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哲学科助教授・我妻行人、異世界で我思う、故に・・・  作者: 深海周二


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第九章 言葉が届く、故に・・・

ソルウェンからの使いが来たのは、行人が村の服に着替えてから十日ほど経った頃だった。

エルフの若者が一人、村に現れた。ソルウェンの集落から来た、と言った。行人に伝言がある、と言った。

伝言の内容は短かった。「時間があれば、来い。」

それだけだった。

ガランはその伝言を聞いて、何も言わなかった。ただ、行人を見た。その目が何かを言っていた。行けということだろうと、行人には伝わった。

「どのくらいかかりますか。ソルウェンの集落まで。」

「一日半から二日。」

使いの若者が答えた。

「山を越えます。」

「テアを連れて行ってもいいですか。」

使いの若者が少し驚いた顔をした。それからガランを見た。ガランが頷いた。

「構わない。」


翌朝、行人とテアは村を出た。

エナが見送りに来た。食べ物を持たせてくれた。ライナは来なかった。しかし行人が村の入り口を抜けるとき、遠くで作業しているライナの後ろ姿が見えた。振り返らなかった。それが答えなのか、別のことなのか、今の行人にはわからなかった。


 最初の半日は、これまで行人が歩いたことのある道だった。スキル鑑定の町に向かう道と途中まで重なっている。しかし昼を過ぎた頃、使いの若者が道を外れた。森の中へ入っていく、細い踏み分け道だった。

「この先、馬では通れない。」

若者が言った。

「歩きます。」

森に入ると、光の質が変わった。木々が密に立ち並び、上から差し込む光が細く分散していた。地面は柔らかく、足が少し沈む。行人の知っている森とは、匂いが違った。土と草だけでなく、何か甘い匂いが混じっていた。

「この森、特別な匂いがしますね。」

テアが言った。

「精霊が多い森だから。」

若者が答えた。

「精霊がいると匂いが変わるんですか。」

「匂いというより——空気が違う。精霊がいると、空気が少し動いている感じがする。」

行人は歩きながら、その言葉を聞いていた。空気が動いている——それは魔法の「流れ」とテアが言っていたものに近い感覚かもしれない。

「行人さんには感じられますか。」

テアが聞いた。

「わからない。」

行人は正直に答えた。

「ただ、この森の空気が村の近くと違うことはわかります。」

「それだけでも、すごいですよ。」

「そうですか。」

「魔力がある人でも、精霊の多い森と少ない森の違いに気づかない人はたくさんいます。感じ方が鋭いんだと思います。」

行人はその言葉を受け取りながら、歩いた。感じ方が鋭い——それは魔法の外側から観察し続けてきた結果かもしれない。あるいは、元からそういう体質だったのかもしれない。どちらかはわからない。


森の中を歩いている間、使いの若者が時折、この世界のことを話してくれた。

行人が聞いたのは、他の種族のことだった。エルフ以外に、どんな存在がいるのか。

「ドワーフがいます。山の中に住んでいる。あとは——」

若者は少し考えた。

「半人半獣の者たちも、東の方にいます。あまり人間とは関わらないですが。」

「この世界は広いんですか。」

「広いです。俺はエルフの集落から出たことがあまりないですが、旅をする人間は、ひと月以上歩いても終わらない、と言っています。」

行人はそれを聞きながら、村を中心に考えていた自分の世界の狭さを感じた。村の外を初めてまともに歩いている。スキル鑑定の町は日帰りで、ただ往復しただけだった。この世界がどんな形をしていて、どんな広さを持っているか、行人はほとんど知らなかった。

「魔法は、どこの種族にもありますか。」

「ドワーフには少ない。人間は個人差が大きい。エルフは大体使えます。」

「俺のように、全く使えない者は珍しいですか。」

「珍しいです。」

若者は正直に答えた。

「ただ——稀にいます。魔力がない、というより、計測できない、という者が。そういう者は、たいてい別の何かを持っています。」

「別の何か。」

「俺にはよくわかりませんが。ソルウェン様はわかると思います。」

 行人はその言葉を、歩きながら持っていた。


夕暮れ前に、森を抜けた。

抜けた先に広がった景色に、行人は少し止まった。

丘が連なっていた。丘の上に、建物が見えた。村とは全然違う。石造りの高い建物が、丘の稜線に沿って並んでいる。窓が大きく、光を取り込む構造になっているらしく、夕暮れの光を受けて建物全体が橙色に輝いていた。

