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その後、彼女の入院準備のために一度家に帰った。
ある程度回復したら近所に転院することになる、と医者は言っていたが、少なくとも検査が終わるまでは移れない。
数日か、数週間か。素人の彼には回復にかかる期間が読めないため、できる限りの生活必需品を詰め込む。
検査のことについては、極力考えないようにした。
長時間、それも事故で衰弱した状態で毒物と接触し続けた彼女の体がどうなっているのかはまだ分からない。分からない以上、考えても無意味だ。何事もなくあってくれと祈ることしか。
それならばいっそ、今は何も考えない方がいい。
ただの事故入院ということにしておけば、まだ頭も体も動いてくれる。ただでさえ彼女の両親のことや入院費用のことなんかで、やらなければならないことも考えなければいけないことも山のようにあるのだ。そんな時に不安に駆られて自分まで動けなくなってしまったら、それこそ目も当てられない。
機械的に作業をこなし、キャリーバッグ一つを抱えて家を出る。病院へ戻るのには電車を使った。
行き帰りを含めて約半日。病室に着く頃には半分陽が落ちていた。
「なんか、旅行でも行くみたいだね」
彼の抱えてきた大きな荷物を見て、彼女は笑った。
「多すぎて困ることもないだろ。いつ転院できるかもわかんないんだし。ちょっとした旅行気分だよ俺は」
「大袈裟だなあ」
心配し過ぎだよと、呆れたような声で言われた。
照れたふりをして頭を掻きながら、彼女から見えないように顔を隠す。
本当に大袈裟であればいい。こんな荷物、必要なかったねと彼女にからかわれる日が来てくれればそれが一番いい。
「今日からね、いくつか検査するんだって。事故の後遺症とかないか調べるって言ってた」
ただの事故後検査。そう伝えて欲しいと医者には頼んであった。予想通り、彼女の口調も軽い。
あれ以来、彼女は両親の話をしない。明るい表情の奥が透けて見えてしまうからこそ、これ以上彼女に背負わせるものを増やしたくはなかった。
さあ、派手に演じろ。
「後遺症って……なんだそれ。大丈夫なの?」
俺は道化だ。そうやって生きてきただろう?
何の役にも立たない心など殺せ。今は、彼女を安心させるためだけの人形であればいい。
「大丈夫大丈夫。怪我が結構酷かったから念のためにって先生も言ってたし」
彼女はベッドの上で腕をまくって、わざとらしく力こぶを作ってみせる。
「もう全然元気!寝るのもちょっと飽きてきたからそろそろ動き回りたいくらい」
「……その二の腕で?」
「あー!なにそれ!太ってるって言った!?」
「そんなこと言ってないよ。ただちょっと筋肉落ちたんじゃないかなあって」
「言った!今言外に言った!」
むくれる彼女を笑ってなだめる。
殺した心が悲鳴を上げる。幸せだなどと思う資格はなくなったはずなのに。
些細な時間すら愛おしくて、作り笑った表情が歪むのを必死で堪えた。
不似合いな表情を浮かべれば、彼女は余計なことに色々気づく。不自然であればあるほど、彼女は余計に心を砕く。
だから、もう少し待っていてくれ。
資格も権利も失った分際でおこがましいかもしれないけれど。せめて、もう少し。
君の痛みを代わりに背負う傲慢を許してほしい。
その日は何も伝えず、何事もなかったかのように過ごした。当たり障りのない会話だけで時間を消費して、怪我の詳細は医者から伝えてもらう。
陽が完全に落ちきった頃、看護師に宿泊するかどうか聞かれたのでそのまま泊まっていくことにした。
翌朝以降、実質的な面会謝絶状態だったのが落ち着いたのと同時にぽつぽつと彼女の親戚や友人が見舞いに来るようになった。
彼女の意向で両親は密葬の形を取っており、親族関係にはどうして連絡しなかったのかと叱られもしたが知ったことではない。
あんたら以上に傷を負った彼女が決めたことだ。その決断にあんたらが口を出す権利なんてない。
親戚が来ると必ずその類の話をされて、彼がやんわりと追い返すのが通例になっていた。
その分、彼女の友人が訪れた時は彼も気が楽でいい。
もともと他人との関わりを避けてきていた彼女の友人自体そう多いわけではなかったが、それでも訪れる友人はやはりと言うべきか間合いの取り方が上手かった。
彼女の両親のことや、一緒にいる彼との関係に多少驚きつつも、必要以上に踏み込もうとはしない。ただ友人たちは決まって安堵したような笑顔を浮かべながら彼女と話していた。
「もー、本当にあんたは。ちょっと大人になったかなって思ったらすぐこれだから……」
「ちょっとー!昔からやらかしてたみたいな言い方やめてよ!」
「何言ってんの。高校の時からやらかしてばっかりでしょ。電車の定期借りパクされて帰れなくなったなんて理由でウチ泊めたことあんの、後にも先にもあんただけよ」
見ず知らずの人間に定期渡すとか普通あります?と同意を求めるような視線を投げられた。
「昔からそんな感じなんですか」
「昔からそんな感じです。とにかく押しに弱くて……」
「なんで二人して共感してるのよ!」
友人らと話す時だけは、彼女の口調も裏表なく軽い。それだけで、来てもらえてよかったと思う。
彼女には、自分以外にも支えてくれる人はこんなにもいるのだと確認できたから。
一度、適当な理由をつけて友人の一人に連れ出されたことがある。
「これ、少ないですけど……これから色々物入りでしょうし」
そう言って差し出された茶封筒はパッと見でもそれなりと分かる程度には厚みがあった。
こういう細かい気遣いができるのも彼女の友人故か。似ているから友人なのか。
苦笑して、そっと押し返す。
「とっておいて下さい。鈴香はきっと、あなた達にだけは憐れんでほしくないと思うので。退院したら、そのお金でまた遊びに来てやってください」
そう言うと、それでもと重ねてはこなかった。
「あの子を、よろしくお願いします」
友人達は必ず最後にそう言って帰って行く。
深々と頭を下げて、歩いていく後姿を眇目で見送った。
頼むと、任せるに足ると認められることは嬉しい。————だけど、俺はそれに応えるだけのことなんて何一つ。
そう思うと、何も言えなかった。
何人見送っても言葉は出ないまま数日が過ぎて、見舞いに来る友人も途切れた。
————彼女の検査が終わるのと同時に。




