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「やばい。なんかもう緊張してきた」
手に浮かんだ汗をズボンに擦り付ける。
なんかもうネチャッというかズルッというか、そんな汚い擬音が出そうな感触がした。
「なんで和希がそんなに緊張してるのよ」
「いやだってお前」
困惑しているのか呆れているのか微妙に分からない顔で問われ、彼は止まらない手汗を拭いながら言い訳してみる。
「手術とか生まれて初めてだもんよ俺。ていうかどう考えてもおかしいでしょ。何をどうトチ狂ったら人の体切り刻もうとか言う発想が生まれるわけ」
最初に手術とか考えたやつは絶対サイコパスだ。間違いない。
そうぼやく彼のジーパンは、もはや一部分だけ雨に打たれたように変色していた。
「むしろなんで鈴香はそう平然としてられるわけ」
「え?いや……うーん、なんでだろ」彼女は少し首を傾げて、「…………、多分。怖いとかより、楽しみって感じのほうが大きいからかな」
「楽しみ?お前もあれなの?サイコパスなの?」
「そういう意味じゃなくて!」
憤慨したような、食いつき気味の否定。
じゃなくてさ、と怒っているはずの彼女の表情はなぜか笑っていた。
まるで、遠足前日の小学生のように。抑えきれないといった様子で笑っていた。
「————だって、それさえ上手くいけばまた和希と一緒にあの部屋へ帰れるんでしょ?」
ああ、そのはにかむような笑顔は、本当に。
……三ヶ月。三ヶ月だ。
彼女と共に過ごした部屋に、彼女が帰らなくなってから三ヶ月。
こうして言葉にすれば、短いとすら感じるその時間は。
それでも、彼女にとってはあまりにも、あまりにも長すぎる絶望だった。
それが、終わる。
その喜びは、その感慨はどれほどなのか。
察するには大きすぎて、余りがありすぎる。
だから、彼はただ微笑った。
「…………そうだな」
痛みと歓喜がないまぜになった表情で、微笑った。
本当に、今にも崩れ落ちそうな表情で。
「和希?」
「いや、何でもない。ただ、長かったよなって思っただけ」
「…………、うん」
そう彼女が頷いたと同時、遠慮がちに扉をたたく音が聞こえた。
「城山さん。手術の準備がありますので、先にこちらへ」
医者のその言葉に「はい」と答えて、彼は腰を上げる。
個室の外に出たら、携帯の電源は切らなければならない。
彼女と言葉を交わすのもそこまでだ。
促されるまま部屋を出て、通話を切る。
直前、
「なあ、鈴香」
彼は振り向いて、囁くように呼び掛けた。
「もし。手術が上手くいってさ、退院したら」歌うような軽い声で、「俺のわがまま、一個だけ聞いてもらってもいい?」
その言葉に、彼女はきょとんとした顔をした。
それは、最後にかける言葉としてはそぐわなかっただろう。
それでも、彼女は笑ってくれた。
「なにそれ。————うん、いいよ。何個でも」
「そっか」
彼は心底安堵したように、微笑みを返して。
病室の扉を、閉めた。
「…………本当に、よろしいんですか」
院内の廊下を歩きながら、医者は探るようにそう聞いた。この方法を提案してから、何度も訊かれたのと同じ台詞で。
「なにがです?」
彼は笑って答えた。その表情だけで医者も察したのだろう。会釈するように、小さく目を伏せる。
「……すみません」
珍しく、その言葉にだけは医者の感情が滲んでいた。
————彼女には、伝えていないことが一つある。
彼女に彼の肺を移植すれば、彼女の呼気に含まれる毒素は酵素によって吐き出される前に分解される。
故に、彼女は人としてまた生きて行ける。
それは伝えた。そこに間違いはない。
だが。
肺移植手術というのは、本来生きている人間がドナーになることはない。
例外的に、生きている二人から少しづつ提供されることもあるが、たった一人から肺を移植するということは無い。
少し考えてみれば当然のことではある。
肺は肝臓のように再生することは無い。つまり、失えば二度と元に戻ることは無い。
そして、肺を失った人間がどうなるのかというのもまた自明だ。
十中八九————いいや、確実に城山和希は死ぬ。
「…………ずっと一緒にいさせてほしい、か」
結局、それだけの話だった。
彼は彼女の体を救えても、心までは救えなかったという。
たったそれだけの話だった。
その選択に後悔がないと言えば嘘になる。
その選択に未練がないかと問われれば、否とは言えない。
もっといい方法はないのかと、今だって切望している。
彼女を救って、誓いも裏切らない。そんな魔法のような道をずっとずっと探し求めている。
けれど、もう迷うことだけはしない。
たとえ、裏切ろうと。
たとえ、傲慢を極めようと。
城山和希を表す名前に、正義も正解も必要ない。
そんなものは、嘘吐きの三文字で十二分。
故に、この選択は彼女のためなどでは決してない。
彼が、彼自身のために貫き通す。
―———彼女を殺してでも、彼女を救う。
その嘘だけは。
そうして。
開いた手術室の扉の先に、彼の背が、
消える。




