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 彼女との日々は、ささやかながらも穏やかに過ぎていった。

 特に大きな出来事がある訳ではなく。だがそれ故に不幸に見舞われることも無く。

 数年もしたら「そんなことあったっけ?」と忘れ去ってしまうような、なんでもない日々の中で小さな幸せを見つけて。

 一日を踏みしめるように、ゆっくりとゆっくりと過ぎていった。

 きっと、こんな日々を続けながら自分達は歩いていくのだろう。来年も、再来年も————願わくば、共白髪になってゆくまで。

 そう、思っていた。

 あの日までは。


* * * * *


「————鈴香の両親に会ってみたい」

 きっかけは、その言葉だった。

 夕暮れと昼下がりの間のような時間、彼は何気なくそう口にした。

 年末の決算期だとか年度末の引き継ぎ業務だとかを越えて、陽も長くなってきた。一日が短くなってきたなんて話をしていたのはついこの間のような気がするのだが、彼女と過ごし始めてから時間が経つのが早くなった気がする。

 賑やかしに点けていたテレビのCMも春の桜商戦だかで、花見やら何やらと随分騒がしい。

 それを聞き流しながら、取り込んだ洗濯物を畳んでいた時のことだった。

 この頃には、彼も中学生から多少は成長しており、できる家事も増えていた。

 と言っても、せいぜいが洗濯物を畳むことと軽い掃除程度だが。

 そんな中、思いつきのように口をついて出た。————鈴香の両親に会いたい。

 彼女は広げたシャツを両手に持って、首を傾げる。

「…………、なんでまた急に?」

「いや、そろそろ俺らもさ、将来のこととか考えてもいい時期じゃないかなと」

「将来って……」

 シャツを畳む手が止まった。

 何を言われているのか微妙に理解していない様子に、彼は「んー……」と唸って、

「結婚とか、してみない?」

 夕ご飯何にする?と聞くみたいな気楽さで言葉を放る。

 寄り添うようにソファへ腰掛ける二人の間に距離はあってないようなものだったが、彼女に届くまでには随分と時間を要した。

「………………………………………………………………………………けっこん?」

「そう、結婚」

 油の切れた機械のようにぎこちなくこちらを向いた彼女へ頷く。

「……………………………………………けっこんって、なんだっけ?」

「結婚は結婚だよ。婚姻。マリッジ」

 心底訳分からなさそうな顔をされてしまった。

 おかしい。

 彼の文化圏では結婚という言葉はそれほど聞き馴染みのない言葉ではないはずなのだが、もしかして彼女の文化は違ったのか。

 そんな不安が頭をもたげ出した頃、彼女の頬がみるみる赤くなっていった。

「ええええええええ!?結婚!?」

 あ、文化圏一緒だったっぽい。一安心。

「結婚ってあの結婚!?」

「結婚にあのとかそのとかあるの?」

「いやでも結婚だよ!?洗濯物畳みながらついでみたいにプロポーズしないよ普通!」

「……む」

 そう言われてみれば、確かに。

 彼としては、付き合った当初から結婚前提みたいな感覚があったので、そんなに大したことを言ったつもりもなかったのだが、よく考えてみれば割と重大発表だったかもしれない。

