101☆汚いんですけど
るなの視界に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
思わず紙袋が手から滑り落ちた。
オレンジの柔らかい灯りが照らしたのは、狂ったように唇を重ねる2人の姿。
健康的な小麦色の肌をしたチヒロの両腕は真鈴の白い首筋に巻き付いていた。しかも、あろうことか、るなの愛用のぶたさんパジャマに袖を通している。
「……なに……してるの……?」
チヒロに覆い被さっていた真鈴が飛び退いた。唾液で口元がてらてらと光っている。それを片腕で雑に拭き、「るなさん……っ」と声を震わす。
一方のチヒロは上体を起こすと、ベッドの上で小さく肩を丸めた。乱れたキャミソールとぶたさんパジャマを整え、「ご、ごめん、るな……」と首を竦めた。
「何が……? 何がごめんなの……?」
るなは低く問いかける。自分でも不思議なほど無感情だった。1歩歩み寄ると、ケーキの箱が足先に当たった。そんなことはかまいもしなかった。
「……ケーキ買いに行かせたのも、トレーナーに嘘吹き込んだのも、私の帰りを遅くするためだったこと? 私のパジャマ着てたこと? 私のベッドでイチャついてたこと?」
じりじり詰め寄ると、チヒロは座ったまま少しずつ後退して行った。
「ごめん……。ごめん、るな……違うの、違うの、聞いて……?」
「……何が? 何が違うの? じゃあ真鈴から唆したの?」
くるっと真鈴のほうへ向くと、一瞬よろめいた真鈴はぷるぷると首を振った。
「違います! あたしは、あたしは騙されて……」
「騙されて……イチャつくんだ? 真鈴って……やっぱ軽いとこは変わってなかったんだね」
「ち、違うんです! 本当に、あたしはただチヒロさんに誘い出されて……」
それだけ言って真鈴は唇を噛み、言葉を飲んだ。続きは何をどう言っても言い訳にしかならないと予測したのだろう。
確かに、言い訳でしかない。激しく唇を重ねていた現場を目撃されたのだ。言い訳をしたところで、事実は覆らない。
「脱いで」
るなは再びチヒロに向く。一瞬何のことか理解できなかったようだが、すぐに慌ててパジャマの袖を抜いた。おずおず差し出してくるので、るなはそれを乱暴に奪い、ゴミ箱に思いっきり投げ入れた。チヒロが「あっ!」と短く叫んだ。
「そ、それ……るなのお気に入りじゃ……」
「……そうだよ? でも、もういらない。汚いもん。それとも……欲しい? 汚らわしいこのパジャマ。欲しがってたもんね、チヒロ。いいよ、あげる。そのシーツも布団も。私の匂いで落ち着いて眠れるって言ってたもんね。もういらないから持って行ってよ」
無表情で言うと、チヒロは更に首を竦めて俯いた。
視野の端で、真鈴がケーキの箱を拾い上げるのが見えた。気まずそうに項垂れている。
「チヒロが予約してくれたんだね、イチゴのタルト……。私が好きだったの覚えててくれて嬉しかったのに……。でも、それも私の帰りを遅らせるためだったなんてね……。浮かれて急いで帰って来たの、バッカみたい!」
るなは真鈴の手から箱を奪い取った。ベッドサイドのローテーブルで雑に箱を開けると、3つ並んだイチゴのタルトを手掴みで勢いよく頬張る。
2人の困惑と動揺の視線がるなに向かう。るなは無心で頬張り続けた。前から食べてみたかった店のタルトだったのに、味はほとんど分からなかった。
2人は全く動かなかった。無言で食べ続けるるなを不気味に思っているのか、息を殺してじっとしていた。
「帰る?」
タルトをあっという間に平らげたるなが顔を上げると、2人はびくっと肩を跳ねさせた。るなは交互に見つめる。
「帰る? それとも、夕飯食べる?」
突然の選択に、2人は一瞬ちらっと視線を交わした。
「食べないなら帰ってよ」
るなが立ち上がると、2人は弾かれたように「食べます!」と姿勢を正した。
箱と紙袋を回収し、るなは独りベッドルームを後にする。タルト生地のバターでぬるついた手を洗い、ビーフシチューの香ばしい香りが漂うダイニングへと向かった。
キッチンでは、キャミソール一枚のチヒロがいそいそとシチューを温め直していた。真鈴はテキパキとカトラリーを並べている。
