第八章 服を変えた日のこと
行人が村の男物の服に袖を通したのは、異世界に来てから初めてのことだった。
ガランが用意してくれていた服は、ずっとガランの家の隅に畳んで置いてあった。着替えると自分が別の人間になった気がする、とライナに言ったのは本当のことだった。しかしある朝、行人は何となく、その服を手に取った。
着てみると、悪くなかった。
麻と毛織物を合わせた素材で、行人の体格に合わせたものではないから少し大きかったが、動きやすかった。スーツとネクタイよりも、この世界の空気に馴染む感じがした。
鏡がないので自分の姿は確認できなかった。しかし水場に顔を映すと、知っている顔の上に知らない顔が重なっているような、奇妙な感覚があった。
外に出ると、エナが最初に気づいた。
「……服、変えたんですね。」
「変えました。」
「似合ってます。」
エナは少し笑った。
「なんか、やっとここの人みたいになった感じがする。」
行人はその言葉を聞いて、少し考えた。ここの人みたいになった——それが良いことなのか、何かを失うことなのか、今の行人にはまだわからなかった。ただ、エナが笑った顔を見て、今日は昨日より「ここにいる」感じが少しだけ戻っていた。
次にテアが気づいた。
「えっ。」
それだけ言って、しばらく行人を見ていた。
「どうしました。」
「いや——なんか、別人みたいで。」
「そんなに変わりますか。」
「変わります。」
テアははっきり言った。
「前の服のユキトさんも、それはそれで印象的でしたけど——なんか今日は、ちゃんとここにいる感じがして。」
ちゃんとここにいる感じ。昨日と今日で何が変わったのかは、自分でもわからない。服だけの問題ではないだろう。しかしそれが服を変えることで、少し外側に現れたのかもしれない。
カルタとも顔を合わせた。カルタは一瞬、行人を見た。それから何も言わずに行ってしまった。しかし行くときの歩き方が、以前より速くはなかった。それだけのことだったが、行人には何かが伝わった気がした。
ライナとはまだ顔を合わせていなかった。
午前中、行人はエナの仕事を手伝った。
手伝う、といっても行人にできることは限られていた。魔法が使えない。農作業の知識もない。しかし荷物を運ぶことはできるし、エナが話しかけてくる言葉に答えることもできる。
エナは話しながら仕事をする人間だった。何かを運びながら、誰かのことを話し、笑い、また何かを話す。行人はその隣で、運べるものを運びながら、聞いていた。
「ユキトさんって、元の世界では何をしていたんですか。」
「大学という学校のような場所で、哲学を教えていました。」
「哲学、というのは。」
「考えることを考える、とでも言えばいいですか。なぜそうなるのかを、言葉にしていく仕事です。」
「それで食べていけるんですか。」
「食べていけます。」
「すごいですね。」
エナは素直に言った。
「この村では、考えるだけで食べていける仕事はない。」
「そうですね。」
「羨ましい気もするし、なんか不思議な気もします。考えるだけで、十分なんですか。それで。」
行人は少し止まった。考えるだけで十分か。その問いが、今日は少し刺さった。
「十分ではなかったかもしれない。」
「え。」
「考えるだけで十分だと思っていたんですが、ここに来てから、そうでもなかったかもしれない、と思い始めています。」
エナはしばらく行人を見た。それから、また笑った。
「ユキトさんって、正直ですよね。」
「そうですか。」
「そういうことを、素直に言う人があまりいないので。」
エナが荷物を置いて、少し休んだ。行人も隣に座った。
二人で、しばらく村を見ていた。
エナの横顔を、行人は少し見た。丸みのある顔立ちに、人懐っこい目。この女性は行人に対して、一度も策略めいたものを見せたことがない。ただ気にかけている。ただ近くにいる。
「エナさん。」
「なんですか。」
「俺のことが好きですか。」
エナは少し止まった。それから、ゆっくりと行人を見た。
「……唐突ですね。」
「唐突ですが、聞きたくなりました。」
エナはしばらく黙った。考えているのではなく、どう言葉にするかを探している間だった。
「好き、というのが——どういう意味かによりますが。」
