3/背中合わせの救い
「残念ですが」
その前置きだけで、願いはへし折られたことを知った。
————今回も。
「有効な治療法は、まだ発見されていません」
「……そうですか」
体質か、事故による怪我か、長時間毒物に触れ続けていたことか。それらの占める割合は不可分で、複雑に絡まりあったそれらを解くことに意味はない。
とにかく、彼女は世界にたった一人の奇病に罹った。
恐らく、彼女が死ねば二度と使われることはないだろう、後天性体細胞変異症という孤独な病に。
何度検査を繰り返しても、その結果は変わらない。
変わっていくのは季節だけだ。
花粉は減り、桜は少しづつ散っていく。
————鈴蘭が咲く頃までには、帰れたらいいな。
小さな祈りをかけた鈴蘭は、もう咲いたというのに。
一礼して、部屋を後にする。毎回同じように深く頭を下げて見送る医者の姿が、何度やっても同じだと言っているようで、癇に障った。
人気のないリノリウムに、自分の足音だけが反芻する。
…………あと何度、この廊下を歩くのだろう。
この景色を見る数だけ、希望を抱く。
この床を踏む数だけ、願いは折れる。
「……何やってんだろうな、俺は」
知らず、声は零れ落ちた。
どれほどの希望を抱こうが、どれほどの思いで願おうが、冷たく横たわる現実は何も返してなんてくれない。
そんなこと、誰よりも知っているはずなのに。
ガラス越しの光に目を細める。射す光は、もう赤くなっていた。
院内の自動ドアには、自分の顔が反射している。
「……たまには寄り道もいいか」
目に入ったそれに、苦笑しながら呟いた。
こんな顔で彼女に会いに行ったら、きっと心配させてしまうから。
病院の敷地を歩く。ここは、前よりも複雑な構造をしていて、うっかりすると迷ってしまいそうだった。
検査結果が出てすぐ、彼女は転院していた。
それは、できるだけ二人の部屋から近い場所に移りたいという彼女の希望でもあったし、単純に元の病院では彼女を入院させておけるだけの設備がなかったからでもある。
……もしかすると、得体の知れない病に罹った彼女を追い出してしまいたかっただけなのかもしれないが。
正門を抜けて、街に出る。
中心部からは離れているというのに、この辺りはやけに栄えている。やはり病院の近くというのが大きいのだろうか。
道沿いに点在するコンビニや飲食店などを見て、そんなことを思った。
行く先に当てがある訳では無い。
ふらふらと、思いつきのまま足を進める。
気づけば、公園の前に立っていた。
視線を少し上げると、似たような形をした家がいくつも見える。
どうやら、住宅街に迷い込んでしまったらしい。
学生服姿の女の子達が、賑やかに話しながら横を通り過ぎて行った。
「あー、しんどいしんどいしんどーーーーい!甘いもの食べたーい!」
「あんた十分前にクレープ食べたこともう忘れたの?若年性アルツハイマー?」
「違いますー!疲れ切った体が糖分を求めてるんですー!なんなの延々同じところグルグル走らされて!無意味すぎるでしょバカじゃないの!?」
「仮にも陸上部が言っていい言葉じゃないわよそれ」
そんなやり取りを背中で聞きながら、公園内に入る。
たまたま目に付いたベンチに、引き寄せられるようにして座り込んだ。
ワーキャーと、声が聞こえてくる。
ここからでは距離が遠くて、何を言っているかまでは聞き取れない。それでも、楽しそうな声色だということだけは何となくわかった。
声に釣られるようにして、目を向ける。
その先では、数人の子供たちが走り回っていた。鬼ごっこかなにかだろうか。子供たちは、誰もが楽しそうに笑っていた。
そこから少し離れた別の場所では、数人が集まってボールを追いかけ回している。また別の場所では、ひたすら砂場を掘り続ける姿もあった。「ちきゅーの反対までトンネル作るぞー!!」と一際大きい声が聞こえてきて、取り巻きが勢いよく追従している。きっと数時間後には夢のない現実というものを知って、一つ大人になるのだろう。
