107☆誓うんですけど
試合後、るなはトレーナーにコンディショニングルームへ呼ばれた。
診察台でのアイシングとコンディショニングチェック。肩や肘だけでなく、股関節も膝も限界ギリギリだった。心地よい冷たさと、突っ張った筋肉を優しく伸ばす静的ストレッチ。それもるなにとっては久しぶりの感覚だ。
「こりゃ明日、筋肉痛で歩けないなんて騒ぎじゃないかもしれないぞ? 今日はひたすら冷却と可動域のケア。明日からの温熱療法とストレッチもしっかりやらないと」
「ふあーい……。やっぱ5日くらいは守備もいけませんよねぇ……」
「うん。無理だね」
トレーナーにキッパリ速答され、るなは「ですよねぇ……」としょんぼり項垂れる。
セシアナの女子野球では、先発ピッチャーは中6日、つまり、週に一度の登板が基本である。登板後はリカバリーサイクルメニューに従って、次の登板日に向けて徐々に身体を元に戻していくのだ。
急遽引き受けたはいいが、野手転向したるなは『投げたら1週間は試合に出られない』ということをすっかり忘れていた。
「はぁ……しばらく試合、出れないのかぁ……」
「『出たい』って気も失せると思うけど? 明日になったら」
脅され、完投試合の後の体調を思い出す。関節という関節が熱を持ち、筋肉痛でぎこちない動きをしていた。心地よい疲労だったのは、投げる継続と若さもあったはずだ。
「トレーナー、リホは……?」
うつ伏せで肩と膝に氷嚢をあてられながら、るなは顔だけトレーナーに向ける。トレーナーはゆっくりとるなの膝を曲げて優しく伸ばしながら「病院」と短く答えた。
「検査で脳には異常ないけど、念のため一晩だけ様子見で入院だって。意識もハッキリしてて、本人いわく左耳が聞こえにくいとか……。頬骨の辺りがかなり腫れてるらしいよ。あの美人さんが、かわいそうにな……」
「そっか……。耳、治るんですか?」
「打撲による一時的なものかもしれないから、そっちも様子見だろうなぁ。あいつらしいよ。検査中なのに『試合はどうなりましたか?』って頻りに聞いてたらしい」
ははっ、と苦笑いを浮かべるトレーナー。
「ほんと、リホらしいですね。明日、寮に帰ってきたらお見舞い行こうかなぁ……」
「るな自身が無事に歩けたら、な。ほいっ、今度は仰向け」
「はーい……」
またも脅され、るなは調理台の魚のような気分でもぞもぞ寝返る。アイシングの氷嚢をしっかりと固定し直し、今度は股関節の可動域を確かめだした。トレーナーの手が温かい。
コンコン、とコンディショニングルームの扉がノックされた。トレーナーが「はーい。どうぞー」と応答する。遠慮がちに扉が開く音がした。
「るなさん、いらっしゃいますか?」
真鈴の声だった。今日は登板後のオフで、ホテルで静養していたはずだ。試合は終わったというのに、わざわざ球場に足を運んだのか。トレーナーも驚き、カーテンの向こうに「あ、あぁ、いるよ」と答える。
「失礼します」
足音が近付いてくる。カーテンに手をかけた。数センチだけ開き、真鈴の端正な顔半分だけが覗く。目が合った。るなは反射的に視線を逸らす。
「お疲れ様です。トレーナー、あとどのくらいで終わりますか?」
ベッドに近付きながら、真鈴が問いかける。
「んー、直後のケアは一段落したから、あとは10分ほどアイシングして、最後に軽く伸ばしたら終わりだよ。どうした? 肩の具合でも悪いか?」
「……いえ。アイシングの間の10分だけでいいので、少し席を外してもらえませんか?」
「え? あ、あぁ……」
トレーナーはそっぽを向いているるなをちらりと一瞥したが、すぐに「分かった」と真鈴に向いた。
「よし、じゃあ少ししたら戻るから、このまま横になってるんだぞ?」
トレーナーはそう言ってポンとるなの足首を叩くと手際よくタオルを整え、足早に扉を閉めて行った。
