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第三話 ②

 小鳥の囀ずりが耳に心地よく届く。

 緑の芝生と鼻孔を甘美に擽る色鮮やかな花々が植えられた、大きな庭園のある明媚な屋敷の二階。

 朝、キラキラと透き通る陽光を受けながら、詩音はゆっくりと目を覚ました。

 見目麗しい、長く艶やかな黒髪の可憐な少女の瞳が開いたのを確認し、白髪の老執事が朝の到来を告げる。

「おはようございます、お嬢様」

 詩音は顔をその声の主に向け、小さな口から外見にそぐわぬ武骨な声を洩らす。


「ああ、おはよう。権爺(ごんじい)


 鼻下に上品に蓄えた白髭。老いていながらスッと伸びた背筋の身に、執事服を纏う。

 白髪の老執事――権爺は、軽く一礼して詩音の起床を見守る。

 詩音は身を起こし、桜色のネグリジェ姿でベッドの上にあぐらをかき、眠気眼で「ふぅー」と息を吐く。

 詩音にとってはいつもの何気ない朝の仕草だ。しかし、厳爺には違って見えたらしい。心配げに問うてくる。

「また悪い夢を見られましたか?」

 詩音は口元を歪ませ、笑みを浮かべる。


「いや、むしろ素敵な夢を見た。今日の目覚めは爽やかだよ。とてもいい気分だ」


「それは結構なことで」

 ほっと胸を撫で下ろす厳爺。


 あの悪夢の夜から数日が過ぎた。屈辱はまだ根深く心に留めているが、さすがに今日まで引きずることはない。時間は偉大だ。メガネをかけた不恰好なパンツ姿の悪魔にうなされ続け、深夜に飛び起きることすらあった傷心も、時が経てば少しは癒えようというものだ。

「お嬢様、お水をどうぞ」

「ん」

 厳爺から水の入ったグラスを手渡され、一気に飲み干す。

 ネグリジェの袖で口元を拭い、ベッドから降りた。

 見かけこそ清楚なお嬢様だが、その所作はこれから戦場に向かう壮年の武将さながらである。


 男性である厳爺の目も気にせずその場でネグリジェを脱ぎ捨て、下着姿の無垢の肢体を晒す。

 厳爺から手渡された、黒を基調とした赤いパータイのセーラー服を身に着け、姿見の前に立つ。

 長い髪を手櫛で鋤き、自身を見つめる瞳に力を込める。

 仕度は整った。


「よし、行こうか」

「はい、お嬢様」


 自室を出て、赤絨毯の敷き詰められた廊下を歩き、アーチ形の階段を降りてダイニングルームの扉を開く。

 白いテーブルクロスの敷かれた食卓には既に父と母が肩を並べて座していた。

 こちらに顔を向けた二人に、詩音はニコリと微笑み、恭しく一礼する。


「お父様、お母様、おはようございます」

 詩音は淑女の体裁を繕い、先ほどまでの態度と声音を一変させていた。


「やぁ、おはよう」

「おはよう、詩音」

 二人も微笑みを浮かべ、朝の食卓に和やかな空気が流れる。


 権爺の引いた椅子に座した詩音の前に、給仕係のメイドがすみやかに朝食を並べる。トーストの香ばさとオーガニックの瑞々しい春野菜のサラダが食欲をそそる。

「詩音、学校での生活はどうだい? もう慣れたかな」

 食事にありつく前に、父が声をかけてきた。詩音は慎ましく答える。

「ええ、お友達にも恵まれて、毎日とても楽しく過ごしていますわ」

 母が優しく微笑む。

「そう。よかったわ。詩音はとても素敵な子だから、すぐに人気者になれるわよ」

「うんうん、素直ないい子に育ってくれて、私たちもうれしく思っているよ。これも全て組織のおかげだな」

「そうねぇ。組織に入る前の詩音は本当に手のかかる子で――」

「こらこら、今はこんなにいい子なんだから、昔のことはいいじゃないか」


 幼少期の詩音と今の詩音。実のところ変化はなく、両親を困らせたいい子ではない詩音はしっかりそのまま残っている。むしろそちらが本性だ。しかし権爺と二人でいる時を除いて普段の生活でそれを出すことは決してない。