 洗濯物片手にバラエティ番組がBGMのプロポーズとか、結構失敗した感がある。

「ごめん。オシャレなレストランとか予約してやり直すから二、三日後にやり直していい?」

「もう遅いよ!どれだけオシャレでもプロポーズされた瞬間に洗濯物浮かんでくるよ!ムードぶち壊しじゃん!」

 珍しく彼女にツッコまれた。

 しかもかなり激しめに。畳み掛けのシャツを放り出す勢いだ。

 ————もしかして、結構やらかしたか、これ。

 実はかなりメルヘンチックな頭をしている彼女のことだ、夜景の見えるレストランで懐から指輪を取り出すシチュエーションとか本気で憧れていても不思議ではない。

 それが蓋を開ければ壁しか見えない部屋でパンツ片手のプロポーズである。

 うん。これは怒られる。

「あー、うー」

 かと言ってここからロマンチックに挽回するような技術もない。

 彼の言葉は珍しく濁った。

「…………もう、しょうがないなあ」

 虚しく口を開けては閉めてを繰り返すこと数度。堪えきれなかったように彼女は吹き出す。

 軽く頭を抱えかけていた彼は、恐る恐る目を上げてみる。

「…………怒ってないの?」

「和希にそういうの期待しても無駄っていうのは分かってるから」

「おおう……」

 さらっと言われた言葉が刺さる。

 なんというか、彼女は時々言葉が鋭すぎると思う。そういう時は決まって彼が全面的に悪いので何も言えないのだが。

 点けっぱなしのテレビからドッと笑い声が聞こえてきた。滑稽な自分が笑われているみたいで気まずくなる。

「でも、やっぱり急だよね。なんで?」

「いや、特に理由とかあるわけじゃないんだけど」

 今そう思っただけだし、と付け加える。

 穏やかに過ぎていく時間。二人で洗濯物を畳みながらどうでもいいテレビを見て、どうでもいい話をする。そんな、何でもないことで笑いあえる日々を積み重ねていければきっと幸せだろうな、と。そこに確かな保証が欲しくなった。強いて理由を挙げるならたったそれだけ。

「一緒にいたいと思うことに理由とかいる?」

「いらない、けど」彼女は少し間をおいて、「……そんな風に決めて大丈夫?後から後悔とかしない?」

「あんま失礼なこと言うな」

 今度は彼が顔をしかめる番だった。

「俺は後悔しなきゃならないような相手にこんなこと言わない」

「…………ん、そうだね。ごめん」

 俯くように頷いたその顔は、ほころぶように笑っていた。

 そうして、おもむろに居住まいを正すと、彼女は深く頭を下げた。

「————不束者ですが、よろしくお願いします」

「こちらこそ。プロポーズもまともにできない男ですが」

 下げた頭を持ち上げる。

 窓から射し込む夕日に照らされた彼女と目が合って、どちらからともなく笑った。


*  *  *  *  *


 一週間後。

 両親への挨拶の前に、彼女が一度帰省することになった。

 お互い家族に同棲していることはおろか、付き合っていることすら告げていないのだ。そんな状態でいきなり押しかけて、娘さんをくださいなどと言う勇気は彼にもなかったので、願ったりである。

