表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
哲学科助教授・我妻行人、異世界で我思う、故に・・・  作者: 深海周二


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

第八章 服を変えた日のこと

行人が村の男物の服に袖を通したのは、異世界に来てから初めてのことだった。

ガランが用意してくれていた服は、ずっとガランの家の隅に畳んで置いてあった。着替えると自分が別の人間になった気がする、とライナに言ったのは本当のことだった。しかしある朝、行人は何となく、その服を手に取った。


着てみると、悪くなかった。

麻と毛織物を合わせた素材で、行人の体格に合わせたものではないから少し大きかったが、動きやすかった。スーツとネクタイよりも、この世界の空気に馴染む感じがした。

鏡がないので自分の姿は確認できなかった。しかし水場に顔を映すと、知っている顔の上に知らない顔が重なっているような、奇妙な感覚があった。


外に出ると、エナが最初に気づいた。

「……服、変えたんですね。」

「変えました。」

「似合ってます。」

エナは少し笑った。

「なんか、やっとここの人みたいになった感じがする。」

行人はその言葉を聞いて、少し考えた。ここの人みたいになった——それが良いことなのか、何かを失うことなのか、今の行人にはまだわからなかった。ただ、エナが笑った顔を見て、今日は昨日より「ここにいる」感じが少しだけ戻っていた。


次にテアが気づいた。

「えっ。」

それだけ言って、しばらく行人を見ていた。

「どうしました。」

「いや——なんか、別人みたいで。」

「そんなに変わりますか。」

「変わります。」

テアははっきり言った。

「前の服のユキトさんも、それはそれで印象的でしたけど——なんか今日は、ちゃんとここにいる感じがして。」

ちゃんとここにいる感じ。昨日と今日で何が変わったのかは、自分でもわからない。服だけの問題ではないだろう。しかしそれが服を変えることで、少し外側に現れたのかもしれない。


カルタとも顔を合わせた。カルタは一瞬、行人を見た。それから何も言わずに行ってしまった。しかし行くときの歩き方が、以前より速くはなかった。それだけのことだったが、行人には何かが伝わった気がした。


ライナとはまだ顔を合わせていなかった。


午前中、行人はエナの仕事を手伝った。

手伝う、といっても行人にできることは限られていた。魔法が使えない。農作業の知識もない。しかし荷物を運ぶことはできるし、エナが話しかけてくる言葉に答えることもできる。

エナは話しながら仕事をする人間だった。何かを運びながら、誰かのことを話し、笑い、また何かを話す。行人はその隣で、運べるものを運びながら、聞いていた。

「ユキトさんって、元の世界では何をしていたんですか。」

「大学という学校のような場所で、哲学を教えていました。」

「哲学、というのは。」

「考えることを考える、とでも言えばいいですか。なぜそうなるのかを、言葉にしていく仕事です。」

「それで食べていけるんですか。」

「食べていけます。」

「すごいですね。」

エナは素直に言った。

「この村では、考えるだけで食べていける仕事はない。」

「そうですね。」

「羨ましい気もするし、なんか不思議な気もします。考えるだけで、十分なんですか。それで。」

行人は少し止まった。考えるだけで十分か。その問いが、今日は少し刺さった。

「十分ではなかったかもしれない。」

「え。」

「考えるだけで十分だと思っていたんですが、ここに来てから、そうでもなかったかもしれない、と思い始めています。」

エナはしばらく行人を見た。それから、また笑った。

「ユキトさんって、正直ですよね。」

「そうですか。」

「そういうことを、素直に言う人があまりいないので。」

エナが荷物を置いて、少し休んだ。行人も隣に座った。


二人で、しばらく村を見ていた。

エナの横顔を、行人は少し見た。丸みのある顔立ちに、人懐っこい目。この女性は行人に対して、一度も策略めいたものを見せたことがない。ただ気にかけている。ただ近くにいる。