「どういう意味であってもいいです。あなたが思う意味で。」
「……嫌いじゃないです、というより。」
エナは少し笑った。
「いてほしい、と思っています。毎日。」
行人はその言葉を、しばらく受け取っていた。
いてほしい、という言葉。それは欲しているということだ。行人を欲している。「俺はここにいる」という感覚が——少し戻ってきた。
しかし今日のその感覚は、以前より少し違う質を持っていた。エナの言葉が届いた、という感覚ではなく——エナという人間が、今隣にいる、という感覚だった。
その違いを、行人はうまく言語化できなかった。ただ、違う、ということだけはわかった。
「ユキトさんは——いてほしい人がいますか。」
エナが聞いた。少し照れているような声だった。
行人は少し考えた。正直に答えることにした。
「いてほしい、という感覚が、俺には少し難しくて。」
「難しい。」
「いてほしいと思うことが——その人への依存になる気がして、避けてきた。でも最近、それが間違っていたかもしれない、と思い始めています。」
エナはしばらく黙った。
「依存が、なぜ悪いんですか。」
「悪い、というより——弱さだと思っていた。」
「弱さ。」
エナは少し考えてから言った。
「私、ユキトさんにいてほしいと思っていますけど、それが弱さだとは思っていないです。ただ、そう思っている、というだけで。」
行人はその言葉を、また受け取った。
ただ、そう思っている。理由もなく、意味もなく、ただそう思っている。エナにとって、それは弱さでも依存でもなく、ただの事実だった。
欲することと、いてほしいと思うことは——同じではないかもしれない。その思考が来て、また止まった。
午後、テアと研究をした。
最近、研究の性質が少し変わっていた。以前は行人がテアに問いを立て、テアが感覚を言葉にする、という方向だった。しかし今は、テアの方から問いを立てることが増えていた。
「ユキトさん、魔法の外側から見て、一番不思議に思うことって何ですか。」
「一番、というのは難しいですが——なぜ人によって得意な魔法が違うのか、ということは、まだよくわかっていません。」
「私が火より水の方が得意なのは、なぜか、ということですか。」
「そうです。性格なのか、体質なのか、あるいはもっと別の何かなのか。」
テアはしばらく考えた。
「私は——水が好きだから、だと思います。」
「好きだから得意になる。」
「逆かもしれない。得意だから好きになったのかもしれない。どちらが先かはわからない。ただ、好きと得意はたぶん繋がっている。」
行人はその答えを聞いて、少し思った。好きと得意が繋がっている——それは魔法だけではなく、あらゆる技術に言えることかもしれない。しかし哲学者である行人は、哲学が好きだったのか、得意だったのか、あるいはどちらでもなかったのか。
「ユキトさんは、哲学が好きなんですか。」
「好き、というより——やめられない、という感じです。」
「それって、好きってことじゃないですか。」
行人はその返しを聞いて、少し笑った。「そうかもしれない。」
テアはしばらく空を見た。それから、少し違う顔で行人を見た。
「最近、ユキトさんが変わった気がします。」
「カルタにも言われました。」
「カルタが気づいたなら、本当に変わってるんだと思います。あいつは普段、人のことを見ていないので。」
「どう変わったと思いますか。」
テアは少し考えた。
「前は、もっと遠い感じがしました。話してるのに、どこか遠い場所から見ている感じ。でも最近は——ちゃんとここにいる感じがする。」
ちゃんとここにいる。エナも同じようなことを言っていた。行人の外側にいる人間が、複数、同じことを感じている。
「テアさん。」
「なんですか。」
「俺が変わったとすれば、何がそうさせたと思いますか。」
テアは少し首を傾げた。
「わからないですけど——ソルウェンと話してから、じゃないですか。」
「そう見えますか。」
「なんか、腹をくくった感じがする。何に腹をくくったのかはわからないけど。」
行人はその言葉を、しばらく持っていた。腹をくくった——自分にはそういう自覚はなかった。しかし外側からはそう見えているらしい。