結婚したら、子供作ろうね。両親に会いに行く前、彼女はそう言っていた。
————もし。
もしも、事故なんてなく普通に結婚できていたら。
当たり前のように彼女が帰ってきて、彼の両親に彼女を紹介して、彼女の両親にも挨拶に行って。彼女の両親にはきっと怒られただろう。拳の一つ二つくらいは覚悟しておかなければいけなかったかもしれない。
それでも、きっと最後は認めてくれる。彼女にも「おめでとう」と声をかけてくれた両親ならきっと許してくれたと思う。
結婚式はささやかでもいいからちゃんと挙げて。
子供は何人出来るだろう。一人でも二人でも、元気に育ってくれればそれで十分だ。
彼女は子育てに手一杯で、仕事を辞めることになるかもしれない。それならそれで問題はない。今の職場の昇給率なら、その頃には自分一人で養えるくらいにはなっているはずだから。
平日は仕事をして、休日はのんびりと家族で過ごす。子供が大きくなったら、あの子たちのように外で遊ぶのもいい。キャッチボールでも鬼ごっこでもおままごとでも。周りに親バカと言われても、子供が望む限りは付き合ってあげよう。
日が暮れるまで遊んで、いつまでも帰ってこないことに少し怒りながら、「もうご飯だよ」なんて彼女が呼びに来て————、
「……ふざけるな」
都合のいい妄想を断ち切るように、呟いた。
そんな当たり前の幸せすら彼女から奪ったのは、一体誰だ。
そんなありふれた人生さえ踏み躙ったくせに、自分だけ現実から目を背けようなどと。あまりの浅ましさに吐き気すら込み上げる。
もし、彼女と出会わなければ。
もし、彼女に踏み込まなければ。
何度も繰り返した自問の答えなんて決まっていた。
もし自分と出会わなければ、彼女はきっと真っ当に生きていけた。
もし彼女に踏み込んだのが自分じゃなければ、きっと当たり前に幸せを与えてやれていた。
両親を喪うこともなく、孤独な地獄に囚われることも無く。人並みの人生を、人並みに生きていけた。
————ああ、ならば、本当に。
お前は彼女に一体何をしてやれていた。
「……俺は、何もしてやれていなかった」
ここまで来て、ようやくそれを口に出した。
ずっと前から分かり切っていた答えを、ようやく認めた。
「俺は、君に、何もしてやれてなんていなかった……っ!」
支えると、そう約束したくせに。
奪うだけ奪って、踏み躙るだけ踏み躙って、結局彼女に何も与えてなどいなかった。
こんなことになるまで、それに気づくこともせずに、のうのうと彼女に寄り掛かり続けていた。
無様すぎて、笑えもしない。
知ったような顔で、人間は醜いなどと。
どの口がそれを言う。一番醜いのは自分ではないか。
認めた。理解した。思い知った。
だけど、今更遅すぎる。
何もかも取り返しがつかなくなってから気づいたところで、そんなものに意味は無い。
「ああ、そっか」
ベンチに腰掛けたまま、彼はその両手で顔を覆った。
「分かった。分かったよ」
答えなんて、最初から一つしかなかった。
だから。
だから。
だから。
* * * * *
「————おかえり」
白く、白く、白い部屋。
外はもう暗く落ちているというのに、この部屋だけは何も変わっていない。
ただ白く。
昼も夜もない部屋で、彼女は微笑とともに彼を待っていた。
「今日は長かったね?」
「いや、話自体は結構前に終わってたんだけどな」
微笑む彼女にいたずらっぽく笑って返す。
「ついでに散歩してきた。ちょうどタバコにうるさい誰かがいなかったからさ」
「あ、ちょっと!それ誰の事ー⁉」
「プライバシーの観点から明言は避けさせていただきます」
はっはっは、と彼はわざとらしく声を上げる。
彼女が「まったくもう……」と通話を繋いだ携帯越しにブツブツぼやいているが、そこは何も聞こえないふりでスルー。
「それで」