その建物の周囲に、木々が植えられていた。人工的に植えられたのではなく、建物の方が木々に合わせて建てられたように見えた。建物と自然が、どちらかが主でどちらかが従という関係ではなく、等しくそこにある感じ。

「エルフの集落です。」

若者が言った。

行人はしばらく、その景色を見ていた。

異世界に来てから、行人はずっと村にいた。村は行人にとって、この世界の全てだった。しかし今、村の外にこういう場所がある、ということが、物理的な事実として目の前にあった。


この世界は広い。

そのことが、当たり前のことなのに、今夜は少し新しい事実として届いた。

「きれいですね。」

テアが言った。

「そうですね。」

「ユキトさん、こういうの見て、どう思いますか。」

「どう、というのは。」

「感動するとか、驚くとか。」

行人は少し考えた。

「感動に近い何か、はあります。ただ、感動しながら——なぜこういう形になったのかを考えている。」

「それがユキトさんですね。」

テアは少し笑った。

「私は素直に感動しています。」

「そっちの方がいい。」

「どっちでもいいと思います。」


集落に入ると、村とはまた違う空気があった。

人の数が多かった。エルフだけでなく、人間も何人か見えた。旅人か、商人か。行人と同じように、この集落に用事があって来た者たちだろう。

市場のようなものがある。食べ物、道具、布、行人の知らないものたちが並んでいた。売り手と買い手が言葉を交わしている。その言葉も通じた。当然のことだが、今夜は少し不思議に感じた。


行人は立ち止まって、ある店の前を見た。石で作られた小さな器が並んでいた。中に何かが入っていた。液体か、あるいは粉か。

「何ですか、これは。」

行人が店の者に聞いた。

「魔力を安定させる薬です。」

店の者が答えた。

「遠くから来たんですか。」

「そうです。」

「どの辺から。」

「南の村から。」

「ずいぶん遠いところから。」

店の者は少し行人を見た。

「魔力、あまり強くないですか。感じが薄い。」

「使えないです。」

店の者は少し驚いた顔をした。驚いたが、何も言わなかった。ただ、行人を見る目が少し変わった。珍しいものを見る目だった。

「では、この薬は必要ないですね。」

「そうですね。ありがとう。」

テアが小声で言った。

「すごいですね、わかるんですか。」

「魔力が使えないことが?」

「そうです。一目で。」

「この世界では、魔力の有無は見ればわかるんですか。」

「訓練した人には。私にはわからないですけど。」

行人はそれを聞いて、少し思った。この世界では、魔力の有無が外側から見える。スキル鑑定で「不明」が出た行人は、見る者によって何に見えるのか。空っぽに見えるのか、あるいは全く別の何かに見えるのか。


建物の中に案内された。高い天井。光の入り方が計算されている。行人は歩きながら、この建築を誰が設計したのかを考えた。数学的な精度がある。魔法だけでなく、理性的な計算が入っている。