 三人兄弟の末っ子だった彼には良くも悪くも両親の関心が薄い。距離も近く、いつでも出向ける距離にある彼の家が後回しになるのも順当な流れではあった。

「それじゃあ、行ってきます」と鞄をもって出て行った彼女を見送ってから、彼にとっては久しぶりとなる一人きりの休日をだらだらと過ごす。

 昔は一人でいる時間が最も楽だったものだが、今となってはそれが酷くつまらない。

 結局、持て余した時間は睡眠で潰すことにした。

 ダブルサイズのベッドに潜り込む。一人だとこんなに広く感じるんだな、などと思った。

 年末からついこの間まで激化していた仕事の疲れもあったのだろう。暇つぶしで横になった割にはすぐに意識が落ちた。



「……………………。ん……」

 心地よい微睡みを叩き切るような電話の音で目を覚ます。

 部屋の中はすっかり暗くなっていた。カーテンの閉まっていない窓の外を見ると、遠くに半月が光っている。

 しつこく鳴り響く電話の音に、ずり落ちるようにベッドから出る。

 暖かくなってきたとはいえ、陽が落ちるとさすがにまだ少し冷える。布団の温もりから一歩出ると背筋がぶるりと震えた。思わず舌打ち。

「はい」

 応じる声が不機嫌なものになったのも仕方がないだろう。

 電話の声は、聞いたことがないものだった。

 事務的かつ忙しなさそうなそれは、ある病院の名前を名乗って、


 高山鈴香さんが事故に遭われました。すぐこちらへ。


          思考が、

                           断絶する。

 耳に入り込んでくる声は、脳に届く前に意味を消失して雑音にしか聞こえない。

 ほぼ脊髄反射だけで住所と病院名だけを拾った。

 どうする。どうすればいい。

 正常に回らない脳で車の鍵を探し、彼女が乗って行っていることに遅れて気が付いた。自分の馬鹿さ加減に殴りたくなる。

 もし、これで間に合わなかったら。

 そんな不吉なイメージを振り払うように、タクシー会社の番号を調べて電話をかける。

 幸いにも空きはあるらしい。すぐに向かうと返事があった。

 取るものも取らず、引っ掛けるように靴を履いて家を出た。

 ————早く。とにかく早く来てくれと。

 そう願い続けて、何分経ったか。

 近づいてくるライトに顔を上げる。

 自動で開くドアすらもどかしく引っ掴んで乗り込む。

 どちらまで、と言う運転手に無言で走り書きした紙を渡した。

「お願いします。できる限り早く」

 運転手はナビを打ちながら、高速の使用を提案した。

 彼の希望を叶えるには最適の方法だった。


 どれだけの時間揺られていたかはわからない。

 手を組んで、頼むとそればかり繰り返して、気が付いたら見慣れない病院の駐車場に滑り込んでいた。

 メーターを見ると、四万を少し超えたところだった。

 財布からあるだけ札を引き抜いて渡す。

「お釣りはいりません」

 転げ出るようにドアを開く。

 大きな病院だった。彼女がどの病棟にいるのかも分からないまま走る。

 一番近くの受付で彼女の名前を告げると、すぐに手術室へ通された。

 ドアの上で点灯する赤いランプに眩暈がした。————こんな光景、ドラマの中だけだと思っていた。

 崩れ落ちるようにベンチへ腰かける。

 リノリウムの床と目が合った。祈るように手を組んで俯く自分の姿は、それこそフィクションみたいだなと、場違いにも乾いた笑いが漏れる。

 ドラマの中。フィクションみたい。————そう思えていた今までがどれほど幸せだったのか。突きつけられた今もなお、そうやって逃げようとする心があまりに滑稽でどうしようもない。

 こんなことになると分かっていたら、彼女を一人でなど行かせなかった。彼女の両親にどう罵られようが殴られようが、最初から二人で行っておけばきっとこんなことにはさせなかった。

 そう思って、ふと彼女の両親はどうしたのだろうと気が付いた。

 この病院は彼女の実家からもそう離れてはいない。遠く離れた彼が駆け付けたというのに、彼女の両親の姿が見えないというのもおかしい。

 まさか、連絡がいっていないのでは。彼女の連絡先はとうに二人のアパートに変更されており、身分証なんかも全てそう書き換わっているはずだ。

 だとすれば、待つことしかできないこの時間で連絡を入れておくべきだ。そう気づき、携帯を取り出しかけて、固まった。

 手術室の前で電源を入れていいのか。病院内では携帯の使用は禁止。無条件に従ってきたルールが、何をどんな基準で定められているのかも知らない。知らないから、携帯の電源を入れることすらできない。

