手荒い歓迎
予備校の授業が終わり、秋音と若菜は、まだ雪が残る歩道を、足元に気を付けながらゆっくりと歩みを進めていた。
「先生、背が高くて羨ましいです。私、チビで童顔だし、子どもの頃はいつもいじめられてたんですよお」
「ええ?でも、あなた、かわいいし、愛嬌のある顔してるから、クラスとかでも人気あったんじゃないの?」
「それが、上には上がいましてね。私はいつも独りぼっち。クラスの片隅で一人でマンガ読んでたり、絵を描いたりしてたんですよお」
若菜は、長めのマフラーで顔の半分を覆いながら、ややうつむき加減の姿勢でつぶやいた。
予備校で見せたような、天真爛漫な笑顔とは違う若菜の表情に、秋音は意表を突かれた感じがした。
「先生は、ここまで自分の人生、ずっと順調だったんですか?」
「え?いきなり何なのよ。まあ、大学まではそれなりに順調だったかな。あとは、好き勝手に生きてきたからさ。親からは呆れられるし、収入だって少ないし、結婚したいと思える人にも出会わないし、これからどうやって生きて行けばいいのかなあ、なんて思うこともあるかな」
「ふうん、そうなんだ。先生は頭よさそうだし、男にモテそうだし、将来も何の心配もなさそうに思ってたんだけどなあ」
「いや、それはあなたの思い込みだって!英語が出来たって、少し背が高くたって、上には上がいますから。さっきのあなたの言葉じゃないけど」
二人で色々話をしているうちに、アーケードから逸れた小径に建つ古びたビルに掲げられた「バー・メロス」の看板が見えてきた。
秋音は、ドアノブを少しずつ手前に引くと、ギギギ……と強烈な金属音を立ててドアが開いた。
店内にはいつものように薄明かりがともり、英国のハードロックが大音量で流れていたが、マスターである祥次郎の姿は見えなかった。
「あれ?マスター!どこにいるんですか~!?」
秋音は、声を上げて祥次郎を呼んだが、祥次郎は出てくる気配が無かった。
不審に思った秋音は、厨房の中に入ったが、どこにも姿が無かった。
「先生、トイレにもいませんでしたよお」
「そうか、一体どこにいるんだろうね……」
祥次郎の姿を見つけられず、がっくり肩を落とした秋音は、厨房に入り、いつものように開店の準備を始めようとエプロンを纏った。
「あなたはそこに座ってて。いきなりお手伝いさせるわけにはいかないし、今日は、バーテンダーの仕事ってどんなものなのか少しだけ見学して、そして帰ってほしい。このお店は夜中の1時まで開いてるけど、そんな遅くまであなたをここに居させるわけにはいかないからね」
「はあ~い。というか、別に1時まで居たって構わないんだけどなあ」
若菜は秋音の言葉に不満を言いながらも、しぶしぶ椅子に座り、秋音がカクテル用の果物の皮を剥く様子をじっと見つめていた。
その時、カウンターの真下から、人間の手がひょろっと伸び、椅子に腰かけていた若菜の腿のあたりをギュッと掴んだ。
「いやああああああああ~!!」
秋音は、耳をつんざくような若菜の叫び声に、髪の毛がよだつほど驚き、果物の皮を剥く作業の手を止めて振り返った。
「て、ててて、手があああああ!椅子の下から、手があああああ!」
「手が?」
秋音は急いでカウンター席まで駆け寄り、若菜の肩を抱きしめると、真下にひょろっと手が伸び、若菜の腿をしっかりと掴んでいた。
「なにこれ……化物!?」
秋音は、若菜の腿から怪しげな手を剥がそうとすると、その手は、秋音の腰のあたりを触り始めた。
「へ、ヘンタイがいるの!?何よこれ!」
秋音は、腰をまさぐる手を思い切りひっぱたくと、椅子の真下から、中年の男性と思われる野太い声が、悲鳴となって店内に響き渡った。
秋音は、そっと床に目を遣ると、そこには、口にはマスクをかけ、毛布をかぶりながら上半身裸で下にスウェットパンツを履いた、祥次郎の姿があった。
あまりにも壮絶な光景に、若菜は口を手で押さえ、顔面が青ざめ、言葉を失っていた。
「何なのよマスター!何でそこにいるの?しかもなぜここで寝てる?しかもなぜ上半身裸?」
