104☆懐かしいんですけど
1回表。1アウト。るなの緊急登板が始まる。
チヒロの親指が左のバッターボックスを差した。『ネクストバッターは左打者』の合図だ。るなは両投げ用グラブを右手にはめ、左手でボールを握る。
両投げピッチャーの場合、バッターが打席に入る前にどちらの腕で投げるか意思表示をしなければならない。球審がそれを確認し、打者やベンチへ伝えるのだ。
るなは主に、右打者には右投げ、左打者には左投げで応じる。打席に入ってしまうと変更ができないため、チヒロのデータと記憶が頼りだ。
チヒロの合図通り、2番バッターは左打席に入った。あざ笑うかのようにニヤニヤしている。『何なの? あのチビ』とでも言いたげに、元チームメイトのチヒロを見下ろす。
その態度を一瞥したチヒロは、マウンドのるなにニヤリと笑ってみせた。
『見せてやろ!』
とっておきのいたずらを仕掛けた子供のような、わくわくを隠せない表情だった。
アウトローのスライダー。チヒロがサインを出した。るなは頷き、プレートに足をかける。
ナイトシャークスの応援歌が流れ出した。小さな両投げピッチャーに、球場内の誰もが釘付けになった。
1球目。注文通りのアウトロー。打者は見送ると思っていたので、もちろんストライクゾーンで決めた。ノーボール、ワンストライク。
もう1球、おかわりのサインが来た。アウトローのスライダー。空振り。ノーボール、ツーストライク。
3球目。まさかの同じサイン。さすがに……と一瞬躊躇したるなだったが、自信に満ちたチヒロの目を見て頷いた。
「ストライーク!」
3球で見逃し三振。ライトスタンドだけでなく、レフトスタンドのナイトシャークスファンからも、わっと地鳴りのような大きな歓声が上がった。
一塁側ドルフィンズベンチは、みな『おぉー!』という驚きの表情。るなの実力を肌で感じているチヒロだけが、すでに勝利したかのようにぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいる。
打者は何が起こったのかと目を丸くし、呆然としていた。球審に注意され、我に返って打席を離れる。3番打者がすれ違う際、何かを尋ねていた。三振した2番打者は、ただ首を横に振るだけだった。
「るなーっ、いいよー! ルナイダー、キレッキレ!」
キャッチャーミットをぶんぶん振るので、チヒロも球審に注意された。ぺろっと舌を出す。1つアウトを取れたことで、るなは少しだけ緊張が溶けた。はしゃぐチヒロとは裏腹に、冷静を心がける。さっきまでうるさかった鼓動も、今は心地よい緊張感へと変わっていた。
「早くーっ」
るなは大きく口を開けてアピールした。次は左右どちらなのかとチヒロに催促する。「やばっ」とチヒロの口が動いた。打者が右打席に入ろうとしていた。るなは急いでグラブを左にはめ直す。
ジト目を送ると、チヒロは両手を合わせた。もう少し緊張感を持ってほしいものだ。興奮がにじみ出ているチヒロは、カーブのサインを出した。しかもど真ん中に投げろ、と。
クリンナップにど真ん中……? と首を傾げたくなったが、今はチヒロを信じるしかない。頷き、ど真ん中にスローカーブを投じた。
打者は大振り。スローすぎるるなのカーブは、例え真ん中に来ようがタイミングが取りにくいので空振りしてしまう。
次はカットボール、次はチェンジアップ、と前のめりなチヒロの注文通りに投じる。最後のシュートでサードゴロを打たせ、スリーアウトを取った。
「るなるなるなるなーぁ! やった、やったねー!」
勝利どころか、優勝したかのようにチヒロは大はしゃぎでマウンドへ駆け寄って来る。抱きつこうとするので、ひらりとかわした。素に戻ったるなは、はぁーっと肩で大きく息を吐く。
「よかった……。これでホームランでも打たれたら、リホに顔向けできなかったぁ……」
「何言ってんのー! るなが打たれるわけないでしょ! 私とるなだよっ? 最強コンビじゃーん!」
ベンチへ戻ろうとするるなの背をばしばし叩きながら追いかけてくるので「痛いってばー」と振り払う。観客席からどっと笑いが起きた。
「るなっ! お疲れさま!」
ベンチ前に出てきた監督やコーチが、晴れやかな笑顔で待ち構えていた。るなも笑顔で「疲れました」と冗談を言ってみせる。
「まぁ久しぶりの登板だし疲れるのも無理ないと思うが、いけるとこまで行ってもらおうか!」
「え……? 中継ぎ、さすがにもう肩できてるんじゃないんですか?」
