第百七十五話『必要悪』
必要悪という概念はこの世界にもある。ジュドの研究には、そういう一面があった。
「フレデリカよ。アースと比較して、この世界の文明はどうだ? お前には、どう映っている? 新しく見えるか? それとも、古く見えるか?」
「……それは」
フレデリカの瞳は左右に揺れた。答える事を躊躇っている。それが答えだとネルギウスは苦笑した。
「古いのだろう? この世界の技術は何もかも」
王の質問に答えないのは不敬である。それでも尚、答えられない。それは肯定と同義だ。
「……当然の話なのだ。この世界の技術の殆どはカルバドル帝国の始皇帝であるハロルド・カルバドルが齎してくれたものばかりなのだからな」
アガリア王国は世界で最も安全な国とされている。それはオズワルドの存在が大きい。けれど、それだけが理由ではない。
ハロルド・カルバドルがこの世界の様々な技術を齎してくれたからこそ、繁栄し、今の平和がある。
「この世界の文明は一度滅ぼされている。初代魔王討伐後、世界はまさしくゼロからの再スタートだったのだ。加えて、ロズガルド出現後の空白の百年。その時代の事はあらゆる記録が抹消されている。つまり、科学の面においても百年分の蓄積が失われたという事だ」
「……だから、ハロルドは必死になったのですね」
フレデリカの呟きにネルギウスは頷いた。
「今の時代の技術を見れば、彼の絶望も見て取れる。当たり前に使えていた物が存在せず、当たり前に食べられていた物が食べられず、当たり前に治療出来ていた病や傷で人が死んでいく世界だ。それでも、彼は膝を屈さなかった。人を集め、素材を集め、アースとこの世界の差異を見極め、アースの科学を再現していった。どこまでも地道に、実直にな。誰にでも出来る事ではない。同じ立場に立った時、彼と同じ行動を取る事が出来る人間など皆無に等しいだろう。それでも、彼はこの世界に数千、数万年分の蓄積に匹敵する科学を与えてくれた」
ネルギウスは拳を固く握り締めた。それは偉大なるハロルドへの敬意と感謝の気持ちの現われだった。
「……だが、問題もあった。科学とは、探求だ。正しい道もあれば、誤った道もある。お前達、誤った道には価値などないと思うか?」
その問い掛けに、フレデリカとアルヴィレオは揃って首を横に振った。
「進歩は失敗や間違いの蓄積があってこそです」
アルヴィレオの言葉にフレデリカも頷いている。
「その通りだ。無数の失敗の果てにこそ、成功はある。これは科学に限った話ではないのだがな」
「……ハロルドはこの世界の失敗を蓄積する機会を奪ってしまったのですね」
「そうだ。結果として、取りこぼしてしまったものがある。人体に対する知見も、その内の一つだった」
「人体ですか……?」
フレデリカは困惑した。人体に纏わる研究はハロルドも行っていた。
人体と魔力の関係性の研究など、彼の人体研究は多岐に渡っている。
「……世界が違えば人体の構造にも差異が現れる。当然だろう。星の大きさが少しでも変われば重力の大きさも変わる。それに応じて、骨格を始めとした肉体の構造にも差異が生じる。大気中の成分においても同様だ。だが奇妙な事に、その差異は無視出来る程度に留まっていたのだ。少なくとも、ハロルドはいくつかの検査によって、その結論に至った。アースの人間の構造に対する知見で十分であるとな。だが、それはハロルドという天才に限った話だった。他の多くの研究者にとって、基礎研究を蔑ろにされた事は大きな痛手だった。実際、ハロルドが残した人体の解体書とジュドが記した解体書には微かな差異があったのだ。他にも、ジュドの研究はハロルドが省いて来た点を見事に補完していた。あらゆる成分に対する人体の反応など、特に有用であり、現在の医療技術に対して計り知れない貢献となった」
だからこそ、時の権力者はジュドの悪行を見過ごしたのだろう。
夥しい犠牲から目をそらして、より多くの人々の未来の為に。
「ハロルドは科学を齎すと同時に、世界中に一定の安寧と調和を齎した。倫理観や善悪を人々が意識出来るまでにな。だからこそ、善悪の区別が生まれる前の混沌とした世界で成熟していくべき技術を育て上げる事が出来なかった」
善き事は正しい事であり、悪しき事は間違った事である。そう断じる事が出来る者は幸福であり、同時に無知である。
そう語った哲学者がいた。フレデリカはその言葉の意味を今になって実感していた。
「それでも、国が背負うべき悪だったのだ」
巨悪を見逃した事ではない。悪を背負う覚悟を持たなかった事、それこそがネルギウスの時の権力者に対する怒りだった。
「都合が良かったから、時の権力者はジュドという個に悪を背負わせた。犠牲者に対する責任を持たず、加害者に対する責任も持たず、ただ利益を享受したのだ」
それは国を統べる者としての正当性を維持しする為に効率が良かった為だろう。
それでも、その選択は過ちだった。
「結果、ジュドは魔王となった。悪を御す事を放棄した結果だ。愚かにも程がある」
悪は巨悪となり、犠牲者の数は彼の研究によって救われる数を遥かに上回ってしまった。
「今、ジュドはラグランジアに根を張り、王を傀儡として暗躍している。これを討つ為に、七大魔王のネルゼルファーが打って出た」
「……え?」
「七大魔王……!?」
寝耳に水とはこの事だった。フレデリカとアルヴィレオは目を見開いてネルギウスを見た。
「さっき話しただろう。『ジュドが現れた事を察した時も、対抗し得る最大の手を打った』と」
「それが七大魔王のネルゼルファーだったのですか!?」
「そうだ。彼女は以前からアガリア王国の治安維持に協力してくれていた。魔王には魔王をぶつける事が最善だと考え、私は彼女に出撃を命じた」
開いた口が塞がらないながらも、フレデリカは迷いの森での出来事を思い出していた。
そこで出会った森の魔女、アンゼロッテは言った。
―――― ザインを討伐する為に動いていたネルゼルファーやヴァルサーレを抑えていたアシュリー、襲撃してきたジュドと戦ったわたしにまで権能が与えられ、七大魔王などという呼称が生まれてしまった。
ネルゼルファーは七大魔王に数えられているが、邪悪な存在ではないとアンゼロッテは語っていた。
「ど、どうなったのですか?」
フレデリカが尋ねると、ネルギウスは深く息を吐いた。
なにか、大きな感情を押し殺そうとしているようだ。
「敗北した」
「え?」
「ネルゼルファーはジュドに囚われてしまった」
その事実を呑み込むまでに、フレデリカとアルヴィレオは少しの時間を必要とした。
その間に、ネルギウスは話を先へと進めた。
「そして、奇妙な事が起きた]
「……奇妙な事ですか?」
「ああ……」
ネルギウスは言った。
「数か月前にネルゼルファーがパシュフル大陸に現れた」




