
小学5年生になった真鈴が投げた渾身のインコース。それが相手バッターの側頭部を直撃した。
鈍い音と共に崩れ落ちるバッター。救急車のサイレン。真っ青になってマウンドで立ち尽くす真鈴。
幸い相手は軽傷で済んだが、幼い真鈴の心には「自分のボールが人を壊す」という恐怖が、呪いのようにこびりついてしまった。
「それ以来、あたしは内角高めに投げようとすると、指先が凍りついたように動かなくなってしまった。『イップス』ですよ……」
真鈴は試合に出られなくなった。大好きな野球はもうできないと、グラウンドの隅で膝を抱えていた。
『大丈夫だよ、真鈴。私がついてる』
そう言って、真鈴を励まし続けたのがヒカルだった。
真鈴が投げられなくなって数ヶ月。ヒカルはある決意をしてバッターボックスに立った。
『私と練習しよ? ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、また投げられるようになろう。大丈夫。私がついてるから、何も怖くないよ』
2人は早朝と放課後に猛特訓した。
初めは嫌だ無理だと駄々をこねていた真鈴だったが、ヒカルの言葉に動かされ、真鈴は震える手でボールを握った。
何度も何度も、外角へ外れるボール。だが、ヒカルは根気強く、何度も「ここだよ」と内角を指し示した。
1球、また1球。ヒカルの献身的なリハビリで、真鈴の恐怖が少しずつ自信へと書き換えられていく。
集中力が極限に達したその時。真鈴の指を離れたボールは、これまでで最高のキレを持って、内角へと吸い込まれた。
だが、奇跡は悲劇へと姿を変える……。
『ヒカル……っ!』
鈍い衝撃音が響いた。コントロールを乱したのではない。あまりに鋭く変化したボールが、ヒカルの想定を超えた軌道を描いたのだ。
避ける間もなかった。無情にも、硬球はヒカルの左目付近を直撃した。
「網膜剥離でした。ヒカルはそのまま緊急手術を受けることになりました。あたしのせいです。あたしが、あの優しすぎたヒカルを壊したんです……」
病室の外で泣き崩れる真鈴に、手術を終えたヒカルは、包帯を巻いた姿で微笑んでみせた。
『真鈴のせいじゃないよ。……いいボールだったね』
だが、その言葉が逆に真鈴を追い詰めた。
ヒカルはその後、より高度な治療を受けるため、実母と日本へ帰国した。
「小学生の間は、もう試合を見ることすらも出来ませんでした。ボールを見るだけで、左目を押さえて『大丈夫、大丈夫だから』って蹲るヒカルの残像が消えてくれなくて……」
諦めきれなかったのは真鈴よりも両親だった。中学生になった真鈴は、『このまま才能を殺してしまうのはもったいない』と、スポーツメンタルクリニックでイップスのリハビリを受けさせられた。
リハビリは順調に進んだ。初めは、再びボールを握ることすらも身体が拒絶していたが、父があらゆる伝手を使い、名高いカウンセラーやメンタルトレーナーを連れて来たおかげで、少しずつ克服の兆しがみられた。。
だが、あともう一歩が踏み出せない。マネキン相手ならば投げられるようになった内角高めは、やはり生身の人間では大きく外角へ反れて行ってしまう。
ヒカルに会いたい……。会って謝りたい。
そして『大丈夫だよ』と、あの優しい笑顔で抱きしめてほしい……。
治療が上手くいったら、きっと戻って来てくれる。
そしたら、自分もきっとまた投げられるように……。
「でも、ヒカルは帰って来なかった。治療が終わったらセシアナに、あたしのところへ戻って来てくれると思っていたのに、ヒカルはもうとっくに新しい人生を始めていた。治療は上手くいっていたんです。日本の高校で野球を再開してました」
ずっとずっと、罪悪感を抱えたまま待っていたのに……。
自分がイップスを克服することが、ヒカルへの罪滅ぼしだと信じて頑張ってきたのに……。
「……再会したのは祖父のお葬式の時です。あたしは中2、向こうは高3になってました。最先端医療を受けたとかで、傷跡すら分からなかった。ホッとしたと同時に、なぜあたしのところへ帰って来てくれなかったのかと怒りが沸いてきました。責めました。もう大学も決まっていました。あたしは3年間、ずっと待っていたのに……。野球が出来なかったのはヒカルじゃなかった。あたしのほうだったんです」
ヒカルは、真鈴から大好きなヒカルを奪った。
3年間という長い年月、大好きな野球も奪った。
もう戻って来ない。戻れない。
何かが弾けた音がした。
自分を縛り付けていた『呪縛』から、解き放たれた音だった。
「お葬式から帰ってきた途端、あたしは元の自分に戻ることが出来ました。3年間のブランクなんかなかったかのようでした。不思議なもんですよ。自分でもよく分かりません。『どいつもこいつも打ち取ってやる』、それしか頭にありませんでした」
高校に入り、急激に頭角を表した真鈴の名は、どんどん広まっていった。
しかし、流星のごとく現れたスーパー高校生には空白の期間があった。その理由を曝こうと掘り返された事件……。
そこには、仲良しだった義姉妹ではなく、『啀み合った異母姉妹』と、読者の妄想をかき立てる不実が記された。
「異母姉妹が仲がいいなんて、そっちのほうが珍しいから誰も信じませんよね。不仲になったのは事実ですけど、『不仲だったからケガをさせた』というほうが、みんなしっくりくるんでしょう。あたしはそんな記事どうでもよかったし、両親はゴシップに耐性があるので、特に否定も訂正もしませんでした」