その姿を横目に、るなはダイニングチェアへどかっと座った。
おいしそうなシチューやサラダやバケット、それにワインが並んだテーブルを、るなは冷めた目で見つめていた。
支度のできた2人が、おずおずと席に着く。真鈴はるなの向かいへ、チヒロは斜め前の席へ座った。
2人ともるなと目を合わそうとしないので、テーブルの真ん中でワイングラスを掲げた。それを視野に入れた2人も、慌ててグラスを掲げる。ワイングラスが、異様な空気の室内にカチンっと響いた。
「いただきます」
ワインを一口含み、るなは黙々と食事を始めた。BGMも会話もない食事会が始まった。
カトラリーと食器が奏でる高い接触音だけが、静かなダイニングに響く。無表情だが、るなの皿はいつも通りハイスピードで空になっていく。
「チヒロ」
唐突にるなが呼ぶ。嘗めるようにちびちびとシチューを運んでいたチヒロのスプーンがカチャンと鳴った。背筋を伸ばし、顔を強ばらせている。
「は、はいっ!」
「おかわり」
「……え?」
「シチュー、おかわり」
るながシチュー皿を差し出すと、チヒロはかなしばりが溶けたように「あ……はいっ!」と受け取り、キッチンへ急いだ。その背を見送ってから真鈴に視線を向ける。こちらは料理に一切手を付けていなかった。
「食べないの?」
上目使いの真鈴と目が合う。『だって……』という表情で沈黙している。
「食べないなら帰って」
「……た、食べます!」
じっと見つめるるなの視線を気にしながら、真鈴はワインで口を湿らせてからサラダにフォークを差し入れた。「お待たせー」と明るく振る舞うチヒロが戻ってきた。
「るなのお口に合ってよかったなー! 煮込み時間が短いから、おいしいか自信が……」
「おいしいけど、黙って食べてくれない? 喋る気分じゃないの」
「あっ……はい……」
再び訪れる沈黙。バケットが空になれば「す、すぐ焼くね」とチヒロがそそくさと席を立つ。ワインが減れば「も、もっと飲みますか?」とすかさず真鈴が注ぐ。
そんな食事会は、るなが満腹になるまで続いた。喉の通りが悪かったのであろう2人も、揃って食べきった。
「……で?」
食後のコーヒーが目の前に置かれた。るなは口元を拭いながら背もたれに寄りかかる。
「デザートのタルトは私が食べちゃったし、これ飲んだら帰ってくれるんだよね? 2人とも」
鋭い目つきで問いかけると、2人はお互いを一瞥し、同時に口を開いた。
「ごめん、るなっ。私……」
「ごめんなさい、るなさん。あたし……」
そして同時に沈黙する。また同時に「る……」と発し、『自分が先に喋りたいのに』という顔で牽制する。
「よりによってさぁ……」
コーヒーカップをガチャリと雑に置き、るなは2人を交互に睨んだ。
「私のベッドでやらないでよ。しかも、チヒロは私のパジャマまで着てるし……。2人がどういう関係になろうが私に止める権利は何もないから、やるならよそでやって?」
グサリと刺さったらしく、ぐうの音も出ない2人は口を開くことすらもしなくなった。はぁーっと深いため息をつき、るなは「ごちそうさま」と食器を片付け出す。
「チヒロ、帰る時にパジャマとシーツ持って行って? 別にどっかに捨ててってもいいけど」
「か、帰るったって私、ホテルも取ってないし……」
「真鈴に泊めてもらえば? そっちならいくらでもイチャつけるでしょうし」
「……そんなこと言わないでよー……」
しゅんと項垂れるチヒロ。るなの食器を真鈴がそそくさと奪い取り、「あたしが洗います」と言ってテーブル上の食器を全てシンクへ運んで行った。
チヒロはトボトボとベッドルームへ向かう。パジャマとシーツを取りに行ったのだろう。るなはタブレットを手に取るとソファで独り、今日の試合の振り返り動画を流し始めた。
そうでもしないと、頭がおかしくなりそうだった。嘘をつかれたこと、裏切られたこと、隙だらけの自分が情けなくて悔しくて、発狂しそうだった……。
だが、いくら動画に集中しようとしても、頭がぼーっとしてしまう。少しワインを飲み過ぎたかもしれない。
明日の試合に響かなければいいが……。
そして明日になったら、悪夢から覚めていますように……と瞼を閉じた。