ひとくさりぼやいた後、彼女は思い出したように顔を上げた。
「どうだった?」
「何も。治療法は見つからないままだってさ」
「……そっか」
分かっていたという感情が大半。それでも少しの落胆。
そんな声で、彼女はそう呟いた。
————病のことを伝えたあの日。
彼の知る中で二度目の激昂を見たあの日以来、彼女は一度も声を荒げることはなくなった。
粛々と検査を行い、粛々と結果に裏切られる。
幾度それを繰り返しても。
「……まあ、しょうがないか!」
彼女は、あっけらかんとそう言って笑うのだ。
「なんて言っても史上初だしね!すぐに治らなくても死ぬわけじゃないし!そのうちなんとかなるよきっと!」
その笑顔の裏に、どれだけの感情を押し隠しているのか。
彼には分からない。
だけど、押し隠して笑える彼女の強さが心底眩しくて誇らしいと思った。
思ったから、
「なんともならないよ」
一言。そう言った。
「…………、え?」
彼女の笑顔が、固まる。
何を言われたのか分かっていないようなその表情に、彼は言葉を継いだ。
「なんともならないって言ったんだ。君だって本当は分かってるだろ?」
彼は、微笑っていた。
優しく穏やかに、微笑っていた。
「君がこんな病気になってから一体何日経った?何度検査した?」
謳うように、なんの躊躇もなく。
「一回でも何かが変わったか?何も変わってないじゃないか。いい加減ありもしない希望なんかに縋るのはやめようぜ。見てるこっちが悲しくなる」
「え、ちょっ、和希さん?急にどうしたの?」
「実際さ、最初に治療法がないって言われた時点で気づくべきだったよな。だってどう考えてもおかしいだろ。前の所より何倍もでかいこの病院の医者がないって言ったんだぜ?そんなん、初めから望み薄ですって言われてるようなもんだよな」
「和希!」
「検査なんかもう体中やっただろ?それでも手掛かりすらないんだから、やっぱりそれはもう無理ってことなんだよ。このままじゃ君の体は治ったりなんてしない。だから、」
「ちょっと待っ————!」
「————だから、別れよう」
————————————————————————————————————————は、と。
彼女の呼吸が。
凍った。
「俺たち、別れよう」
それでも彼の微笑みは、少しだって揺るがない。
本当に優し気に、一分の隙すらなく。
貼り付けたような微笑のまま。
「正直さ。重いんだよね」
「…………、」
「後天性体細胞変異症とか大層な名前まで付けられるような変な病気に罹って?治る見込みもなくて?あげくこんな隔離病棟に押し込まれて?」
確認するように。突きつけるように指折り数えながら。
彼は肩をすくめる。
「冗談じゃない。悪いけど、俺には無理。普通のサラリーマンなんだぜ、俺。少年漫画の主人公でもなければ、安いメロドラマの主人公でもないんだ。そんなどこにでも居るような普通の人間に、君みたいな訳わかんないもの背負った奴と付き合ってけとか、勘弁してくれよ」
やれやれ、とでも言いたげに首を振る。
その姿は、たわいもない世間話でもしているかのような、なんの気負いも感じさせないものだった。
「まあ、とは言っても?正直、病気のこと自体は別になんとも思ってないんだよ。すぐに治るならそれでいいと思ってたしね。けど、それが治る可能性すらないってんなら話は別」
「…………、」
「俺だって男だ。性欲も人並みにある。なのに、セックスどころかデートも出来ない相手と付き合い続けるとか、どんな生殺しだよ。もういい加減限界」
「…………、」
「君は知らないだろうけど、今年入ってきた新人の中にも結構可愛い子いてさ。すごい懐いてくれてんだよね。やっぱりさ、そんなんされたらどうしたってね。気になっちゃうよね」
「…………、」
「だから、まあ身も蓋もなく言っちゃうとだ」
丁寧に。
優しく花を摘むように。
彼女の心を手折って、手折って、手折って。
花束を作る。
