103☆緊急なんですけど
真鈴やチヒロと話さなくなって3日が過ぎた。
登板日でない真鈴は合同練習に顔を出さないので会うことはなかったし、ムードメーカーのキャッチャーになりつつあるチヒロとは、試合に関すること以外では一切口をきかなかった。
目が合うとすぐにるなが逸らしてしまうので悲しそうに眉尻を下げるが、チヒロは相変わらず活発で誰とでも明るく接する。まるで、もうずっと長いことドルフィンズにいたように溶け込んでいる。
チヒロがどこへ泊まっているのかなんて知らない。知りたくもない。ホテルだって、真鈴の部屋だって、どこでも好きに泊まればいい。汚されたぶたさんパジャマもシーツも、本当に処分したのかもどうでもよかった。
2人からの未読のメッセージが貯まっていたが、それも昨日からぴたりと止んだ。既読がつかないので、やっと諦めてくれたのだろう。
……だが、このチームデ一緒に野球をやる以上、いつまでも無視し続けるわけにもいかない。それは分かっている。自分が吹っ切らなきゃ、消化しなきゃ、変わらなきゃ、この関係に終わりはない……。
*
今日からナイトシャークス戦。チヒロの古巣チームとの3連戦だ。
データ重視で、スタメンキャッチャーにはチヒロの名が記された。より気合いが入っているのが伝わってくる。ナイトシャークスはキャッチャーの層が厚いし、長距離バッターが多いことでも有名である。
「リホ、頑張ってね! 後ろは任せて?」
るなもなるべく明るく振る舞う。ブルペンで肩を温めてきたばかりの先発のリホが「ありがとうございます」とぺこり頭を下げた。
まだショートカットには見慣れないが、美人系のリホはどんな髪型でもよく似合う。颯爽とベンチを飛び出していく。るなも駆け出し、1回の表、ショートの守備位置に着いた。
ホームベースの奥で腰を落とすチヒロが、ナイトシャークスの1番バッターに声を掛けている。相手の外国人選手は苦笑していた。和やかに見えたが、バッターボックスに入った瞬間、2人とも勝負師の顔に切り替わった。
リホの1球目、ゾーンいっぱいのアウトローに決まるシュート。審判の手が上がる。2球目はスローカーブで空振りを取った。
「おー、絶好調」
るなは思わず呟いた。チヒロからの返球を受け取ると、リホはすぐにセットポジションに入った。相手に配球を読む暇を与えない、間髪入れず眈々と投げるのも、リホの大きな武器だ。
「……危ない!」
3球目、ピッチャー強襲の鋭いライナーが、リホの顔面を襲った。球場全体から悲鳴が起きる。吹き飛ぶようにマウンドへ崩れ落ちるリホ。リホを襲った打球をファーストへ投じ、るなはリホの元へ駆け寄った。
「リホっ! 大丈夫っ?」
「だ……いじょうぶ……です……」
るなだけでなく、キャッチャーのチヒロも内野陣も、コーチやトレーナーも駆け寄った。患部を押さえ立ち上がろうとしたがフラついてしまう。動くなとトレーナーに強く言われ、リホはもう一度その場に寝かされた。
どんな時でも、ほとんど表情を変えないリホが、苦痛に顔を歪める。避けきれないほどのスピードのライナーをまともに食らったのだ。頬骨と耳の間に当たったらしく、みるみるうちに腫れ上がり、紫色に変色していく。
騒然とする観客席。打ったバッターも、申し訳なさそうに覗き込んだ。トレーナーは自分のブルゾンを脱いでリホの顔に被せ、「担架をっ」と叫ぶ。監督は血相を変えてプルペンとの連絡を始めた。
るなは見守ることしかできなかった。すぐに担架が到着し、リホは運ばれて行く。動揺を隠せずにいる内野陣だけが、マウンドに取り残された。
監督とピッチングコーチたちが、ベンチで慌ただしく緊急登板の連絡をし続けている。イラ立ちが見える。たった3球の降板なのだ。中継ぎ陣の肩ができているわけがない。
「コーチ!」
チヒロがマスクを取り、ベンチへ走って行った。コーチへ何か伝えると、ブルペンとを繋ぐ受話器を片手にした監督の元へ2人で駆け寄っていく。
球場のざわつきは静けさへと変わっていた。誰もがこの予測不可能な緊急降板に言葉をなくしている。
ベンチで監督と話すチヒロが、突然マウンドを指差した。監督とコーチも目を見開き、こちらに向いた。るなと目が合う。そして、駆け寄ってきた。
まさか……と、背筋に冷たいものが落ちていくのを感じた。
「るな、投げれるか?」