テアが少し近くに来た。肩が触れるかどうかの距離。行人は動かなかった。テアも動かなかった。
「ユキトさん。」
「はい。」
「私、ユキトさんのことが——」
テアはそこで止まった。止まって、少し笑った。
「やっぱりいいです。」
「言いかけたことは。」
「今じゃない気がするので。」
行人はテアを見た。テアは空を見ていた。三つの星が出始めていた。
「テアさん。」
「なんですか。」
「言いかけたことを言わなかった理由は、俺への遠慮ですか。」
テアは少し止まった。
「……半分は。」
「半分は、違う理由。」
「半分は——まだ自分でもわかっていないから。」
行人はその答えを聞いて、少し思った。自分でもわかっていない感情を、わかっていないまま言葉にしようとして、途中で止まった。それは正直な止まり方だった。
「正直ですね。」
「ユキトさんに言われたくないです、それ。」
「そうですね。」
テアが少し笑った。今日の笑い方は、これまでのどれとも少し違った。照れているような、それでいて少し大人びた笑い方だった。言いかけたことは、言わなかった。しかしその言葉の重さは、言われたのと同じくらい、行人の中に残った。
夜、行人はライナを探した。
探した、というのは正確ではない。ライナがいそうな場所を、理由をつけて通ってみた。ライナは大抵、夕食の後は村の中ほどの広場にいることが多い。何か作業をしているか、誰かと話しているか。
今夜はいなかった。
村の外れに回ってみた。
いた。
一人で、何かの作業をしていた。木の皮を剥いているように見えた。手元に集中していて、行人が近づいても気づかなかった。
行人はしばらく、少し離れた場所から見ていた。
ライナの横顔。短い黒に近い髪。腕まくりしたままの腕。何かをしているときの、あの手つき。
近づく理由を、行人は探していた。
探している、ということに気づいたとき、行人は少し笑いそうになった。元の世界では、こういうことはしなかった。理由を探すことなく、自然に近づいてきた。ライナに対してだけ、近づく理由を探している。
それが怖さの表れだ、ということは、わかっていた。
「何をしている。」
ライナが言った。気づいていたらしい。行人は少し驚いた。
「……見ていました。」
「なんで。」
「近づきたかったが、理由が思いつかなかったので。」
ライナは手を止めた。行人の方を向いた。
「正直な男だな。」
「よく言われます。」
「座れ。邪魔はするな。」
行人は少し離れた場所に座った。ライナは作業を再開した。二人で、しばらく何も言わなかった。
夜の空気が低かった。遠くで動物の声がした。ライナの手が動く音だけが聞こえた。
「服、変えたな。」
ライナが言った。手元を見たまま。
「変えました。」
「遅い。」
「そうですね。」
また沈黙が続いた。
行人はライナの横顔を見ていた。今日は正面から見ている。いつもは背中か、横を通り過ぎる瞬間かだった。
「ライナさん。」
「何だ。」
「なぜ、俺のことが嫌いなんですか。」
ライナは手を止めなかった。少し間があって、それから答えた。
「最初に言っただろう。外から見るだけで何もしない男が嫌いだ、と。」
「今も、そう思っていますか。」
ライナは少し止まった。
「……少し、違うかもしれない。」
「どう違いますか。」
ライナはしばらく黙った。手が止まっていた。
「最初は、そういう男だと思っていた。でも——テアの魔法を止めたとき、お前は外から見ただけじゃなかった。言葉を使ったが、それはやることだった。」
「言葉を使うことも、やることだ、と。」
「そう思い直した。」
行人はその言葉を受け取った。ライナが思い直した、と言った。それは小さいようで、ライナという人間にとっては大きいことだと、行人にはわかった。
「ライナさん。」
「まだ何かあるか。」
「俺のことを、好きですか。」
ライナは完全に手を止めた。それから、ゆっくりと行人を見た。
行人は目を逸らさなかった。
ライナは少し、行人を見ていた。それから、短く息をついた。
「……馬鹿か。」
「馬鹿かもしれない。でも聞きたかった。」
「なんで急に。」
「急ではないです。ずっと、聞けなかった。」
ライナはしばらく行人を見ていた。その目が、いつもと少し違った。苛立ちでも呆れでもない、別の何かがあった。行人はその何かを、読もうとした。読めなかった。