 もし、万が一にでも彼女の手術に影響が出たら。芽生えてしまった不安に、動けなくなる。

 少し歩けばどこかしらに携帯の使用可能な場所はあるだろう。だが、電話を掛けに行っている間に彼女にもしものことがあったら。

 そもそも彼女の実家の電話番号だって知らないのだ。こんな時ですら何もしてやれない自分に腹が立つ。

 彼女の遺影の前で、両親から詰られる想像が頭の中で点滅する。そんな不吉なことを考えるなと思えば思うほど映像は濃く焼き付いて離れない。

 お前なんかと付き合ったから。

 頭の中で木霊する声に、ざわりと背中が粟立った。

 こんなことになったのは、自分と彼女が出会ったからか。自分が彼女に踏み込んだからか。

 あまつさえ、

 ずっと一緒にいよう、などと。

「……やめろ」

 自分一人、まともに立って歩けもしない分際で、何が支えあうだ。結局は彼女に甘えて寄りかかっていただけだろう。お前は彼女にいったい何をしてやれていた。

「……やめろ」

 心の隙間に付け込んで、洗脳のように誑かしていた人でなしが。

「やめろッ!!」

 振り払うように声を上げる。

 詰る両親の顔は、自分自身だった。

 自分の顔が、自分を嘲笑うように歪んでいた。

 リノリウムを照らす赤色が、ふっと陰った。

 首の関節が、ぎいっと音を立てる。顔を上げたのだという認識は、手術衣を着た医者が目に入ってから追いついた。

 手術中のランプは、消えていた。

「……彼女は、」

 漏れ出した声はあまりにも掠れて弱々しく、自分の声ではないようだった。

 医者は彼と目が合うと、分かっているとでも言うように頷いた。

「手術は無事終了しました」

 その一言で、張り詰めたものが一気に切れた。

 危うく気を失いかける寸前、医者の後ろからストレッチャーで運び出される彼女が出てきた。

 無言で駆け寄る。点滴やら酸素マスクやらが無数に着けられていたが、規則的に曇るマスクで彼女が生きていることを実感できる。

 麻酔で深く眠っている彼女の手を取る。確かに感じる温かさに大きく息を吐いた。

 そのままストレッチャーについていこうとして、寄り添う看護師にそっと止められた。

「先に手術についてお話がありますので」

 ストレッチャーだけが運ばれていく。彼女と引き離されて行くような気がした。


「事故による負傷自体は大きいものの、後遺症が残るようなものではありません」

 白く照らされた部屋で、医者はそう言った。

 机の上で光るパソコンには、彼女のカルテと思しき画面が表示されている。

 医者はそれを操作しながら、遠慮がちに続けた。

「事故の詳細については、どこまで?」

「……なにも。連絡をもらってすぐ来たので」

 詳細などどうでもいいから、早く彼女に会わせろ。そう言いたくなるのを堪えて、冷静を取り繕った声を返す。

 そうですか、と医者は言葉を探すような間をおいて、

「高山さんらは、走行中に事故に遭われました。状況的には、後方からの追突だと伺っています」

「ちょっと待ってください」

 今、なんて言った。

「高山さんらって、どういう意味ですか」

「……ご存じありませんでしたか?」

 驚き半分、悼みが半分といった顔で医者は彼に向き直った。

「高山さんはご両親と一緒に事故に遭われたそうです」

「……じゃあ、彼女の、両親は」

 結局彼女の手術が終わるまで姿を見せなかった両親。その理由。

 最悪の想像を掻き消すように、疑問を投げた。

「…………、残念ですが」

 当院に運ばれた時には、もう。

 その言葉に、目の前が暗くなった。

 追突してきたのは大型のタンクローリーだった。後部座席に乗っていた彼女の両親は、追突の衝撃だけで既に助からないような状態だったらしい。運転していた彼女は助かったのはせめても幸いか。

 そう思って、思った自分を殺したくなる。

 ふざけるな。なにが幸いだ。この期に及んでも自分の立場でしか考えられないなど、一体どこまで醜くなれば気が済む。

 彼女は、たった二人の親すらいっぺんに失ってしまったというのに。

「……彼女は、そのこと」

 語尾を濁した言葉に、医者は静かに目を閉じて首を振った。

「おそらく、ご存じないかと」

「そう、ですか」

 ならば、彼女に伝えるのは自分の役目だ。

 彼女の喜びも悲しみも共に背負うと決めた。一緒にいるとはそういうことだ。

 だから、それを伝える役目は誰にも譲る気はない。

 そう、腰を上げかけて、

 少々お待ちください、と医者に止められた。

「…………、まだ、なにかあるんですか」

 これ以上、俺達に何を押し付けようと言う。

 これ以上、まだ俺達を叩き落そうというのか。

 睨むような眼を向けられても、医者は動じなかった。

「鈴香さんの状態についてです」

 静かに告げられた言葉に、渋々座りなおす。

 医者はそれに一度頷いて、口を開いた。

「先ほども申し上げた通り、彼女の負傷自体は複雑なものではありません。手術も無事終了したので、後遺症の心配も今のところないと考えていただいて構いません」

「なら、なにを————」

「彼女の車に追突した大型車は、毒物を積載したものでした」

 遮るように告げられた言葉の衝撃に、呼吸が止まるかと思った。

 毒を載せていた車が事故を起こしたらどうなる。まさか、漏れたのか。漏れたとしたら突っ込まれたという彼女は。


 切り裂くような電話の音。


 赤く染まるリノリウムの床。


 ずっと一緒にようなどと。


 愚かすぎる自分の言葉。


 嘲笑うように歪んだ自分の顔。


 それら全てが、決壊したように脳で溢れる。

 頭を振って、無理矢理全てを抑えつけた。

「…………彼女はどうなるんですか」

「運搬していたものはシクロヘキサノンという物質で、彼女は事故直後より長時間気化したものと液体状のものの両方に触れていた恐れがあります。術前の検査では中毒症状は見られませんでしたが、詳しいことは精密検査を行わなければ断定できず、」

 御託はいい。

 さっさと結論をよこせ。

「彼女は、どうなるんですか」

 ぐちゃぐちゃとうるさい医者の言葉を断ち切って、繰り返す。

 医者は、一度言葉を切って、端的に答えを寄越した。

「我々にも今は断定できません。明日以降精密検査を行いたいと思います」

 よろしくお願いします、と頭を下げた。

 膝の上に置かれた手は、白くなるほど握りしめられていた。

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