「邪魔なんだ、君。だから————別れてくれよ」
作った花束に微笑を添えて、押しつけた。
そこに甘い期待など入る余裕はない。
そこに感情任せの反論など入る余地はない。
だから、これで終わり。
彼は変わることの無い日常に戻り、彼女は正真正銘一人の世界に取り残される。
結局のところ、それだけの話だった。
城山和希という男は、高山鈴香という女から奪うだけ奪って、奪い尽くしたまま捨て去ったという、それだけの話。
認めてしまえば簡単なことだ。
一体自分は今までなにを悩んでなどいたのだろう。
他者を喰らい、尊厳を喰らい、命すら弄んで、一時の快楽を得る。人間の皮を被っただけの浅ましく醜い獣。それが自分だ。
そんなことはとっくの昔に知っていたのに、どうして忘れたふりなどできていた。
あまつさえ、誰かを支えてやりたいなどと。
獣の分際で、おこがましいにも程がある。
きっと、彼女にだって分かったはずだ。
こんなモノに関わったこと自体が間違いだったと、関わり続けることは間違いだと、理解したはずだ。
だから。
なのに。
「…………、それだけ?」
長い沈黙を破った彼女は、そう聞いた。
何事も無かったかのように、何事も無かったかのような声で。
彼としては、その意図を掴みきれない。
「…………は?」
「和希はさ」
まるで、小さな子供に言って聞かせるように。
柔らかな声だった。
「皮肉屋で、ちょっと口が悪くて、デリカシーもあんまりなくて」
わけがわからなかった。
彼女が何を言い出したのか、理解ができなかった。
「あ、あとロマンとかもないよね。洗濯物畳みながらついでみたいにプロポーズしたりさ。前から諦めてはいたけど、どう考えてもあんまりじゃないあれ?」
随分遠く感じるようになった過去を振り返って、彼女は笑う。
本当に、楽しそうに。
「仕事も運動もできるのに、家のことになると何もできなくて。……できないって言うより、やらないって感じもあるけど。根本的にめんどくさがりなんだよね、多分。それって生まれつき?」
会話が成り立っていない。
言葉が届いていない。
映画のフィルムを切り取って、関係のない所を無理矢理繋ぎ合わせたような、理不尽すら覚えるイメージが湧く。
「なあ。俺の話、」
「あたしはね」
彼の言葉に被せたのは、意図的か偶発か。
彼女は続ける。
「この一年で、和希の色んなところを知ったよ。ダメな所もめんどくさがりな所もしっかりしてそうだけど実は結構だらしないところも————本当は、誰よりも臆病だってことも」
だから。
繋ぐ言葉は順接。
「和希は、何を怖がってるの?」
ひくり、と。
彼の微笑が、小さく震える。
「怖がってるって……なに、言ってんだよ」
「だってさっきの、全部嘘でしょ」
なんてことなさそうに、彼女はそう断定した。
尋ねるのではなく、曲解するのではなく。ただ分かり切っている事実を確認するように。
「そもそもさ。前提からして違うよね」彼女は呆れた顔で苦笑して、「和希は治る可能性なんてないみたいに言うけどさ、先生は『分からない』って言ってたんじゃなかった?大分意味違うと思うんだけど?」
「……そんなのは、欺瞞だよ」
震えた頬を、力ずくで押さえ込んで。
囁くように、答える。
「これだけ検査して何もわからないんだ。そんなの、そこにどれだけの違いがあるって言うんだよ。自分に都合のいい言葉だけ得意気に抜き出して可能性に縋ろうなんて、いくらなんでも根拠が無さすぎる」
「そうかもね」
彼女は素直にそう認めた。
その上で、
「でも、否定するだけの根拠もない」
さらり、と。否定に否定を返す。
「あたし達は素人なんだから、どれだけ考えたところで本当のことなんか分からないよ。だったら、どこを切り取るのかなんて自由でしょ。和希が主人公じゃないって言うなら、あたしだって悲劇のヒロインになんてなりたい訳じゃない。どうせどこを切り取っても一緒なら、都合のいい取り方の方がよっぽど建設的じゃない?」