るなは仰向けのまま、黙って天井の蛍光灯を見つめていた。肩や肘、膝に乗せられたアイシングバッグの冷たさが、火照りきった身体にじんわりと染み込んでいく。
だがそれ以上に身体を強張らせていたのは、ベッドの横に佇む真鈴の存在だった。
「……ひとまず、お疲れ様でした」
柔らかい声が降ってくる。るなは返事もせず、視線も合わさなかった。どういう顔をして真鈴を見ればいいのか分からなかったのだ。
真鈴は静かな足取りでベッドへ寄ると、トレーナーが使用していた丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。
3日間、ずっとメッセージを開けずにいた。開きたくなかった。どうせ置き手紙のようにまた、言い訳と綺麗事ばかりが並んでいるのだろうと思ったからだ。
引きずりたくなかったのだ。るな自身が割り切ればいいことだから。読んでしまったら、返信をしてしまったら、きっと気持ちの整理に時間がかかってしまう。だから、読みたくなかったし、口もききたくなかった。
「やっぱり、あなたは最高ですよ」
そう言って、真鈴はくすっと笑った。
「……何が? からかいに来たわけ?」
顔ごとそむける。真鈴は「違いますよ」と、るなの左手をそっと開いた。
マメだらけの小さな手。今はそこに、擦り傷がたくさん刻まれている。指の皮はめくれ、爪はギザギザに磨り減り、誰が見ても痛々しい。真鈴はそれを、宝物を扱うかのような手付きで優しくなでた。
「中継、見てました。居ても立ってもいられなくて、来ちゃいました」
「……そう」
そっけなく返す。肩も肘も固定されているので、強く振り払うことはできない。るなはスッと掌を返し、真鈴の手から離れた。だが、まだそこに温かい物があるのが感じられる。
「るなさんは……あたしのことが、嫌いですか……?」
「……別に。好きでも嫌いでも、どっちでもない」
「まぁ、そう言われると思いましたよ。……でも」
突然、上からの光が遮られ、視界が影に包まれた。部屋の電気が消えたのかと思い、るなは顔を正面へ戻そうとした。その瞬間、柔らかく温かい感触が、るなの唇に触れた。
すぐにそれが何か分かった。自分が、何をされたのかも……。
一瞬の暗がりが遠退き、天井の蛍光灯が視界に入る。至近距離で、にっこり笑う真鈴の顔があった。るなはアイシングバッグの固定も忘れ、ベッドから勢いよく跳ね起きた。ドサリドサリと鈍い音を立てて、肩と膝に乗っていたアイシングバッグがベッドと床へ転がり落ちた。
激しく動いた衝撃で冷やされていた関節に痛みが走り、るなは「うぐっ……」と顔を歪める。
「な……何するのよ!」
「何って? 誓いのキスです」
「……は、はぁ? あなた……バッカじゃないの! こんなことして……」
「もう嫌われてもいいです。それを覚悟で忠誠のキスをしに来ました。無視されても罵られても、あたしのるなさんに対する憧れは変わりません」
るなは唖然とした。真鈴の目は真剣だ。罵る言葉すら出て来ない。
ぽかんと口を開けているるなの表情を見ながら、真鈴は再び丸椅子に腰かけた。そして今度はるなの右手に触れる。るなは反射的に引っ込めようとしたが、真鈴が肘ごと固定した。
「あぁ、ダメですよ。アイシング中に急に動かしちゃ」
「わ……分かってるわよ! 誰のせいでこんな……」
「はいはい。怒ったら体温上がっちゃいますよ? あたしはそろそろ帰らなきゃなので失礼します」
言うだけ言って、真鈴は立ち上がる。どこまで強引でマイペースなのだろう。るなは呆れて「あなたねぇ……」とため息を漏らした。
