106☆渡さないんですけど
真鈴はシャニータウンホテルの部屋で、独りぼーっとテレビ画面を見つめていた。
登板日ではないため、今日の合同練習には顔を出さずホテルで静養していた。ベッドに転がり、虚ろな目で小さな遊撃手の姿を追う。
『関係ないでしょ! 帰ってよ!』
……あれから3日が過ぎた。未だ既読のつかないメッセージ。あの時、彼女は確かに泣いていた。裏切り、傷付けてしまった愚かな自分……。
自分はもう、この人に触れることすら許されないのだろう……。
「るなさん……」
先発のリホに続き、るなが元気よくベンチから飛び出してきた。実況が本日のスタメンを読み上げる。キャッチャーのところで、真鈴の頬筋がピクリと強ばった。
……宇田川チヒロ……。
るなを愛するがゆえに己が暴走するのを恐れ、るなに近付く者を引き剥がそうとする。取られるのが怖い、傷付けるのが怖い、愚かな女……。
「あなたのせい……にできたら、よかったんですけど……」
その手中にハマってしまった自分は、もっと愚かなのだが……。
るなは、汚れた自分とは違う世界に生きている。キスくらい、どうってことないではないかと思う自分とは違う。ましてや、るなにとって、チヒロは大事な存在だった。『誰とも遊ばない』と誓ったはずなのに……。
きっと、もう信頼は取り戻せない……。
「はぁ……」
この3日間幾度となくループしている思考にため息をつく。寝返りをうち、サイドテーブルに置いたリモコンに手を伸ばした。
ずっと見ていたい。でも、それはもう叶わない。そばにいられない現実に、胸が押しつぶされそうになる。真鈴の人差し指は、電源ボタンに触れようとしていた。
「……あっ!」
だが、画面の中で先発のリホが顔面に打球を受けマウンドに崩れ落ちた瞬間、思わずベッドから飛び起きた。
「リホさん……!」
緊迫するグラウンド。動揺する内野陣。タンカで運ばれていくリホの姿に胸を痛めながらも、真鈴の視線はやはり内野に取り残されたるなを追ってしまっていた。
試合開始から、たった3球での緊急降板。ブルペンの準備が間に合わないのは明らかだ。画面越しにも、球場全体のピリついた空気が伝わってくる。
テレビカメラが、ベンチへ走るチヒロを捕らえた。監督と話しながら、マウンドを指差している。真鈴はこのハプニングに、電源ボタンに添えた指を動かせずにいた。
「……えっ、まさか……」
画面が切り替わり、顔を蒼白にして首を振るるなが映し出された。
……まさか、チヒロはるなに投げさせろと言ったのか……?
無理に決まっている。いくら元バッテリーで球種が頭に入っているからとはいえ、マウンドを降り、野手としてドルフィンズに入ったるなが、準備もなしに投げられるわけがない……。
それはピッチャーである自分が一番よく分かっている。中途半端な肩では、ケガやフォアボールのリスクしかないのだ。安易な発想にもほどがある。
……だが、チヒロがるなの手にボールを握らせ、何かを言った瞬間るなの表情が一気に変わった。
大きく頷いたるなは、ベンチからボロボロのグラブを胸に抱き、マウンドへと駆け上がっていく……。
「うそ……でしょ……?」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。自分とるなの関係に割り込んできたのはチヒロのほうだと思っていた。
……だが、それはとんでもない思い上がりだった。高校時代から築き上げてきた、二人だけの絶対的な信頼関係……。
2人の間には、誰も入れない『絆』があった……。
「そりゃ……そうですよね……」
ギュッとシーツを握りしめた。考えてみれば簡単なことだった。自分とモエカに当てはめてみれば、至極当然ではないか。
なのに、なぜ自分は傷ついている……?
実況が、日本でのるなの経歴と実績を読み上げている。解説はこの采配に疑問の言葉を発している。何も知らないくせに。数字だけでは、るなを計ることはできないというのに……。
るなは、自分が認めたピッチャーだ。両投げなんて並大抵の技ではない。キレのある変化球だって、簡単に攻略できるものではない。るなは自分にない、強い武器を持っている。
身長もパワーもないあの小さな身体。閉じ込めてしまった才能を、こんな土壇場で引き出せるのは……。
「……そうだ!」
真鈴は電源ボタンではなく、録画ボタンを押した。マウンドでは、るなが投球練習を始めた。チヒロのアップも映る。今にもこぼれ落ちそうな嬉し涙。るなの1球1球を受けるたび、エクスタシーでも感じているかのような恍惚とした表情にも見える。
球審の手が上がった。いよいよ試合再開だ。祈るように画面を見つめる真鈴の目の前で、凄まじい光景が繰り広げられた。
2回、3回、そして4回……。
フォーク、スライダー、シュート、チェンジアップ、カットボール、スローカーブ、スプリット。かつて『七色の変化球』と恐れられたあの才能が、チヒロの冴え渡る配球に導かれ、ナイトシャークスの強打者たちを次々と翻弄していく。
「すごい……! さすがるなさん……」
チヒロが構えたミットに、寸分の狂いもなく吸い込まれる変化球。最後は渾身のカットボールでセカンドゴロに仕留め、見事4回無失点。
球場と実況のものすごい興奮が、画面越しに伝わってくる。役目を終えたるなから、安堵の笑みがこぼれた。つられて真鈴の頬も緩む。なのに、チヒロとハイタッチを交わしたのを見た瞬間、真鈴の目から一筋の涙が流れ落ちた。
そこにあったのは、互いを100%信じ切っている『最強のバッテリー』の姿だった……。
嫉妬や寂しさがないと言ったら嘘になる……。だがこの涙は、2人の凄まじい絆に対する、純粋な敗北感と感動だった……。
3日間、未読のままのメッセージ。もう既読になることはないだろうと送り続けるのを止めたのに、真鈴の手はいつの間にかスマホに伸びていた。
『感動しました。さすがるなさんです』
思いを伝えたかった。読まれなくてもいい。この気持ちを吐き出さずにはいられなかった。試合はそのまま中継ぎ陣が完封リレーを引き継ぎ、ドルフィンズの快勝。
本日のハイライトが流れ、画面がヒロインインタビューに切り替わる。チヒロがるなを強引にお立ち台へと引っ張っていく姿が映し出された。
マイクを向けられ、緊張でカチコチに固まるるな。おなじみの光景だ。だが、今回違うのは、チヒロがひょいっとマイクを奪い取っていじったり、フォローを入れる場面があったことだ。真鈴はその微笑ましいシーンに、笑いながら涙を拭った。
「ふふっ、やっぱりかわいい人……。でも、エースの座は渡しませんよ?」
カメラマンたちの写真撮影に応じるるなの背後では、るにゃキャットグッズがスタンドで揺れている。
エースの座も、セシアナ人気ナンバーワンの座も渡さない……。
そう画面の中のるなに宣言し、真鈴は愛車のキーを手に取った。