「……だとしても」
確かに。
彼女の言っていることも理解はできる。
でも。
「だとしても。治療法なんてものが見つかるとしても。それはいつになるんだ?十年?二十年?そんな先の見えない話に、俺は付き合わされなくちゃいけないのか?……冗談じゃない。そんなものに付き合わされるくらいだったら、もっと別の人と付き合ってた方がマシじゃないか」
「付き合えばいいじゃん」
「…………は?」
「だから」
彼女は一度、嘆息して。
「他の子と付き合いたかったら付き合えばいいんだよ。だって、あたしはどう足掻いてもこの部屋から出ることなんてできないんだから。二股だってなんだって、ばれる心配なんかないでしょ。なんなら、勝手に別れたことにしちゃっても別に問題だってなかった。違う?」
「…………、」
「なのにわざわざ自分から別れ話なんて持ち出してくること自体が、なんていうか、めんどくさがりの和希らしくないよね」
ベッドに腰を掛けたまま、彼女は微笑っていた。
手のかかる子供を眺めるように。
困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みで。
「……ていうか、言葉遊びみたいなことしてても意味が無いから聞いちゃうんだけど」
「な、にを」
「そんなに身構えなくても、単純なことだよ」
静かな声で、彼女は問うた。
挑むように。
「————和希は、もう、あたしと一緒には居たくない?」
簡単な質問だった。
本当に、簡単な質問だった。
小学生でも言えるような、稚拙で、陳腐で、くだらない————それ故に、逃げ場のない問いだった。
頬が軋む音がする。
瞼が軋む音がする。
理性が、軋む音がする。
軋んで。
軋んで。
軋んで。
…………バキリ、と。
罅割れた、微笑の奥で。
彼は涙を零すように、
言った。
いっしょにいたいよ、と。
「一緒に居たいよ。一緒に居たいに決まってるだろ!!……けど、そんな事言えない。言える資格が俺にはない!だってそうだろ!!俺が結婚の話なんてしなければ君達は事故に遭わずに済んだ!俺が結婚したいなんて言わなければ鈴香の両親が死ぬことは無かった!鈴香がこんな訳の分からない病気に罹ることなんてなかった!!……くそったれ。分かってる。分かってるよそんなこと!でも!俺が何をしたって言うんだ!ただ、朝起きたら鈴香がいて、一緒に飯食って、仕事して、同じ家に帰って……、別に金なんてなくてもいい。慎ましやかで構わない。そんな程度の幸せを望んだだけだ!悪いのか?どこにでも転がってるような生き方を望むのがそんなに大それてるって言うのか!?ふざけんな!ふざけんなよ!!どうして俺ばっかりこんなに悩まなくちゃならない!どうして鈴香ばっかりこんなに苦しまなくちゃならない!……ちくしょう。神サマって奴が本当にいるのなら、そいつは人間以下のクソ野郎だ!仮に俺の望んだことが悪だったとして!許されないものだったとして!どうしてその罰の矛先が俺じゃない!どうして鈴香にばかり背負わせる!……これからだ。これからだったんだ!!ずっとずっと苦しんできて!ずっとずっと悲しんできて!それでも必死に歩いていたんだ!!少しくらい報われたっていいじゃないか。一緒に居たいかだと?居たいに決まってる!でも!これが罰だって言うのならそんなのダメだ。だってそれなら、俺が傍にいる限り、君の体は治らないってことだろう?俺がそう願えば願うほど、君を苦しめるってことだろう?それが分かってるのに君の隣で立ち続けて、俺はどんな顔をしてればいいんだ。笑っていればいいのか?責任から目を背けて!苦しみだけを君に押し付けて!全部から目を逸らしたまま何も知らない体でバカみたいに笑っていればいいのかよ!!ふざけんな!!……分かってるさ。こんなもの、ただの妄想だ。空想だ。俺がいようがいまいが、きっと何も変わらないんだろう。