「エナさん。」

「なんですか。」

「俺のことが好きですか。」

エナは少し止まった。それから、ゆっくりと行人を見た。

「……唐突ですね。」

「唐突ですが、聞きたくなりました。」

エナはしばらく黙った。考えているのではなく、どう言葉にするかを探している間だった。

「好き、というのが——どういう意味かによりますが。」

「どういう意味であってもいいです。あなたが思う意味で。」

「……嫌いじゃないです、というより。」

エナは少し笑った。

「いてほしい、と思っています。毎日。」

 行人はその言葉を、しばらく受け取っていた。


いてほしい、という言葉。それは欲しているということだ。行人を欲している。「俺はここにいる」という感覚が——少し戻ってきた。


しかし今日のその感覚は、以前より少し違う質を持っていた。エナの言葉が届いた、という感覚ではなく——エナという人間が、今隣にいる、という感覚だった。

その違いを、行人はうまく言語化できなかった。ただ、違う、ということだけはわかった。

「ユキトさんは——いてほしい人がいますか。」

エナが聞いた。少し照れているような声だった。

行人は少し考えた。正直に答えることにした。

「いてほしい、という感覚が、俺には少し難しくて。」

「難しい。」

「いてほしいと思うことが——その人への依存になる気がして、避けてきた。でも最近、それが間違っていたかもしれない、と思い始めています。」


エナはしばらく黙った。

「依存が、なぜ悪いんですか。」

「悪い、というより——弱さだと思っていた。」

「弱さ。」

エナは少し考えてから言った。

「私、ユキトさんにいてほしいと思っていますけど、それが弱さだとは思っていないです。ただ、そう思っている、というだけで。」

行人はその言葉を、また受け取った。

ただ、そう思っている。理由もなく、意味もなく、ただそう思っている。エナにとって、それは弱さでも依存でもなく、ただの事実だった。

欲することと、いてほしいと思うことは——同じではないかもしれない。その思考が来て、また止まった。


午後、テアと研究をした。

最近、研究の性質が少し変わっていた。以前は行人がテアに問いを立て、テアが感覚を言葉にする、という方向だった。しかし今は、テアの方から問いを立てることが増えていた。

「ユキトさん、魔法の外側から見て、一番不思議に思うことって何ですか。」

「一番、というのは難しいですが——なぜ人によって得意な魔法が違うのか、ということは、まだよくわかっていません。」

「私が火より水の方が得意なのは、なぜか、ということですか。」

「そうです。性格なのか、体質なのか、あるいはもっと別の何かなのか。」

テアはしばらく考えた。

「私は——水が好きだから、だと思います。」

「好きだから得意になる。」

「逆かもしれない。得意だから好きになったのかもしれない。どちらが先かはわからない。ただ、好きと得意はたぶん繋がっている。」

行人はその答えを聞いて、少し思った。好きと得意が繋がっている——それは魔法だけではなく、あらゆる技術に言えることかもしれない。しかし哲学者である行人は、哲学が好きだったのか、得意だったのか、あるいはどちらでもなかったのか。