話終わると真鈴は深くため息をつき、コーヒーを一口含んだ。もう湯気は立っていなかった。義姉妹の空白の9年間は聞くまでもない。
るなの喉はからからに乾いていた。カップを手にしたが、緊張で水面が揺れてしまう。
「……こんな情けない話、家族以外誰も知りません。天才だのスーパースターだのって持て囃されてますけど、あたしは単なる『復讐で出来た怪物』です。……それも、皮肉なことに、ヒカル以外限定のね。一番憎いあの人へは、今でも投げられない『呪い』が残ってる……」
真鈴の視線が左手に落ちる。るなとは全く違う、マメ1つない大きな手。事故から12年経ってもなお、真鈴は深く負った罪悪感に苦しんでいる……。
だが、るなは思う。真鈴の負った心の傷もヒカルが負った網膜剥離も、お互いの優しすぎた愛情が生んでしまったゆえの愛憎劇なのだと……。
ヒカルのことだ。セシアナに戻らず日本に留まった理由は、きっと真鈴のため。自分に会えば、真鈴は永遠に氷の檻から出られなくなると予想していたのだろう。ヒカルの自己犠牲が、真鈴を更に追いつめてしまったという後悔もあったに違いない。
「でも、明後日の登板は……」
「無理です。あたしには分かる。明後日はきっと、この指は言うことをきかない。さっきはるなさんを汚されたくなかった一心で啖呵を切ってましたけど、独りになった途端、あの時のヒカルの蹲った姿が蘇ってきて……。もう……投げられなくなるのはイヤなんです……」
真鈴はカップを雑に置き、両手で頭を抱えた。野球選手の中でも、ピッチャーは特に精神的なものがプレイに現れる。それが理解出来るからこそ、るなも苦しくなった。
「言うまでもないと思いますが、今の話は誰にも言わないでくださいね……」
「うん、もちろん……」
「明後日は登板回避させてもらいます。肩の調子が悪いとかなんとか言えば通るでしょう。すいませんが、口裏合わせてもらえませんか?」
「……それでいいの?」
「いいんです。きっと、ヒカル以外になら投げられる。いつものあたしでいられる。フォレストビーナスとの連戦さえ逃れられれば、イップスの再発に怯えなくていいはずです。そしたら、あたしはまた怪物でいられる……」
俯き、くぐもった声が弱弱しい。るなは複雑な気持ちだった。
本当は『逃げないで』と言いたい。プロのアスリートとして、個人的な理由で登板回避など有り得ないからだ。だが、今のるなには何も言えない。
るなだって怖いのだ。自分の大好きな先輩の闇を、これ以上知ってしまうのも怖い。真実を知って、真鈴のように嫌いになるのも怖い。
何より怖いのは、真鈴のイップス再発と憎悪の拡大だ。
「……そっか、分かった。ドルフィンズの……ううん、セシアナ女子野球の神月真鈴が壊れないのがその方法しかないなら、私はそれでもいいと思う。でも……」
「……でも?」
真鈴が少しだけこちらを向いた。るなは身体ごと、真鈴を真っ直ぐ見つめる。
それは、自分の気持ちも受け止めて欲しい、という表しのつもりだ。
「私は真鈴のチームメイトでもあり、ヒカル先輩の後輩でもある。……悪いけど、私とヒカル先輩の仲を裂くことはやめてほしい」
「るなさん……」
すがるような焦げちゃ色の瞳が揺れる。
「……ごめん。だからって、真鈴の気持ちが全く分からないわけじゃないから。真鈴と同じように、私も優しいヒカル先輩が大好きなの。失いたくないの。大切な人がいなくなっちゃって寂しい気持ち、あなたなら分かるでしょ……?」
ずるい言い方だとは思う……。自分は過酷な選択を求めている。
だが、自分にだって権利があるのだから、真鈴が選べる答えは一つしかない。
真鈴は俯いた。小さく首を振る。
「……分かってます。あたしはるなさんのことが大好きだけど、るなさんはあたしのものじゃない……。分かってます。分かってはいるんですけど……」
「同じチームにいるんだから、私はイヤでも真鈴と毎日一緒にいる。それでも寂しいの? ヒカル先輩に取られちゃうとでも思うの?」
「……」
沈黙は肯定だ……。
傷は深い。過去に置き去りにしてきた義姉への愛が、今でも彼女を葛藤の海で溺れさせる……。
「大丈夫! 真鈴の料理、おいしいから好きだよ?」
優しいところも……と言うのをやめて、けらけら笑い背中を叩いた。るなが落ち込んだ時に、いつも兄がそうしてくる。すると、ツッコミたくなって涙が引っ込むのだ。
「……なんですか、それ」
真鈴がプッと吹き出した。
「お嫁にでも来てくれるつもりですか? 日本じゃまだらしいですけど、セシアナは同性婚できますしね」
「私がお嫁さんなの? ご飯作ってくれるのは真鈴なのに?」
「同性婚なんだから、そんなのどっちでもいいんです。一生ご飯作りますから、一生そばにいてくれますか?」
「えー……、やだ」
「えー! じゃあもう二度とご飯作りません。るなさんなんか、魚介類とフルーツたっぷりのセシアンカレーばっか食べるといいですよ」
「えー、それもやだー。作ってよぉ」
真鈴の右腕をゆさゆさ揺さぶると、「るなさんには敵いませんね」と苦笑した。とりあえず、今日のところは大成功だ。
姉にはなれないが、年上の妹にはなってあげられる。
ヒカルの穴は埋められない。恐怖も寂しさも憎しみも愛しさも、全てヒカルへ向かっている。
母が、兄が、ヒカルがくれたものを、今度はこの闇でもがく孤独なエースに……。