だけど現実が鈴香を救ってくれないって言うのなら、空想だろうと妄想だろうと縋るしかないじゃないか!可能性なんてないって最初から分かってても、縋らずになんて居られないじゃないか!…………、何なんだよ、クソ…………。何が支えてやりたいだ!何が幸せにしてやりたいだよ!!結局俺がやってきたことなんて、なんの意味もなかったんだ!ただ鈴香に甘えて寄りかかって、それに気づきもせずにのうのうと!傷つけるだけ傷つけて!苦しめるだけ苦しめて!付き合う前だってそうだ!!君に振り向いて欲しくて!君の視界に入りたくて!そんな身勝手な理由で君の心を踏みにじった!踏みにじったものをさも自分が直したかのような面をして!偉そうな言葉を並べるだけ並べたてて!そうやって君の心をこじ開けた!あまつさえ心を許しているなんて錯覚させた!その結果がこれだ。何一つ君にしてやれなかった!一度だって君を支えてなんてやれなかった!俺はただ君を不幸にしただけだ!!……もう認めたんだ。もう十分思い知ったんだよ。だったらもういいじゃないか!どうせ今更何をしたって結果は変えられないんだ。だったらもう諦めたっていいじゃないか!最初から俺にしてやれることなんて何も無かったって分かったんだから!俺には君を幸せにしてやることなんてできなかったって思い知らされたんだから!それなら俺に出来るのなんてもういなくなる事しかないじゃないか。それ以外に何ができるって言うんだ。こんな俺がいなくなって鈴香が救われる可能性が万に一つでもあるって言うなら、それでいいだろう!?だから、だからもう、俺を独りにしてくれよ!俺に、君を救わせてくれよ!!!!」
砕け散った、微笑の仮面。
その奥から噴き出した、ありのままの心を、彼女は黙って聞いていた。
世界で一番情けなくて、世界で一番みっともないその声を、ただ黙って聞いていた。
だけど。
「……うん、よかった」
彼女はそう言った。
「正直ね、安心したよ」嬉しそうに、少し声を弾ませて。「もし、和希の言ってることが本心で、あたしが嘘だって思いたいだけだったらどうしようって不安だったから」
だってそうでしょう?と彼女は苦笑する。
「本気で別れたいなんて言われてたら、あたしにできることなんて何も無いんだもん。実際、あたしはそう言われてもおかしくない状況だって自覚もあるしね」
「……だったら、なんだって言うんだ」
吐き捨てるように、呟く。
「嘘だったとして。本心じゃなかったとして。だからなんだって言うんだ?状況は何も変わらない。君の病気が治るわけじゃない。俺が傍に居ていい理由になるわけじゃないだろ」
「なるよ」
「…………、は?」
即答だった。
なんの迷いもない、答えだった。
「だから」
あっさりと。
まるで、常識でも語るように。
彼女は繰り返す。
「和希が傍に居ていい理由になら、なるよ」
むしろ、どうしてこんなことも分からないのかとでも言いたげな顔で、
「和希が本当に別れたいと思ってるんじゃないのなら、『別れたい』じゃなくて『別れるしかない』って思ってるのなら。後は何も難しいことなんかないじゃない。あたしは和希と一緒にいたい。和希もあたしと一緒に居たい。ほら、問題なんか何も無いじゃない」
「な、にを」
意味がわからなかった。
彼女がどうしてそんなことを言えるのか、理解できなかった。
「何を言ってるんだ!?俺の話、聞いてただろ!このままじゃ君の病気は治らない!俺が傍にいる限り救われる可能性なんてないんだ!問題なんかあるに決まってるだろ!」
「なんで、あたしの救いを和希が決めるの?」
「————、はは」
本当に、今度こそ。訳が分からなさすぎて、彼は笑った。
あまりにも意味不明な言葉を、笑った。
「じゃあ、あれか?君は、病気なんか治らなくていいって言うのか。こんな所に閉じ込められたまま、実験動物みたいに毎日ただ検査だけを繰り返して、一生世界に疎まれたまま死んでいってもいいって、そう言うのか」