「さっき、最高級のステーキ肉を発注しました。もうすぐ届くと思うので、先に帰って祝勝会の支度をしておきます。シャニータウンホテルのあたしの部屋のバーコードキー、まだ削除してませんよね? 勝手に入って来て構いませんので、ご馳走楽しみにしててください」
不覚にも、るなの食いしん坊スイッチが、瞳を輝かせてしまう。
「えっ! ステーキ? ……あ、いや、今日は……」
「……もしかして、チヒロさんと約束してるんですか?」
「約束っていうか、チヒロが勝手に……」
「へぇ? そうですか。確かにこの前のビーフシチューはおいしかったですけど、今日の最高級ステーキには敵いませんよ? 料理はやっぱり食材です。限界まで疲弊したるなさんの身体をリカバリーさせるのに必要なのは、生ぬるい家庭料理ではなく、最高級のプロテインと極上の赤身肉です。どんなに腕が良くても、食材がお粗末だったらお話になりません」
自信満々に見下ろす真鈴の瞳には、『チヒロには負けない』という青い炎が宿っていた。
「確かに、彼女のるなさんへの愛情も2人の信頼関係も本物です。見せつけられて、涙が出るほど悔しかったです。でも……」
真鈴は一度言葉を切り、にやりと口角を上げた。
「同時に、誇らしかった。あたしが好きになったピッチャーは、尊敬したるなさんは、やっぱりこんなにも凄い人なんだって。涙が出るくらい感動したんです。だから、あたしはあなたを守りたい。ずっとそばで支えたいんです。あんなヤンデレなんかより、このセシアナナンバーワンのエースであるあたしのほうがずっと相応しいですから」
るなは今度こそ絶句した。真鈴は唇の端を上げ、いつもの強気で美しい笑みを浮かべている。言葉通りの強気なオーラが、身体中から溢れ出していた。
触れただけの軽いキスではあったが、真鈴から重ねてきたのは初めてだった。他の人とは違う、るなを大切に思うからこそ、あえてしてこなかったキスを……。
それはチヒロへの宣戦布告でもあり、『今までとは違う』という、るなへの宣戦布告のようにも感じられた。
「……『あんなヤンデレなんかより』って……真鈴も似たようなもんだけど……」
呆れと困惑の混ざった声でポツリと呟く。
「ふふっ、言ったでしょう? あのヤンデレ女と一緒にされるのはちょっと不愉快ですが、あたしはもうどんなに罵られたってヘッチャラなんです」
真鈴はドヤ顔でそう言うと、床に落ちてしまったアイシングバッグを丁寧に拾い上げた。「ほらほら、ちゃんと横になって」とされるがままのるなを寝かせ、丁寧に肩と肘に乗せていく。
「じゃあ、ちゃんとトレーナーさんの指示に従って、ストレッチが終わってから来てくださいね?」
それだけ言い残すと、真鈴は優雅な足取りで扉へと向かった。ドアノブに手をかけ、一瞬だけ振り返る。その瞳はどこまでも真っ直ぐで、迷いなどなかった。
「……そうそう。送ったメッセージ、たまには既読つけてくださいね」
バタンと扉が閉まり、静寂が戻ってきた。嵐のような去り際に、るなは深いため息をつく。関節は冷やされていくのに、顔も体幹も熱いままだ。
「なんで、私の周りはこんなんばっかなの……?」
ぼやき、脱力する。コンディショニングルームへ来る前に『イチゴタルト買って、マンションの下で待ってるからねー』と、返事も聞かず走り去ったチヒロ。すでにステーキ肉を注文したからと言い残し、さっさと支度に帰る真鈴……。
強引で不器用すぎる、2人の愛情表現。その熱さと重さを感じながらも憎めないのは、胃袋を掴まれたからだけなのか……?
程なくして、トレーナーが戻ってきた。仕上げの丁寧なストレッチが始まる。これが終われば、どちらかに断りの連絡を入れなければならない。いや、面倒だから、いっそ3人で……。
るなはやがて来る新しい嵐に辟易しながらも、投げ抜いた4回の『祝勝会』という名のご馳走に密かに心を躍らせていた。




