4
それから、彼は貪るように知識を漁った。
疫学、臨床、医療、毒学。
彼女の病に関わると思われるありとあらゆるもの全てを。
それは、彼が正しく現実を受け入れたという証左だった。
そうして、分かったことは一つ。
「…………、くそ」
かつて二人が過ごした部屋。今となっては彼以外帰ることがなくなった部屋に、悪態が沈む。
————彼女を救う術はない。
あまりにも残酷すぎるその現実だけを突きつけられる。
全身の細胞が変異した。
医者のその言葉がどれほどの重みを持っていたのか、今更ながらに理解が追いつく。
彼女の状態は、末期癌のそれに近しい。
毒に犯された細胞という名の腫瘍が全身に転移して、体内を蝕んでいる。
それを治療するということは、体中の細胞を殺し尽くすことと————彼女を殺し尽くすことと同義だ。
「…………はっ」
八方塞がり。
手詰まり。
そんな表現がここまで適切な状況も他にない。
あまりにもバカバカしい状況に嗤いすら浮かぶ。
彼女を救うには、彼女を殺すしかない。
もう、結論はそれしか、
「ああくそ、やめだやめ」
深く落ちかけた思考を、頭を振って追い払う。
休憩、と言い訳でもするように呟いて、ソファから腰をあげる。
ベランダに出ると、生暖かい夜風が頬を撫でた。
「夏、だなあ」
火をつけたタバコを咥えて、独りごちる。
吐いた煙が、風に流れて洗濯物にかかった。
臭いがついて怒られるな。そう思い場所を変えようとして、もうそんな心配をする必要も無いのだと気づいた。
今はもう、こうしてタバコを吸っていても文句を言われることはない。それが寂しく感じるというのもおかしな話だ。
苦笑して、視線を落とす。
そして、片隅に置かれたプランターが目に映った。
「丈夫なんだな」
プランターの中。咲き誇っていた白い花は散って、青い葉だけが静かに揺れている。
水もやらなくなって久しいというのに。
「……なあ」
その姿がどうしようもなく彼女に重なって、気づけば声は零れ落ちていた。
「どうして、俺は君に何もしてあげられないんだろうな」
唇を噛み締める。
吸い込む煙に、血の味が混ざった。
「事故した時もそうだけどさ。どうして、俺はいつも手遅れなんだろうなあ……」
悔しくて、悔しくて。
たった一度、彼女を救ってやることも出来ない自分の不甲斐なさがあまりにも悔しかった。
そう。彼には何も出来ない。全てが気づいた時には遅すぎた。
彼女の病を治してやることだって。彼女の吐息で誰もが死んでいくなどというふざけた状況をどうにかしてやることだって
「…………、ぁ」
そこまで絶望的な思考を巡らせて、彼は微かな違和感を感じ取った。
誰もが死ぬ?
咥えたタバコが、落ちる。
ギギ、と鈴蘭をもう一度見つめ直す。
全身の体細胞が変異したことによって、彼女は毒を吐く異物となった。そして、その呼気は、例外なく生命を死に至らしめる。医者は確かにそう言った。
だが、それなら。
どうして、俺はまだ生きている?
彼女は検査結果が出てすぐ隔離された。故に、彼女の病による犠牲者は未だ出ていない。
そう思い込んでいた。
だけど、それでは時系列がおかしいのだ。
彼女の発症がいつかは分からないが、検査を行った時点では彼女の体は変わり切っていたはず。
だが、検査結果が出るまでの数日、彼女の友人や医者が立ち替りで病室を訪れていた。
彼らが彼女と同じ空間にいたのはせいぜいが一時間程度。彼女の呼気に含まれる毒素の致死量が分からない以上、彼らが死んでいないことの理由付けは致死量未満だったということでも一応の筋は通せる。
ならば、俺は?
数日間、ほぼ常に彼女に寄り添っていた俺が死なないなどということが有り得るのか?
「あ――――」
考えられる可能性は二つ。
医者が嘘を吐いていた、もしくは検査結果そのものが間違っていた可能性。
しかしこちらに関してはほぼ考える必要はないだろう。
そもそも嘘を吐く必要性がどこにもないし、検査自体嫌となるほど繰り返してきている。これだけ繰り返してきて今更間違っていましたなどと言われたら、もう彼は日本の医療を根本的に信用できない。
つまり、残る可能性は。
……バグン、と心臓が強く脈動した。
彼女は致死性の毒を吐き、周囲の生命を例外なく死に至らしめる。しかし彼はこうしてあるはずのない例外となって生存している。
その矛盾の原因が彼女にないのならば。
残る可能性は、彼自身が彼女の毒に対抗する何かを持っているということではないのか。
「――――、は」
辿り着いた答えに、彼は笑う。
嗤うのでもなく、嘲笑うのでもなく。
正真正銘、心の底から笑みを浮かべられるほどに世界は転回していた。
あまりにも短絡的な結論ではあると思う。
都合の良すぎる論理でもあると思う。
だが、それでも。
「……くそ、なんだよそれ」
夜空を見上げて、奥歯を噛み締めて――――耐え切れなかった涙が零れる。
笑いながら、静かに静かに彼は泣いていた。
嬉しくて、嬉しくて、泣いていた。
だって、それは。
彼女を救う可能性が初めて見えたかもしれないということなのだから。
他の誰でもなく、他の何でもなく。
自分自身の手で、彼女の地獄を断ち切ってやれるかもしれないということなのだから!