 この二面性は、自分を守るための盾に他ならない。

 万が一にも、言葉使いや所作で身元がバレることがあってはならない。所構わずありのままの自分でいては組織――ファナティックフォースでの活動が表沙汰になりかねない。

 普段の性格と本性をきっちりと境界線を設けて使い分けることにより、詩音は自らの身を守っていた。

「蒼一様が詩音のことを褒めていたよ。大変優秀な子で、組織の要だとね」


 両親はもちろん、この屋敷の使用人も皆、ファナティックフォースの一員である。


「あの方が褒めてくださるなんて、光栄なことだわ。詩音はこの鷹宮家の誇りね 」

 三人しかいないファナティックフォースのNSL特機保有者の一人として、詩音は特別視されていた。そんな自分自身を詩音は確かな矜持をもってとても誇らしく思っている。両親であれば自分と同じ感情を抱くのは当然だ。しかしながら、褒めてもらえて光栄とは、よくもまぁそこまで組織に心酔できるものだ。


「ありがとうございます。皆さんの期待に応えられるよう、日々鍛練に励んでまいりますわ」


 微笑みを添えて心ばかりの礼を述べ、詩音は食事にありつく。

 イカれた狂信者どもめ――と、心中で毒づきながら。



 父は幾つもの事業を手掛ける財閥の御曹子。母は超音速セスナで世界中を飛び回るファッションデザイナー。

 詩音はこの両親の下、大変に裕福な人生を歩んできた。加えて詩音には特筆すべき才能があった。それはもはや言わずもがな、NSLの操縦士適性である。

 詩音はあらゆることに対し、これまでの人生でまったくと言っていいほど不満というものを感じたことがなかった。

 恵まれた美貌も併せ持ち、全てに満足していた。そしてこれからも、不満のない人生は続くものと信じて疑わなかった。

 詩音は感謝していた。

 それもこれも、両親のおかげだと。


 両親は組織に妄信的であるが、とても優しかった。忙しい中で出来るだけ食事を共にする時間を設けてくれる、毒づきづつも愛すべき存在だ。組織の人間であれば本性を晒しても構わないのだが、この両親は詩音の本性を毛嫌いし、淑女としての気品を好む。


 愛する家族の望むこと。


 やむなく詩音は屋敷内でも本性を隠し、慎み深く過ごしている。これは不満といえば不満であるが、些末なことだ。詩音はそうした方が二人が喜ぶのならばと受け入れていた。


 そして自分のこの満足の日々を支えてくれている、もう一人の重要な存在。

 執事の権爺について。

 両親と同様とも言えるほど、感謝をしている面が多いのだが、正直、よくわからない人物だ。組織に妄信的な屋敷の中にあって、権爺だけは詩音と同じく組織に心酔していない。そうと聞いたわけではないが、心酔しない者同士のシンパシーとでも云うべきか、行動を共にしていればどうしてもわかってしまうものだ。


 しかしなぜ組織に心酔しない者がテロ活動を見過ごし、詩音の執事など務めているのか?


 単に仕事と割り切っているのか? それでは説明がつかないのでそうとは思えないが、幼少の頃から詩音の本性を見ても何も口出しすることはなく、それどころかいかなる非礼を働いても一切の注意をしてこない。

 おまけに従順にすぎる。あまりにも命令に反しないものだから、試しに「私が殺せと言ったらおまえは人が殺せるのか?」と聞いたら「必要とあらば」という答えが返ってきた。確証はないが、最低限の理由さえあればたぶん、権爺は殺る。