「ユキトさんは、哲学が好きなんですか。」

「好き、というより——やめられない、という感じです。」

「それって、好きってことじゃないですか。」

行人はその返しを聞いて、少し笑った。「そうかもしれない。」



テアはしばらく空を見た。それから、少し違う顔で行人を見た。

「最近、ユキトさんが変わった気がします。」

「カルタにも言われました。」

「カルタが気づいたなら、本当に変わってるんだと思います。あいつは普段、人のことを見ていないので。」

「どう変わったと思いますか。」

テアは少し考えた。

「前は、もっと遠い感じがしました。話してるのに、どこか遠い場所から見ている感じ。でも最近は——ちゃんとここにいる感じがする。」

ちゃんとここにいる。エナも同じようなことを言っていた。行人の外側にいる人間が、複数、同じことを感じている。

「テアさん。」

「なんですか。」

「俺が変わったとすれば、何がそうさせたと思いますか。」

テアは少し首を傾げた。

「わからないですけど——ソルウェンと話してから、じゃないですか。」

「そう見えますか。」

「なんか、腹をくくった感じがする。何に腹をくくったのかはわからないけど。」

行人はその言葉を、しばらく持っていた。腹をくくった——自分にはそういう自覚はなかった。しかし外側からはそう見えているらしい。


テアが少し近くに来た。肩が触れるかどうかの距離。行人は動かなかった。テアも動かなかった。

「ユキトさん。」

「はい。」

「私、ユキトさんのことが——」

テアはそこで止まった。止まって、少し笑った。

「やっぱりいいです。」

「言いかけたことは。」

「今じゃない気がするので。」

行人はテアを見た。テアは空を見ていた。三つの星が出始めていた。

「テアさん。」

「なんですか。」

「言いかけたことを言わなかった理由は、俺への遠慮ですか。」

テアは少し止まった。

「……半分は。」

「半分は、違う理由。」

「半分は——まだ自分でもわかっていないから。」

行人はその答えを聞いて、少し思った。自分でもわかっていない感情を、わかっていないまま言葉にしようとして、途中で止まった。それは正直な止まり方だった。

「正直ですね。」

「ユキトさんに言われたくないです、それ。」

「そうですね。」

テアが少し笑った。今日の笑い方は、これまでのどれとも少し違った。照れているような、それでいて少し大人びた笑い方だった。言いかけたことは、言わなかった。しかしその言葉の重さは、言われたのと同じくらい、行人の中に残った。


夜、行人はライナを探した。

探した、というのは正確ではない。ライナがいそうな場所を、理由をつけて通ってみた。ライナは大抵、夕食の後は村の中ほどの広場にいることが多い。何か作業をしているか、誰かと話しているか。

今夜はいなかった。

村の外れに回ってみた。


いた。

一人で、何かの作業をしていた。木の皮を剥いているように見えた。手元に集中していて、行人が近づいても気づかなかった。

行人はしばらく、少し離れた場所から見ていた。

ライナの横顔。短い黒に近い髪。腕まくりしたままの腕。何かをしているときの、あの手つき。

近づく理由を、行人は探していた。

探している、ということに気づいたとき、行人は少し笑いそうになった。元の世界では、こういうことはしなかった。理由を探すことなく、自然に近づいてきた。ライナに対してだけ、近づく理由を探している。