「だ、だって、病み上がりで、体がまだだるいんだもん。だから、ずっと寝てたのよ。ここなら、暖房も当たって温かいしさ。そのうち、だんだん汗が出てきたから、上着は全部脱いじゃった♪はあ……良く寝たわい」
「良く寝たわいじゃないっつーの!だいたい、体がだるいなら無理せず家でずっと寝ていればいいのに、何でここで寝てるのよ?ねえ、ちゃんと説明してよ!この子が驚いてるでしょ!」
「は、はあい。相変わらず厳しいなあ、秋音ちゃんは。というか、その子、誰?」
若菜は、あまりの衝撃的な場面を見たショックからか、口を押えたまま、カウンターに寄りかかり、ピクリとも動かなかった。
しかし、しばらくすると若菜は、口を押えたまま身をかがめ、突然大笑いし始めた。
「ギャハハハハハハ、おもしろ~い!何このおじさん?変態なの?おもしろすぎて、お腹が痛くなっちゃった」
「あ、あのねえ、この人はマスター、このお店の店主なのよ。一応、ね」
「はあ?この人がですかあ?単なるヤバい人にしか見えないんですけどお」
「は、ははは……」
若菜の言葉は、店主である祥次郎に対して失礼極まりないものの、まんざら否定できない所もあり、秋音は若菜の口を塞いで止めることができなかった。
すると、祥次郎は立ち上がり、うつむき加減の姿勢で拳を震わせながら、二人の方をじっと睨んでいた。
「……お姉さん、ちょっと、言葉が過ぎるんじゃないのかい?」
祥次郎の言葉の端々には、怒りが溢れているのが自然と聞き取れた。
「ご、ごめんなさいマスター。ほら、あなたもちゃんと謝らないと!」
秋音は、若菜の背中を叩き、頭を下げるよう促した。
すると、若菜は一歩前に歩み出て、祥次郎の前で頭を下げた。
「ごめんなさい、ちょっと言い過ぎましたあ。もう言いませんから、許してください」
すると、祥次郎は突然目を大きく見開き、満面の笑顔を浮かべた。
「ありがとう。僕は実際、変態だし、面白いおじさんだし、ヤバいおじさんだからさ。僕にとっては、最高の誉め言葉だよ」
そういうと、若菜の手を取り、ギュッと握りしめた。
若菜は、祥次郎の反応に驚き、自分はどう答えたらいいのか、頭の中が思い切り混乱してしまった。
「あ、あのお、先生…私、何といえば」
「何も……言わなくていいよ」
秋音は、額に手を当て、呆れた表情でため息をついていた。
「君はまだ若いね。高校生?」
「いえ、予備校に通ってます。関口先生から英語を習ってるんですけど、先生がここで働いてることを知って、行ってみたくなって、今日私から先生にお願いして、連れてきてもらったんです」
「ほお、予備校生、ねえ」
祥次郎は、顎のあたりを押さえながら、若菜の顔をじっと凝視した。
「ここで、働きたいのかな?ひょっとして」
「ええ?何で分かったんですかあ!?」
若菜は驚きの表情を浮かべた。
「予備校の勉強はつまらない。それより、自分にとって刺激になることをしたい。バーテンダーの仕事は刺激に溢れてそうだから、挑戦してみたい……って所、かな?」
祥次郎は、若葉の鼻の辺りを指さすと、ニヤリと笑みを浮かべた。
「あはは……まあ、そうですけどお」
「じゃあ、明日からここに来て働きたまえ。仕事はそこにいる秋音ちゃんが教えてくれるから、安心したまえ!」
そう言って、祥次郎は若菜の肩をポンと叩くと、前触れもなく突然激しい咳が始まり、その後慌てて脱ぎ捨てていたスウェットの上着を着込んで、厨房に帰って行った。
「何で私が教えるのよ!マスター!ちょっと!ねえ?」
祥次郎から、突然、若菜の教育係として指名された秋音は、厨房に向かって大声で叫んでいたが、祥次郎は苦しそうに咳を続け、全く答えが返ってこなかった。
その傍らで、若菜は指を絡めながら、安堵したような顔で厨房を見つめていた。
「変態おじさん…いや、マスターさん、明日からよろしくお願いしますっ!」
そう言うと、若葉は厨房に向かって深々と頭を下げた。
秋音は舌打ちし、勝手にしろ、と小声で唸り声をあげて厨房に戻り、ナイフを握ると、ブツブツと小声で不満を言いながら、カクテル用の果物の皮を剥く作業を再開した。