ソルウェンは、中庭にいた。

石造りの中庭に、椅子が二脚置いてあった。ソルウェンはその一つに座って、空を見ていた。

「来たか。」

「来ました。」

「テアも来た。」

「連れてきました。」

ソルウェンはテアを見た。テアが頭を下げた。ソルウェンは少し笑った。「座れ。」

三人で、しばらく空を見た。この集落の空は、村の空より少し広かった。丘の上にあるせいで、地平線が遠い。空の色が、村より深い青をしていた。

「この集落に、お前を呼んだのには理由がある。」

ソルウェンが言った。

「聞かせてください。」

「見せたいものがある。」


ソルウェンが案内したのは、集落の奥にある建物だった。

他の建物より古い。石の色が違う。何百年も前に建てられたものだと、見た目でわかった。

中に入ると、壁一面に何かが描かれていた。

最初は絵だと思った。しかし近づいてみると、絵と文字が混在していた。星の図。数字らしき記号。矢印。図形。そして、行人には読めない言語の文章。

「何ですか、これは。」

「この集落の記録だ。三百年分以上の。」

ソルウェンが言った。

「その中に——一つ、お前に関わるものがある。」

ソルウェンが壁の一箇所を示した。行人が近づいて見た。

そこに、星の図があった。三つの星が描かれていた。位置と、動きを示す矢印。数値らしき記号。

行人は息を呑んだ。

「かつての迷い人が記録していた星です。」

ソルウェンが言った。

「あの男が死んだ後、俺がここに残した。」

行人はしばらく、その図を見ていた。帳面の中で見た記録と、同じ星だった。ガランの家の窓から何度も見上げた星だった。

「あの男の記録を、あなたがここに残した。」

「そうだ。誰かが読める日が来ると思っていた。」

「そこに…俺が来た。」

「そうだ。」

テアが静かに行人の横に来た。壁の星の図を見ていた。

「これを残したのは——」

行人は言いかけて止まった。思考がまとまるまで、少し待った。

「あの男の問いを、ここに保存しておくためですか。」

「そうだ。」

ソルウェンは静かに言った。

「問いは、言葉にされなければ消える。書かれなければ、次の者に届かない。あの男はガランに帳面を残した。俺はここに残した。それだけのことだ。」

「あなたは——あの男の問いが正しかったと信じていたから、残した。」

「そうだ。」

行人は壁から離れた。中庭に出た。空が見えた。夜になっていた。

三つの星が出ていた。

ここから見ても、同じ星だった。当たり前のことだが、今夜は当たり前のことが少し重かった。


その夜、行人とテアはソルウェンの集落に泊まった。

夕食をソルウェンと共にした。集落の者たちが何人か同席していた。食事をしながら、ソルウェンが集落のことを話した。

ここに三百年以上の記録がある。星の動きだけでなく、魔法の変遷、種族の移動、気候の変化。この世界の「記憶」が、この集落に積み重なっている。

「なぜ記録するんですか。」

行人は聞いた。

「忘れないために。」

ソルウェンは答えた。

「三百年生きていても、忘れる。書かなければ、消える。」

「あなたが忘れるんですか。」

「忘れる。記憶は積み重なるが、同時に薄れる。古いものは遠くなる。だから書く。」

行人はその言葉を聞いて、デカルトを思った。デカルトは疑えないものだけを足場にしようとした。しかし記憶は疑える。書かれたものも疑える。それでも書くことをやめない——書くことが問いを生きることだと、かつての迷い人は知っていた。

「お前はここに来て、何かが変わったか。」

ソルウェンが行人を見た。

「変わりました。」

「どう変わった。」

「村にいたときは、この世界が村だった。今日、外に出て——この世界の広さを、初めて実感しました。」

「それだけか。」

行人は少し考えた。

「それだけではない。この世界が広い、ということは——俺が見えていないものが、たくさんある、ということです。観察者として外側から見てきたつもりだったが、俺が見ていたのは村という小さな場所だけだった。」

「外側から見る、ということは——どこから見るかによって、見えるものが変わる。」

「そうです。」

「では、もっと高い場所から見たとき、何が見えると思う。」

行人は答えなかった。その問いは、今夜すぐに答えられるものではなかった。しかし問いの形は、はっきりしていた。

眠る前に、行人は外に出た。中庭に椅子があった。座って、空を見た。

今日見た壁の星の図が、頭に残っていた。あの男が記録し、ソルウェンが残した。問いは言葉にされなければ消える。書かれなければ次の者に届かない。


問いは手渡される。

帳面の一文が、また頭に来た。

「俺が死んだ後、この記録を読める者が来るかもしれない。」

その予言は当たった。行人が来た。ガランがずっと待っていた。ソルウェンがここに残した。


どこへ行っても、俺は同じことをやっている。


その言葉が浮かんだ。今夜のその言葉は——少し違う形をしていた。

俺だけではない。あの男も、ガリレオも、デカルトも、ソルウェンも。みんな同じことをやっていた。問いを持って、誰かに届けようとして、届かないまま、あるいは届かないかもしれないまま、それでも書いた。残した。

それが「どこへ行っても同じことをやっている」ということの、もう一つの意味かもしれない。俺一人の繰り返しではなく、人間という存在の繰り返し。あるいは、存在するものすべての繰り返し。

この世界でも、元の世界でも。


それが「ことわり」というものなのかもしれない。

その思考が来たとき、行人は少し止まった。

ことわり——という言葉が、今夜は初めて行人の内側から来た。誰かに言われたのではない。自分の中から出てきた。

そしてその瞬間、もう一つのことが繋がった。

言葉が通じる。異世界に来た最初の日から、この世界の言葉が通じた。行人はそれをカントの論理で説明しようとしてきた。言語という認識の枠組みが先にあり、世界はその枠組みに従って姿を現す——だから通じる、と。