 発せられる言葉は常に優しく、時折親のような愛情を見せてくれる。なのにたとえ悪行を働いても行動を嗜めるようなことは一切しない。あの悪夢の夜のことを全て打ち明けることができた唯一無二の存在であり、それほどまでにしっかりと信頼のおける者でありながら、謎めいた人物だ。


「お嬢様、お車の用意ができてございます」


 登校の時刻だ。

 屋敷の門前に黒塗りの高級車が停まっている。権爺は後部座席のドアを開けて詩音を車内へと促す。

「……」

「どうかなさいましたか?」

「いや、なんでもない」

 少しだけ権爺の顔を訝しげに見つめてしまった。詩音は表情を正して車に乗り込む。


「では、出発いたします」

 権爺は車のエンジンを始動させ、ハンドルを握ってアクセルを踏んだ。

 ほどなく街道を進んだ後。


「空中高速に乗ります」

 と言って、権爺は光化学モニターを操作する。


 車が少し振動。胴体の下部から収納されていた翼が伸び、その先端に設けられている左右一機づつの推進機からジェットが噴き出す。

 車はゆるやかに上昇を始め、ホログラムETCをくぐって加速した。

 数分の後に高速を降り、車はコンクリートの地面にタイヤを着ける。さらにしばらく進んで、目的地に到着。


 ここは横浜。

 私立紅薔薇女学院高等学校。


 その正門より少し手前で車は停まる。

「お嬢様、学校に着きましてございます」

 詩音は厳爺により開かれたドアから車を降りる。

「ああ、いってくる。――っと、今日は放課後に委員会があるんだ。帰りはいつもより遅くなる。委員会が終わる頃に連絡しよう」

「かしこまりました」

 恭しく頭を垂れる老執事を背にして、詩音は校門へと歩き出す。


 厳かな能面に慎ましい裏の仮面をかぶり、清楚に、淑女らしく、凛とした姿勢でゆったりと歩みを進める。

「あら、詩音さまよ」

「お美しい」

「今日も輝いてらっしゃるわ」

 登校する女子生徒たちが足を止めて詩音の歩みに歓喜する。

 ピーチクパーチクとうるさい小鳥どもだ――と心で悪態を吐きながらも、悪い気はしない。


 幾人かと「ごきげんよう」と挨拶を交わし、歩みを進めていると、校舎を背にして花壇の中に立っている、一体のマリア像が見えた。

 詩音はその膝元で足を止め、祈りを捧げるべく両の手を組み合わせる。

 横からまた女子生徒たちの声がした。


「詩音様がマリア様の前で手を組み合わせてらっしゃるわ」

「何をお祈りになられるのかしら?」


 無論、この学内でも淑女として振る舞っているため、彼女たちは詩音の戦闘狂たる本性を知らない。その本性に適って、ここ数日は『どうかあのクソメガネがこの世で最も凄惨な死に方をしますように』などと祈っていた。しかし、今日は違った。

 坂下歩のことは脳裏の隅に追いやり、詩音は瞳を閉じて、マリア象に感謝の祈りを捧げる。

『昨晩はとてもいい夢が見れた。おかげで気分は晴れ、なかなかに高揚している。マリアよ、感謝しよう』


 詩音が見た夢。それはとても幸福に満ちたものだった。


 昨晩、詩音は素敵な殿方と夢の中でデートをしたのだ。二人っきりで映画を見て、街を歩いて、たくさんお喋りをした。顔立ちは夢の中のことなので判然としないが、彼はよく笑う人で、とても魅力的な男性だった。

 正夢になればいいなと思う。しかし、自分には恋など縁遠きこと。これまで男性と付き合ったこともなければデートの経験もない。そもそも小中高とずっと女子校で年頃の異性と知り合う機会に恵まれなかった。

 自分は戦闘狂だ、恋などくだらないと思う気持ちはあるが、乙女の気持ちも捨てきれない。


 ――恋か。この私が。


「ふふっ」

 詩音は恋に焦がれる自分をおかしく思いながら、軽やかな足取りで校舎へと歩き出した。

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