「……答えない。」
「答えないんですか。」
「今は答えない。」
それだけ言って、ライナは作業を再開した。今度は少し、手が早かった。
行人はしばらくそこに座っていた。追いかけるでも、謝るでも、引き下がるでもなく。ただ、座っていた。
今は答えない、という言葉の意味を、行人はゆっくりと測っていた。
答えない、は、ノーではない。今は、という言葉がついている。今ではないが、いつかは——という含みがある、と行人は思った。あるいは、思いたかっただけかもしれない。
どちらにせよ、括弧には入れなかった。
今夜は、括弧に入れないことにした。怖かったが、入れなかった。
ライナはまだ作業を続けていた。行人はしばらくそこにいた。
沈黙が続いた。不快ではなかった。ライナの手が動く音と、夜の虫の声と、遠くの動物の声が混ざっていた。
「なんで服を変えたんだ。」
ライナが聞いた。作業しながら。
「変える時期だと思いました。」
「遅い。」
「そうですね。」
「なんで遅くなった。」
行人は少し考えた。
「着替えると、自分が別の人間になる気がして。」
「それの何が嫌だ。」
「別の人間になることが怖いのではなく——別の人間になってから、ここが気に入ってしまうことが怖かった。」
ライナは手を止めた。今度は完全に止まった。行人を見た。
「……意味がわからん。」
「ここが居場所になってしまうと、元の世界のことを諦めることになる気がして。」
「元の世界に帰りたいのか。」
「帰りたいとも、ここにいたいとも、あまり思っていない。ただ、決めたくなかった。」
ライナはしばらく行人を見ていた。
「……変な男だ。」
「よく言われます。」
「誉めてない。」
「わかっています。」
ライナは少し息をついた。それから、また作業を再開した。今度は少しだけ、ゆっくりとした手つきだった。
「ここが居場所になっても、いいんじゃないか。」
ライナが言った。独り言のような声で。
「そうですね。」
行人は答えた。
「返事が早い。」
「今は、そう思っています。」
ライナはそれ以上何も言わなかった。行人も言わなかった。
しばらくして、ライナが立ち上がった。
「帰る。」
「送りましょうか。」
「要らない。」
ライナは行人を見た。一秒だけ、行人の目を見た。それから歩き始めた。
行人はその背中を見送った。
今夜は括弧に入れなかった。怖かったが、入れなかった。それが今夜の一番の出来事だった。
村に戻る道、行人は空を見上げた。
三つの星が出ていた。
今夜は、今日起きたことを順番に並べた。エナの「いてほしい」という言葉。テアの言いかけたこと。ライナの「今は答えない」。
どれも、以前とは違う温度を持っていた。以前は、欲せられているという事実を確認していた。今夜は——欲せられているという事実の向こう側に、何かを感じていた。
何かを、とまだ言語化できない。ただ、向こう側に何かがある、という感覚だけが残った。
我思う、されど、他者——。
他者が、今夜は少し具体的な顔を持って、行人の前に立っていた。エナの顔。テアの顔。ライナの横顔。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。
その言葉が浮かんだ。今日のその言葉は——少し、重かった。以前と同じ言葉なのに、今夜は重さが違った。
同じことをやっている。しかし今夜は、その「同じこと」が以前と少し違う何かになっていた。
行人はその違いを、まだうまく言えなかった。ただ、違う、ということだけは確かだった。
スーツとネクタイはガランの家の隅に畳んで置いてある。明日からも、村の服を着るだろう。元の世界の服を着ていた自分と、今夜の自分。どちらも自分だが、何かが変わった。
ライナが言った。ここが居場所になっても、いいんじゃないか。
その言葉を、行人はまだ持っていた。括弧に入れないまま、持っていた。
三つの星が、静かに浮かんでいた。今夜はその星が、珍しく遠くに見えた。遠く、というのは、物理的な距離ではない。ただ、いつもより少し、別の場所にある感じがした。
答えはまだ出ない。しかし今夜は、何かが少し前に進んだ。
それだけで、今夜は十分だと思った。