――――なあ、神様。このくそったれな世界を作り上げた神様よ。
もし本当にいるというならば聞け。
あんたが彼女をどうしても排斥したいと、そういうのなら。
俺は、俺の身体を以ってあんたの筋書きを否定しよう。
覚悟しろ。
あんたが喧嘩を売った人間というのが、どれほど執念深いのかを教えてやる。
* * * * *
「――――正直、我々にとっても想定外と言わざるを得ません」
結論から言って。
彼の仮説は、ある意味では正しく、ある意味間違っていた。
「あなたの肺組織に、彼女の毒素を分解する酵素が見られました」
「酵素?」
聞き慣れない単語を、口の中で転がす。
「酵素と言うのは、簡単に言ってしまえばミキサーのようなものでしょうか」
医者は手元の書類へ目をやりながらそう言った。
「オレンジを粉々に破壊して、果汁と皮に分けるような。要するに、分解装置ですね」
くるり、と回転イスを回して医者は彼に正面から向き直る。
「なにが原因でそのような酵素が生まれたのかは不明です。恐らく長時間に渡って低濃度の毒素を取り込み続けてきたことが影響しているものだとは思いますが……」
本来、有り得ない事なんですがね、と医者は首を捻った。
だが、そんなことはどうだっていい。
原因も理屈も。そんなことは本当にどうだっていい。
大事なことはたった一つ。
「その酵素を使えば、彼女を治すことは可能なんですか」
食いつくように、そう訊いた。
酵素があるのなら。それを使えば彼女を救うことはできるのではないか。
その希望を込めた質問に、しかし医者は首を横に振った。
「残念ですが」
「どうして!」
「彼女の毒素を殺す酵素と言うのは、彼女を殺すと言うことに等しいのです」
はっ……、と。
食らいついた呼吸は、しかし医者の一言によって霧散する。
「例えばの話ではありますが」医者は沈痛な面持ちで、「人間は酸素を吸って二酸化炭素を吐き出しますが、仮に二酸化炭素を分解するワクチンを投与した場合、どうなると思われますか?」
「…………そ、れは」
「生理不順によって、人は死んでしまうんですよ。それは、人体のメカニズムが『二酸化炭素があることを前提に』作られているからです」
つまり、と医者は一呼吸置いて。
「彼女の場合は『毒素があることを前提に』体内が整えられている。それを強制的に取り除けば、遅かれ早かれ彼女の体は内側から崩壊していくでしょう」無表情に、ただ事実を語る。「それに、酵素と言うのは本来一部の組織に存在し得ないのです。例えあなたの酵素を培養して彼女に投与したところで、定着しないのであれば何の意味も持たないでしょう」
感情の載らないその声は、せめてもの慈悲か。
たった一つ、見えた希望すらへし折ることへの謝罪であるかのように。
ただ淡々と、医者は告げる。
希望など、救われる道などないのだと、
「なので、やはり彼女の治療法には――――」
「臓器移植」
その決定的な最後通牒を突きつける。その直前。
彼は、割り込むように言葉を投げた。
「臓器移植なら、どうなんですか」
昔、どこかで聞いたことがある。
心肺機能に重篤な病を抱え、呼吸器なしでは生きていけなかった子供が肺移植によって普通の生活を遅れるまでに回復したと言う話だ。
であれば、
「俺の肺を彼女に移植すれば、可能性はあるんじゃないですか」
「…………、それは」
医者の言葉が、濁る。
「…………確かに、可能性はあります。ですが」
「お願いします」
医者の言葉を遮って、頭を下げる。
深く深く。
「分かっています。だから、お願いします」
伝わるように、届くように。
体面などかなぐり捨てて。
ただ、頼むとそう頭を下げ続ける。
「初めてなんです。自分以外の誰かをこんなにも愛したのは初めてなんです。なのに俺はあいつから全てを奪ってしまった。何も返してやることができなかった。だから、お願いします。たった一つだけでもいい。鈴香がくれたものに報いれる何かがあるのなら、その機会を俺にください」
下げた頭の上で、医者はどんな顔をしているのかは分からない。
それでも、だからこそ。
頭を下げ続ける。
尊厳も矜持もいらない。みっともなくて構わない。
正しいだけで優しくもない正義など、興味もない。
こんなくそったれな結末に、それでも否と突きつけられるなら。
神様などというやつに一矢報いることができるのならば。
間違っていることは、決して悪ではないのだと。そう証明するために。
「…………分かりました」
やがて、根負けしたように医者はそう言った。




