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医者の話が終わっても、彼女と過ごす時間はなかった。
警察と保険屋と会社の人間とが入り乱れて、状況がそれを許さなかった。
彼や彼女の事情など気にも留めず、いっそ暴力的なまでに押し寄せる人の波は、まるで嵐のように過ぎていった。
嵐が過ぎ去った後、そこには何も残らない。全てを洗い流された場所でふらふらと足跡を追う。
追突したタンクローリーはそのまま転倒し、運転手も意識不明の重体らしい。詳しい状況は本人が目覚めた後に聞くと真面目腐った顔で言われた。
事後処理は保険屋に請け負ってもらう。保険屋経由で弁護士もつけてもらえるらしい。状況は彼一人で背負えるレベルをとうに超えていたため、ありがたく押し付けさせてもらった。
会社は彼と彼女二人分の有給手続きを取ってくれた。有給で足りない分は欠勤扱いになるらしい。入社以来初めてになる有給消化がこんな形になるとは思っていなかった。こんな形で自分と彼女の関係が明るみに出るなんて、もっと。
出向いてきてくれたのが課長だったのは幸いだった。
「————彼女の容態は?」
「…………まだ、麻酔で眠ってます。でも手術は成功したって」
「そうか」
課長はそれだけ言って、ベッドの上の彼女を労わるように目を閉じた。
安易に慮ったようなことを言わない気遣いがありがたい。
初めて見る、課長の固い表情に心の中で頭を下げる。
きっと、彼女を案じる気持ちはあるのだろう。悼む気持ちもあるのだろう。
だが、それは自分たちだけのものだ。赤の他人に軽々しく彼女を心配などして欲しくはない。そんな上辺だけの言葉など、取り繕ったような辞令など、言われるだけで腸が煮えそうだ。
そんな身勝手な思いを、課長は汲んでくれていた。
「…………、なにも、聞かないんすね」
無言で彼女を見下ろす影に、ぽつりと尋ねた。
事故の詳細も、彼と彼女の関係も、課長は一度だって口にしなかった。
「聞いてほしかった?」
「いいえ」
「じゃあ聞かないよ」
ありがとうございます、と返した声は小さすぎて届かなかったかもしれない。
課長は彼の頭に一度手を置いて、病室を後にした。
背後で静かに扉の閉じる音がする。ようやく二人だけになった部屋には、規則的な機械音と彼女の息遣いしか残らない。
外界から切り離されたような空間で、呆然と彼女を見つめる。
綺麗な顔だ。頬を覆うガーゼがなければ、本当にただ眠っているだけのように見える。
————いっそ、このまま。
何も知らないまま、何も分からないまま眠っていられたら。
彼女の両親がどうなったかなど知ることもなく、彼女自身がどうなるかなど考えることもなく眠り続けていられたら。
それは彼女にとって最も幸せなことではないのか。
彼女に目を開けてほしいと願うのも、彼女の声をもう一度聞きたいと祈るのも、全て彼のわがままに過ぎない。
お前は彼女に何をしてやれていた。
頭にこびりついて離れない自分の言葉が何度も何度も残響する。
彼女の強さに甘え、寄りかかり続けていた自分が、まだこれ以上彼女に悲しみを背負わせようなどと。
それを、人は傲慢と呼ぶ。
澱のようにたまった傲慢のツケが、これだ。
「……ふざけんなよ」
だったらなぜ、ここに横たわっているのが俺じゃない。
なぜ、彼女が。なぜ、彼女の両親が。その清算を押し付けられている。
因果応報がこの世界の法則だと言うのなら、死んでいるべきは俺のはずだろう。
…………馬鹿な考えだというのは分かっている。それでも暗く淀む思考は際限なく加速して、底が見えない。
いっそ本当に死んでやろうか、と考えて、
彼女の手が、動いている。
「鈴鹿っ!」
探している。ぱたぱたと布団を叩く手を取った。
彼女はゆっくりと目を開けて、彼の姿を視界に収めると、ホッとしたように笑った。
「……………………よかった。いた」
「ああ。いるよ。ちゃんといる」
存在を伝えるように、しっかりと両手で握りなおす。
彼女は、緩慢な動きで視線を彷徨わせて、
「ここ、どこ?」
「病院だよ。追突されたんだ。車に」
「そっか……」
事故、遭ったんだ。息が抜けるように、そう言った。
突然後ろから突っ込まれたのだ。きっと何が起きたのかも分かっていなかったのだろう。
「あたし、どうなったのかな」
「左足が折れてる。出血も酷くて……、でも手術も無事に終わった」