後ずさりするるなの目の前まで来ると、額に汗を浮かべた監督が、覗き込んできた。
「な……投げれるわけないじゃないですか! 私はもう何ヶ月も投球練習してないんですよ? こんな話してる間に……」
「このイニングだけでいい。肩が出来次第、中継ぎに投げさせる」
「いや、でも、私は……もう投げ方だって、マウンドの感覚だって忘れてます……。ましてやこんな試合の最中に、ぶっつけ本番でストライクが入るわけありませんよ!」
るなは首を振った。マウンドを降りて内野手に専念すると決めたあの日から、るなは投球フォームの調整も、投手用のスタミナ作りも一切断ち切っていた。
ピッチャーというポジションの重圧を誰よりも知っているからこそ、半端な気持ちで上がれる場所ではないことを分かっている……。
「るな!」
チヒロが割って入ってきた。
「私が捕る。古巣の弱点は私の中にあるから、配球は任せて!」
「は、はぁ? そんなこと言ったって……簡単に投げられるわけないでしょー!」
「大丈夫! あなたを信じてる、私を信じて?」
るなはハッと息を飲んだ。
チヒロの瞳には、一切の迷いもなかった。高校時代、幾度となく訪れたピンチの場面で、マウンドに走ってきてはかけてくれたあの時と全く同じ眼差し……。
『あなたを信じてる、私を信じて?』
その一言で、何度も救われてきた。相棒を、チヒロを信じて勝ってきた。一度は捨てたはずのピッチャーとしての記憶が、胸の奥底で熱く脈打ち始めた。
るなのマメだらけの小さな手に、ギュッと白球が握らされる。チヒロの手は温かかった。つい3日前に『汚らわしい』と感じたチヒロの手……。
大きな黒目がジッと見つめてくる。催眠でもかけられたかのように、るなは自然と深く頷いていた。
「おいっ、誰かのピッチャー用グローブ借りて来い」
監督がコーチへ指示を出した。るなは1歩踏みだし、「あります」とコーチを制した。
何が起こっているのかとどよめきが沸き起こるグラウンドを降り、るなはベンチ下に置いたバッグの底から『御守り』を取り出す。
特注の両投げ用グローブだ。ぼろぼろだし、もう二度と使うことはないと思っていた。大事な『御守り』……。
大切に胸に抱え、グラウンドへUターンする。「10球、投球練習させてください」と監督の横を抜け、マウンドへ駆け上がった。
踏みしめるマウンドの土の感触。少し高い視界。懐かしくもあり、吐き気がするほどの緊張感が一気に押し寄せてくる。
監督から審判へ伝えられた。観客だけでなく、チームメイトたちも唖然としている。場内アナウンスが、ピッチャーの交代を告げた。もう戻れない……。
懐かしい眺め。懐かしい響き。もうここからの光景は見られないと思っていた……。
「るなぁ……!」
マウンドへ駆け寄ってきたチヒロが、涙目になった。こちらはそれどころではないが、7年ぶりに元相棒と組めるのだ。るなだって嬉しくないわけがない。
「チヒロ、泣くなら勝ってから!」
「……分かってるってぇ。だって、だってさぁ……」
「ほらっ、さっさと構えてよ。投球練習できないじゃん」
グスッと鼻をすすり上げるチヒロが、「9回まで投げてよ?」と尻を叩いてきた。泣いてるのか笑っているのか分からないような顔で、ホームベースまで戻っていく。るなは深呼吸し、自分の指先にふーっと息を吹きかけた。
嬉し涙が今にもこぼれ落ちそうな目で、チヒロがミットを構えた。グラブを左にはめ、まずは右手でストレートを投げた。
ど真ん中に入れるつもりが、高めに浮いてしまった。チヒロが伸び上がって捕球する。るなのストレートは球速があまり出ない。「変化球で行こー!」とチヒロが笑った。
2球目から5球目までは、右手で変化球を投げた。チヒロは1球受けるごとに、いちいち嬉しそうに笑う。そんな元相棒に呆れ笑いを浮かべながらも、るなの不安が安心感へと変わっていくのがハッキリ分かった。
今度は右にグラブをはめ直し、6球目からは左手で投げる。球場は何が起きているのか固唾を呑んで見守っていたが、8球目、9球目になるとどこからともなく拍手が沸き起こった。
「よし、行ける」
るなは自分に言い聞かせ、大きく頷いた。球審の手が上がる。
広いグラウンドの真ん中に立つ、小さな緊急登板ピッチャーに、誰もが注目した。
中断していた試合が、いま再び動き出す……。