しかし今夜は、その説明が少し違って見えた。

言葉が通じるということは——言語を介して世界を認識するという点で、この世界の人間も元の世界の人間も同じ構造を持っている、ということだ。構造が同じだから、言葉が届く。エナの「いてほしい」が届いた。テアの「届いていました」が届いた。ソルウェンの「また来い」が届いた。

どの世界も、言語によって世界を認識する。言語によって問いを立てる。言語によって他者に届けようとする。

それが「ことわり」の一つの形かもしれない。

しかしその思考は、そこで霧の中に入った。続きが来なかった。扉の前に立っている感覚はあるが、まだ開いていない。


テアが中庭に来た。

「眠れないんですか。」

「考えていました。」

テアは隣に座った。行人と同じように、空を見た。

「壁の星の図、見ましたか。」

テアが言った。

「見ました。」

「なんか——泣きそうになりました。」

「なぜ。」

「あの男の人が、誰にも届かないまま死んで、でもソルウェンさんが残していて、それがユキトさんに届いて。届いたんだな、って思ったら。」

行人はその言葉を聞いて、黙っていた。

「ユキトさんは泣きそうになりませんでしたか。」

「俺は——何かを感じましたが、泣きそうとは少し違った。」

「どう違いましたか。」

「責任のようなものを感じた。」

テアは少し考えた。

「責任。」

「あの男の問いが届いた。次は俺が、何かを届けなければならない、という感覚。誰に届けるのかはまだわからない。何を届けるのかも。ただ、届けなければならない、という感覚だけがあった。」

テアはしばらく黙った。それから、静かに言った。

「私に届けてくれていると思います。ずっと。」

 行人はテアを見た。テアは空を見ていた。

「俺が言葉にしてきたことが、あなたに届いていた。」

「届いていました。今も届いています。」

 行人はまた黙った。届けることと、受け取ることが、同時に起きていた。自分が気づかないうちに、それはもう始まっていた。


三つの星が、静かに浮かんでいた。村から見る星と同じ星だった。違う場所から見ても、同じ星だ。当たり前のことだが、今夜はその当たり前が少し重かった。

どの場所から見ても、同じ星がある。どの世界にいても、同じ問いの前に立つ。

行人はその思考が来たとき、少し止まった。

どの世界にいても、同じ問いの前に立つ——それは「どこへ行っても俺は同じことをやっている」という言葉と、同じことを言っているかもしれない。しかし今夜は、その言葉が少し違う意味を持っていた。同じことをやっている、というのは、繰り返しではなく——どこにいても変わらない何かがある、ということかもしれない。

その何かを、行人はまだ言葉にできなかった。しかし今夜は、その何かの輪郭が少しだけ見えた気がした。


我思う、故に——。


いつも「故に」の後が来なかった。しかし今夜は、「故に」の後に何かが来る気配があった。まだ言葉ではない。しかし来ようとしている。

行人はその気配を、今夜は括弧に入れなかった。


翌朝、ソルウェンが見送りに来た。

「また来い。」

「また来ます。」

行人は答えた。今回は迷わなかった。

ソルウェンは少し笑った。

「変わったな。」

「そうですか。」

「来たときより、顔が違う。」

「どう違いますか。」

「前は——どこかに行こうとしていた。今は——ここにいる。」

行人はその言葉を、しばらく持った。ここにいる——第五章でソルウェンに「正直な男だ」と言われた日から、この男はずっと行人を見てきた。その目が、今朝はそう言っている

「一つだけ聞かせてください。」

行人は言った。

「計測不能、という結果は——あなたにはどう見えますか。」

ソルウェンはしばらく行人を見た。

「空っぽには見えない。」

静かに言った。

「むしろ——まだ満たされていない器に見える。」

「満たされていない。」

「満たされようとしている、と言った方が正確かもしれない。」

行人はその言葉を受け取った。

満たされようとしている器——それは欠如ではなく、可能性だ。空っぽではなく、まだ何かが入る余地がある。

「ありがとうございました。」

「礼は要らない。面白かった。」


ソルウェンの背中が、集落の奥に消えていった。

明日、村に帰る。ライナが待っているかもしれない。あるいは待っていないかもしれない。エナが何かを用意しているだろう。ガランはいつも通り火を見ているだろう。

村が、帰る場所になっていた。

そのことに気づいたとき、行人は少し笑った。声は出なかった。ただ、笑った。「ここが居場所になっても、いいんじゃないか」——ライナの言葉が、今夜は少し遠くから聞こえた気がした。遠くから、しかし確かに聞こえた。


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