「え、なにそれ。嫌に決まってるじゃんそんなの」
心の底から嫌そうに顔を顰めて、彼女は身震いする。
そして。
「だったら、」
「————でも、和希がいなくなるのはもっと嫌だよ」
続いた声に、彼は言葉を失った。
「だからさ、優先順位の問題なんだよ」
諭すように、優しい声音で。
彼女は。
誰よりも何よりも孤独を知っている彼女は、語る。
「理論も理屈も置いといてさ。仮に、和希がいなくなって、あたしの病気が治ったとして。あたしはそんなもの、欲しくない。その程度のことで救われたなんて思えない。だって、そんなの意味が無いじゃん。あたしが外に出て、手を繋ぎたいのは和希なの。抱き締めて欲しいのは和希なの。笑い合いたいのは和希なんだよ?なのに、和希がいなくなっちゃったら、今と何も変わらないじゃない。外に出たって一人なら、ここと何も変わってなんていないじゃない。……だったら、うん。やっぱり、そんなものに意味なんて無いんだよ」
「…………、」
「あたしの中での優先順位はいつだって和希が一番なの。こんな所で閉じ込められても、和希が一緒にいてくれるなら耐えられる。世界の全てがあたしを嫌っていたとしても、和希が好きでいてくれるなら、あたしはそれを背負っていける。だから、お願い。和希があたしと一緒に居たいと思ってくれてるなら、お願いだから、逃げないでよ」
…………ああ、と彼は俯いた。
彼は、他人から見た自分の価値など分からない。
自分がいなくても勝手に回っていく世界を見ていれば、そんなもの無いだろうと、そうも思う。
けれど。
少なくとも、彼女にとっては違うのか。
高山鈴香にとってだけは、世界と天秤にかけても城山和希の方が重いと。
そう言うのか。
「……きっと、君は後悔する」
「かもね。それでも、あたしはあなたと一緒に居たい」
「……俺は君に何もしてやれない」
「かもね。それでも、一緒に居てくれるだけであたしは救われる」
「……俺は、君を支えてなんてやれなかった」
「————君の価値は俺が保証する。俺が生きている限り、君の価値は絶対に無くならない」
小さな声が、言葉を紡ぐ。————それは、いつか、彼が紡いだもの。
顔を上げる。
彼女は、真っ直ぐに彼を見つめていた。
まだ肌寒かった月夜。あの時、あの場所。どんな思いでそれを紡いだのか。どんな思いで彼女を抱きしめたのか。
忘れるなと、その表情が言っていた。
「あの時、あたしがどれだけ救われたか、きっと和希にだって分からないよ。二人で出掛けた河川敷をどれだけあたしが好きになったのかだって。おかえりって言ってくれるあなたの声に、どれだけ嬉しくなっていたかなんて絶対に分からない。だから、」
真正面から、逃がさないように視線を合わせて、逸らさないように強い口調で、捻じ込むように聞かされる。
「あなたの価値はあたしが保証する。あたしが生きている限り、あなたはあたしを支えてくれている」
……めちゃくちゃだ、と呟いた。
悲しみを背負うことから、苦しみを背負わせることから逃げるなと。君は言うのか。
ああ、
それは、なんて。
「……鈴香は、わがまま過ぎるよ」
「そうだよ。あたし言ったでしょ?自分勝手でわがままなんだって。和希は言ってくれたでしょ?わがままを言い合って生きていこうって」
胸を張って笑う彼女に、そっと目を閉じる。
彼女の両親を奪ってしまった事実は変わらない。彼女の人生を狂わせてしまった過去は取り返しなんてつかない。
それでも。
「ああ、そうだな」
幸せだなどと口にする権利は失った。
幸せにしてやるなどと嘯く資格も失った。
それでも、もう一度誓う傲慢が許されるなら。
「俺は、君が好きだ。だから————ずっと一緒にいさせて欲しい」
今度こそ。
もう二度と君を置き去りにはしないと。
そう誓った。
「…………、うん」
————笑って頷く彼女の頬に、雫が一筋。
線を描いて、零れ落ちた。