それが怖さの表れだ、ということは、わかっていた。

「何をしている。」

ライナが言った。気づいていたらしい。行人は少し驚いた。

「……見ていました。」

「なんで。」

「近づきたかったが、理由が思いつかなかったので。」


ライナは手を止めた。行人の方を向いた。

「正直な男だな。」

「よく言われます。」

「座れ。邪魔はするな。」

行人は少し離れた場所に座った。ライナは作業を再開した。二人で、しばらく何も言わなかった。

夜の空気が低かった。遠くで動物の声がした。ライナの手が動く音だけが聞こえた。

「服、変えたな。」

ライナが言った。手元を見たまま。

「変えました。」

「遅い。」

「そうですね。」

また沈黙が続いた。

行人はライナの横顔を見ていた。今日は正面から見ている。いつもは背中か、横を通り過ぎる瞬間かだった。

「ライナさん。」

「何だ。」

「なぜ、俺のことが嫌いなんですか。」

ライナは手を止めなかった。少し間があって、それから答えた。

「最初に言っただろう。外から見るだけで何もしない男が嫌いだ、と。」

「今も、そう思っていますか。」


ライナは少し止まった。

「……少し、違うかもしれない。」

「どう違いますか。」

ライナはしばらく黙った。手が止まっていた。

「最初は、そういう男だと思っていた。でも——テアの魔法を止めたとき、お前は外から見ただけじゃなかった。言葉を使ったが、それはやることだった。」

「言葉を使うことも、やることだ、と。」

「そう思い直した。」

行人はその言葉を受け取った。ライナが思い直した、と言った。それは小さいようで、ライナという人間にとっては大きいことだと、行人にはわかった。

「ライナさん。」

「まだ何かあるか。」

「俺のことを、好きですか。」

ライナは完全に手を止めた。それから、ゆっくりと行人を見た。

行人は目を逸らさなかった。

ライナは少し、行人を見ていた。それから、短く息をついた。

「……馬鹿か。」

「馬鹿かもしれない。でも聞きたかった。」

「なんで急に。」

「急ではないです。ずっと、聞けなかった。」

ライナはしばらく行人を見ていた。その目が、いつもと少し違った。苛立ちでも呆れでもない、別の何かがあった。行人はその何かを、読もうとした。読めなかった。

「……答えない。」

「答えないんですか。」

「今は答えない。」


それだけ言って、ライナは作業を再開した。今度は少し、手が早かった。

行人はしばらくそこに座っていた。追いかけるでも、謝るでも、引き下がるでもなく。ただ、座っていた。

今は答えない、という言葉の意味を、行人はゆっくりと測っていた。

答えない、は、ノーではない。今は、という言葉がついている。今ではないが、いつかは——という含みがある、と行人は思った。あるいは、思いたかっただけかもしれない。

どちらにせよ、括弧には入れなかった。

今夜は、括弧に入れないことにした。怖かったが、入れなかった。

ライナはまだ作業を続けていた。行人はしばらくそこにいた。

沈黙が続いた。不快ではなかった。ライナの手が動く音と、夜の虫の声と、遠くの動物の声が混ざっていた。

「なんで服を変えたんだ。」

ライナが聞いた。作業しながら。

「変える時期だと思いました。」

「遅い。」

「そうですね。」

「なんで遅くなった。」

行人は少し考えた。

「着替えると、自分が別の人間になる気がして。」

「それの何が嫌だ。」

「別の人間になることが怖いのではなく——別の人間になってから、ここが気に入ってしまうことが怖かった。」


ライナは手を止めた。今度は完全に止まった。行人を見た。

「……意味がわからん。」

「ここが居場所になってしまうと、元の世界のことを諦めることになる気がして。」

「元の世界に帰りたいのか。」

「帰りたいとも、ここにいたいとも、あまり思っていない。ただ、決めたくなかった。」

ライナはしばらく行人を見ていた。

「……変な男だ。」

「よく言われます。」

「誉めてない。」

「わかっています。」

ライナは少し息をついた。それから、また作業を再開した。今度は少しだけ、ゆっくりとした手つきだった。

「ここが居場所になっても、いいんじゃないか。」

ライナが言った。独り言のような声で。

「そうですね。」

行人は答えた。

「返事が早い。」

「今は、そう思っています。」

ライナはそれ以上何も言わなかった。行人も言わなかった。

しばらくして、ライナが立ち上がった。

「帰る。」

「送りましょうか。」

「要らない。」

ライナは行人を見た。一秒だけ、行人の目を見た。それから歩き始めた。

行人はその背中を見送った。

今夜は括弧に入れなかった。怖かったが、入れなかった。それが今夜の一番の出来事だった。


村に戻る道、行人は空を見上げた。

三つの星が出ていた。

今夜は、今日起きたことを順番に並べた。エナの「いてほしい」という言葉。テアの言いかけたこと。ライナの「今は答えない」。

どれも、以前とは違う温度を持っていた。以前は、欲せられているという事実を確認していた。今夜は——欲せられているという事実の向こう側に、何かを感じていた。

何かを、とまだ言語化できない。ただ、向こう側に何かがある、という感覚だけが残った。


我思う、されど、他者——。


他者が、今夜は少し具体的な顔を持って、行人の前に立っていた。エナの顔。テアの顔。ライナの横顔。


どこへ行っても、俺は同じことをやっている。


その言葉が浮かんだ。今日のその言葉は——少し、重かった。以前と同じ言葉なのに、今夜は重さが違った。

同じことをやっている。しかし今夜は、その「同じこと」が以前と少し違う何かになっていた。

行人はその違いを、まだうまく言えなかった。ただ、違う、ということだけは確かだった。


スーツとネクタイはガランの家の隅に畳んで置いてある。明日からも、村の服を着るだろう。元の世界の服を着ていた自分と、今夜の自分。どちらも自分だが、何かが変わった。


ライナが言った。ここが居場所になっても、いいんじゃないか。

その言葉を、行人はまだ持っていた。括弧に入れないまま、持っていた。

三つの星が、静かに浮かんでいた。今夜はその星が、珍しく遠くに見えた。遠く、というのは、物理的な距離ではない。ただ、いつもより少し、別の場所にある感じがした。


答えはまだ出ない。しかし今夜は、何かが少し前に進んだ。


それだけで、今夜は十分だと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


「我思う、故に——」の続きを、ともに考えていただけますか。

ブックマーク・評価が、次の言葉を紡ぐ力になります。

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