「できてると言えばできてるが……」
監督が意味深にコーチと目配せをする。コーチがうんうん頷く。その頷きの意味を分かりかねていると、監督が「6回」と肩を叩いてきた。
「いや、5回でもいい。両投げは肩の疲労が半分とはいえ、何ヶ月も離れてたからな」
「え……! え、え、え、え? ちょっと待ってくださいよ、監督! 中継ぎの肩ができるまでって言ったじゃないですかぁ。もうできたんなら、ショートに戻してください」
「まぁ、そう言うな。ピッチャー……楽しかったろ?」
心臓がドクンと跳ねた。温かな微笑みで覗き込まれ、るなは反論できずにいた。
……楽しかった……。
当たり前だ。ピッチャーが大好きだった。嫌いで辞めたんじゃない。打ち取れなくなったから、辞めざるを得なくなったのだ……。
そんな自分を野手として拾ってくれたのはドルフィンズだ。ピッチャーを続けられないのは悔しかったが、野球ができればどこでもいいと新天地に来た。
それが、今更……。
「は、半分じゃないです! 両腕使うから、倍疲れるんですよー? それに、下半身はひとつなんです!」
「そうか……なら、自分が行けるとこまででいい。……見てみろ」
促され、観客席に視線を移す。たくさんの『るにゃキャット』のタオルやぬいぐるみ、新発売の扇子がスタンドで揺れていた……。
るなファンが、期待の眼差しで瞳を輝かせている。あの中には、かつてるながピッチャーであったことを知っている人もいるだろう。久しぶりに見る自分のピッチングに感動してくれただろうか。知らなかった人は、初めて見る自分のピッチングに感動してくれただろうか……。
「ほら、『うん!』は?」
後ろから、チヒロが急に後頭部を押してきた。突然のことにつんのめる。そんなるなを羽交締めにし、チヒロは「頑張らせます!」と監督に言った。
「今日のキャッチャーをチヒロにしておいてよかったよ。頼むな、チヒロ」
「はーい! 任せてください、監督ー」
陽気に返すチヒロ。「ちょっ……監督ー」と呼び止める声も虚しく、るなは羽交締めにされたままずるずるとキャッチボールゾーンへ引きずられて行く。
抗議したところで、監督が審判に交代を告げない限りはショートに戻れない。るなは腹をくくり、ようやくロックを解除したチヒロを睨み上げる。
「打たれたら、チヒロのせいだからね?」
「うんうん、いいよ? その代わりぃ……」
「……なに?」
「投げきれたら、この前のこと……許してくれる?」
「それは別!」
速答すると、チヒロは「やっぱ?」としょんぼり項垂れた。「早く構えなさいっ」とグラブでチヒロの背を押す。両投げのるなの場合、両肩を温めなければならない。投球練習にも倍近くの時間がかかる。
心底嬉しそうにするチヒロを見ていると、ここにチヒロがいてくれてよかったと思えた。緊急登板は、チヒロの存在がなければ自分には回って来なかっただろう。万が一提案した人がいたとしても、キャッチャーがチヒロでなければ、絶対に引き受けてなかった。
大好きだった相棒。息の合ったバッテリー。絶大な信頼があったからこそ、自分はマウンドに立つことを決意できた。
「るなっ! この試合、絶対勝とうね!」
返球しながら、眩しいほどの笑顔を向けてくるチヒロ。るなの喉の奥に刺さっていたトゲが、静かにほろりと落ちて行く……。
「チヒロっ」
スリーアウトチェンジ。2回の表が始まる。マスクを被り直すチヒロの腕を掴み、るなは真剣な眼差しで見上げる。
「勝って……もうバカなことしないって誓ってくれたら……」
「……許してくれるのっ?」
「……ゆ、許さないけど……また、一緒にご飯食べてあげてもいい」
「ぷっ! なにそれー。それって、また私の手料理が食べたいだけでしょー? ……でも……」
防具一式装備したまま、小さなるなをむぎゅーっと抱きしめる。
「ありがと、るな! 大好きだよ! るなの好きなお肉料理、たーっくさん作るから、復活のお祝いしようねー!」
「く、苦しいってばーぁ! 試合中ー!」
「えへへっ。じゃあ、試合終わったら、いっぱいハグさせてね! 9回までリードは任せて!」
言って、チヒロはホームベースへダッシュして行った。その背に「無理だってばぁ」と吐き捨て、るなもマウンドへ駆け戻る。今のコンディションでは、実際4回がいいところだろう。
それでも不思議と、自信たっぷりやる気満々のチヒロとなら、やれる気がする……。




