102☆帰ってほしいんですけど
「くっしゅん!」
るなは自分のくしゃみで目が覚めた。いつの間にかうたた寝してしまったらしい。寝返りをうとうとして、ソファから転げ落ちそうになった。
「わっ!」
代りにタブレットがゴンッと落ちて行った。拾おうと手を伸ばす。布団が掛けてあることに気付いた。真鈴かチヒロか、どちらかが掛けて帰ったのだろう。
のそのそと起き上がる。時計を見上げた。針は直角。ちょうど3時だ。喉の渇きを覚え、るなはキッチンへ向かった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。冷たい水が喉を通る度、頭まで冷えていくようだった。視界に入ったシンクの横には、ぴかぴかに洗われた食器類が3つずつ奇麗に並べられていた。
……夢なら、どんなによかっただろう……。るなは呆然と立ち尽くした。
消せない罪。消えない傷跡。元になんか戻らない……。
唯一、何もなかったかのようにするならば、自分が平然を装う道以外にない。慟哭から逃れるには、自分の心を押し殺す他に……。
「……ん?」
ダイニングテーブルに、2枚の紙が並べられていた。左の紙には『るなさんへ』と、右の紙には『るなへ』と書かれていた。
……読みたくもなかった。どうせ言い訳か綺麗事だ。でも、心とは裏腹に、るなの手は2枚とも拾い上げていた。
案の定、両方とも言い訳と綺麗事ばかりがびっしりと書かれていた。彼女たちの本音が、バカバカしいくらいつらつらと表されていた。
「……バカじゃない……」
読み終わると、るなは2枚まとめてグシャッと握りつぶした。ゴミ箱目がけて思いっきり投げる。ソファへ戻ろうとすると、手に何かがぽつりと当たった。
水滴だった。正確には、自分の涙だった。両手で頬を覆う。止めどなく、流れ続けていた。
どうして泣いているんだろう……。
胸が苦しい。あれだけ必死に押さえたのに。怒りも悲しみも、悔しさも情けなさも……。
2人の前では隠せていたはずなのに……。
止めどなく流れる涙をそのままに、るなはゴミ箱へ手を伸ばした。くしゃくしゃに丸められた2人の手紙を拾い上げ、破かないよう慎重に開く。
「……ほんと、バカ……」
言い訳だけど、綺麗事だけど、るなへの思いがたくさん詰まった置き手紙……。
「嘘つき……」
そのままダイニングの床に座り込み、2人のありのままの思いを何度も何度も読み返した。ぽたぽたと涙が落ちていくので、余計に文字がにじんでいく。
……自分は真鈴の何者でもない。誰を好きになろうと、誰と肌を重ねようと、自分には止める権利も怒る権利もない。
ただ、寂しかった……。『るなさんだけいてくれればいいんです』なんて言っておいて、やっぱり身体は満たされていなかったのだ……。
「嘘つき……」
……チヒロは、昔からお揃いにしたがった。『るなと同じ物持ってると、私も強くなれる気がして』と、何でも欲しがった。
独占欲が強いと感じたことは何度もあった。『るなのファンだから』の一言で片付けていたけれど、数人いたチヒロの恋人も『るなのファン』と言う男性ばかりだった。
別れた夫もそうだ。チヒロの大学のコーチだが、るなを引き抜こうと何度も学校へ訪れていた。
兄の春平の時もそうだ。るなに向いていた熱量が自分へ移った瞬間、チヒロにとってそれはもう『るなの持っている特別なもの』ではなくなってしまうのだろう……。
「だからって……」
不器用なまでの愛情は、時に凶器にもなる。今もこうしてるなの胸を、鋭いナイフでえぐっている。
だが、るなだって大好きだからこそ、憎みきれない……。
「るなさん……」
ビクッと肩が跳ねた。もう2人は帰ったのだと思い込んでいた。衣擦れの音がするほうへ向く。リビングの隅の壁にもたれる人影が視界に入った。
真鈴が小さく膝を抱えて座り込んでいた。るなは咄嗟に顔を逸らして涙を拭うと、一度鼻をグスッと吸って立ち上がった。
「……なんでいるの?」
「……ごめんなさい。今帰ったら、もう二度と会えない気がして……」
「嫌でも明日も試合あるから会っちゃうし」
「そう……ですけど……」
真鈴の視線がるなの手元に止まった。涙で濡れてしまった手紙の端を、るなはくしゃっと握りしめた。
「私と真鈴はチームメイトだから……元々。それだけ。だから別にこんな謝罪文、書く必要ないよ」
るなが低く吐き捨てると、真鈴はゆっくり唇を噛みしめた。
「許して……もらえませんよね……」
「だから、言ってるでしょ? 許すもなにも、真鈴が誰と何しようと、私は止めない。止める権利もない。許す以前の問題だから」
「……じゃあ、どうして泣いてるんですか……?」
座ったまま見上げる真鈴が聞き出したい答え。それは、るなにだって分からない。きっと悔し涙だ。嘘をつかれたから、騙されたから悔しかっただけだ。
決して、悲しいわけじゃ……。
「関係ないでしょ! 帰ってよ!」
くしゃくしゃに丸めた手紙を、真鈴目がけて投げつけた。抱えた膝頭に当たる。真鈴は避けようとも受け取ろうともせず、るなの怒りをそのまま全身で受け止めるように微動だにしなかった。
悲しげにるなを見つめたあと、真鈴は指先を微かに震わせながらその紙くずを拾い上げた。立ち上がり、静かにゴミ箱へと戻す。
「じゃあ、帰りますね……」
るなは黙って見上げる。その沈黙こそが肯定だと知った真鈴は、一度ベッドルームのほうへ向かった。
視線で追う。こちらにも、人影があった。ベッドルームの扉にもたれてすっかり眠っているようで、真鈴が肩に触れてもぴくりともしない。
「チヒロさん……? 起きてください」
「……ん……」
「風邪ひいちゃいますし、帰りましょう?」
優しく起こすその光景が、るなの胸にまた鋭い刃物を立てる。
帰る? どこへ? 真鈴の部屋?
いや……自分には関係ない……。
「チヒロ! 人んちで寝ないでよっ」
ベッドルームの扉がガタッと音を立てた。チヒロが飛び起きたのだ。ハッと顔を上げ、『ここはどこ?』といった表情でるなを見上げる。
その腕の中には、るなの匂いが染みついたぶたさんパジャマとシーツが、まるで宝物のように抱き締められていた。
「帰って?」
冷たいるなの一言に、何が起きたのかとぱちぱち瞬きをするチヒロ。隣に立つ真鈴が「行きましょう」と静かに声をかけた。ようやく現状を思い出したらしく、チヒロの顔が一瞬にして曇った。
「るなぁ……これ……」
「それもリュックもトランクも。全部持って行ってね」
「……るな……」
大きな黒目から、はらはらと涙がこぼれ落ちていく。見ていられず、るなはくるりと踵を返し、ソファへ転がった。
なるべく何の音も声も耳に入らないよう、頭まですっぽり布団を被る。途端に訪れた真っ暗な世界で、代わりに耳元の布擦れの音だけが異様に大きく響いた。
遠ざかっていく足音。玄関のドアが静かに閉まる。部屋の中に完全な静寂が戻っても、るなは被った布団を払いのけることができなかった。
密閉された暗闇の中で、独り静かに膝を抱え込む。
明日も球場に行けば、2人と『ただのチームメイト』として顔を合わせなければならない。
いっそ、嫌いになれれば苦しまないのに……。
どんな顔をして会えばいいのか、今のるなには何も考えられなかった……。