二週間もしたら退院出来るらしい、と告げると、彼女の気配がいくらか和らいだ。
「よかった。こんな立派な個室、いつまでもいたらお金無くなっちゃうもんね」
そう軽口を叩いて、小さく笑う。
一通り周囲を見回した彼女は、真っ直ぐに彼へ視線を戻した。
もう、その瞳はしっかりと開いていた。
「お父さんと、お母さんは?」
「…………、」グッと、喉が鳴る。
聞かれることは分かっていた。それに答える覚悟だって決めていたはずだった。
でも、
どう伝えればいのか。そもそも今告げることは正しいのか。
目覚めた直後でまだ体調だって万全じゃない。怪我のショックもないとは言い切れないだろう。きっと今は自分の事情を抱えるだけで手一杯のはずだ。何も今じゃなくたって。————うるさい黙れ。
もっともらしい理屈で逃げようとする心を、奥歯で噛み潰す。
彼女に何もしてやれていなかった。————ならば、伝えることくらい。
「亡くなった」
誤魔化せと叫び続ける心を噛み潰して噛み潰して噛み潰して。
食いしばった歯から漏らした言葉は端的になった。
「…………そっか」
素っ気なく、彼女は頷いた。
あまりにも薄い反応に、まるで言葉が通じていないのにわかったフリをされているような不安感を覚えて、
「そっか……」
包み込むように握った両手は、痛いほど強く握り締められていた。
「……お父さんはね」
彼女は天井を見上げ、呟く。
「昔から融通きかなくて、頑固で、それなのに要領悪くて。あたし達が何か言ったっていつも聞かないのに、結局間違ったことばっかりしてるような人で。間違えたって気づいても全然謝ったりしないの」
謳うように。
「お母さんはね。優しいけど甘やかしてはくれなくて、いつも小言ばっかり言ってきてた。テストで満点取ってきた小学生に、字が汚いって怒る母親とかちょっと酷いと思わない?」
慈しむように。
微笑を浮かべて、彼女はそっと過去をなぞる。
「————本当にね、急だったんだ」
主語のない時系列は、それでも事故の時だと分かった。
「気が付いたら熱くて苦しくて、でもすごく寒くて。何があったのかも分かんないのに、ああ、死ぬのかなって思った」
記憶を探るように、目を閉じる。
「その時に、抱きしめられた気がした」
お母さんの腕だった、と彼女は空いた手で肩を抱く。
「ありがとうって言われた。ごめんなって言われた」繋いだ手が、小刻みに震えていた。「生まれてきてくれありがとうって。見守ってやれなくてごめんなって。…………遅すぎるよね。今まで、一度だってそんな甘い言葉言ってくれなかったのに。一度だって、謝ったことなんてなかったのに」
閉じた目尻から流れ出した透明な雫が、彼女の頬で線を描く。
遅すぎたし、早すぎた。
もっと甘えたかった。もっと喧嘩していたかった。もっと聞きたいことがあったし、もっと話したいことがあった。まだちゃんと感謝も伝えられていなかったのに。あたしを生んでくれてありがとうって言いたかった。おかげで出会えた人がいることだってちゃんと紹介したかった。
…………誰に聞かせるでもない静かな声は、流れる涙と似ていた。
きっと、彼女は知っていた。
両親が彼女を愛していてくれたことも。目を覚ました時、もういないことも。
別れはもう済ませてきていたのだから。————たとえ、伝え切れなくても。
「結婚の話をした時、二人にすごく怒られたよ」
「……そりゃ、そうだよな」
「普通は喜んでくれるところだと思わない?」
「いきなりじゃなくて、会ったことも無い奴が相手じゃ無かったらね」
そりゃ、そうだね。彼女は真似するようにそう言って、
「でも、最後にはおめでとうって言ってくれた」涙の気配を残したまま、それでも嬉しそうに笑う。「鈴香が心を許せる相手ができてよかったって。支えあって生きていこうと思ってくれる人なら、きっと大丈夫って」
「……そっか」
一言しか返すことが出来なかった。
喜ぶべきだったのかもしれない。悲しみを抱えながら、それでも前を向こうとする彼女を励ますべきだったのかもしれない。
けれど。
彼女から両親を奪った自分が、今更どんな顔をして言葉をかければいい。今更どんな顔をして喜べと言うのだ。
「退院したら、ちゃんと結婚式しようね」
彼女は健気に笑っていた。
————なあ、君は本当にそれでいいのか?
最後まで、その言葉は口にできなかった。




