56.始まりの薔薇
石板の周囲を這っていた紫の蔦が、音もなくほどけていく。光の粒子となったそれらを、私は自分の身体へと引き込んだ。
乾いた砂が水を吸うように、急激に魔力が満ちていく。
拘束の解かれた施設員が状況を理解するより早く、私はその魔力を一気に石板へと叩き込んだ。
光の奔流が石板から水晶に雪崩れ込む。
瞬間、水晶内部を巡っていた紫の光が激しく明滅した。周囲の空間を震わせながら、紫の光が制御を失ったように脈打つ。膨れ上がった魔力に耐え切れないと言わんばかりに、水晶全体が低く唸る。
一拍の間を置いて、部屋中を照らすほどの光が突き抜けてた。眩む視界の中で、何かが焼き切れるような音がする。
水晶の中心を流れていた光の筋が、途切れる。濃い紫を宿していたはずの水晶は、色を失い、異様なほど透き通っていった。
その音に続くように、光はあっという間に収束し、部屋は暗闇に包まれた。
「どけ!」
不意に聞こえた力強い声を聞きながら、石板に倒れ込む。もう魔力を吸われることもないのに、身体は鉛のように重かった。負荷をかけすぎた腕には無数の裂傷が走り、石板の上に血が広がっていく。
彼は、と霞む視界で見れば、依然として意識はなかった。魔力が枯渇寸前の今は、死と隣り合わせだ。
――でも、もう私には、あげられる魔力がない
身体の中の魔力は空っぽ。この血と同じ。無くなれば、人は死ぬ。
――ううん、血が、ある
血にも魔力は多少混ざりこんでいる。そんな話をどこかで聞いた。
血に濡れた手を握り、必死に頭を回転させてイメージする。やがて開いた手には、拳大ほどの結晶ができていた。
「シルヴァ……」
近くで聞こえた声に目を動かすと、シルヴァと一緒にいた青年が呆然とこちらを見ていた。脚を引きずりながら、指先を恐る恐るシルヴァの首元へ伸ばす。わずかな鼓動を感じ取れたのか、ふ、と目元が少し緩んだ。
「……ルミナリアさん、遅くなってごめん。早く止血しよう」
「待って……私は、いい」
上着を脱いで手当をしてくれようとする彼を止める。もはや私は手遅れだ。代わりに、と震える手を伸ばすと、彼も手を差し出してくれた。その手に、できたばかりの結晶を乗せる。
「シルヴァ、魔力が足りてない、から。……使って」
血が混じって赤紫になった魔力の結晶。いつか、シルヴァが教えてくれた薔薇という花の形に、自然となっていた。
きいんと耳鳴りが走る。真っ暗に染まって何も見えない。だけど、伸ばした手に触れたシルヴァの温かさを感じて、私の意識は底なしの海へと沈んでいった。
* * *
ふ、と意識が浮上して瞼を開ける。見覚えのある白髪が、視界の中で揺れる。遠くを見やるその瞳を見たくて、私は名前を呼んだ。
「シルヴァ」
はっとこちらを振りむいて見えたのは、驚愕。何故そんな表情をするのかは分からないけれど、傷一つ無い彼の姿に酷く安心した。
「ふっ、シルヴァのそんな顔初めて見たかも。……無事だったんだ。良かった」
何も返さないシルヴァに、首を傾げる。彼の目は見開かれたまま、唇が震えている。
「ルナリアナ……?」
「ん、なぁに?」
そこへ、見覚えのない長身の男が駆け寄ってきた。シルヴァと一緒にいた、デルタイトと呼ばれていた青年とも違う。……そういえば、シルヴァ、雰囲気が変わった? なんだか大人みたい。
「シルヴァ様、鍵を回収してきました。おや、カノン、気が付いたのですね。おはようございます」
カノン、という名前を聞いた途端、すうっと何かが引いていった。
「あ、れ……ソフィーンさん? ……シルヴァ、様?」
先程まで胸を占めていた想いは急激に引き、穏やかな湖のように凪いでいる。記憶をたどって、私は納得したように小さく息を吐いた。
それを見たシルヴァ様が、静かに口を開く。
「今ここにいるお前は、カノンか。それともルナリアナか?」
「カノンです、シルヴァ様」
ルナリアナの記憶はある。それでも、今の私はVDのルナであり、ルミネシア家の一員であるカノンだ。
「状況を、教えていただけますか?」
揺れるエスティアの中で、私はまっすぐにシルヴァを見据えた。




