純粋無垢?
マンションの窓からまばゆい光が差してきた朝、秋音は体中の痛みをこらえながら、少しずつ体を起こした。
外にはまだ、昨日の雪が積もっており、隣の家の屋根や道路が真っ白に輝いていた。
体が痛い上、まだ雪が残る道を歩くのは正直気が進まないが、秋音はこの日、「もう1つの仕事」があるため、表に出なくてはいけなかった。
「はあ~……正直、体が痛いけど、この仕事は私抜きというわけにはいかないもんなあ。這いつくばって、行ってくるか」
秋音は、祥次郎のバー「メロス」の手伝いだけでなく、日中は予備校で講師の仕事をしている。
週3日程度の出勤で、安定した収入にはつながっていないものの、バーや探偵の仕事だけでは到底生活できないので、予備校の仕事で何とか生活費全てを補える程度になっている。
1年間イギリスに留学した経験を活かし、英語を教えており、長文読解や作文などにも定評があるため、学校側からの信頼も厚く、かれこれ5年近いキャリアを積んできている。
明け方の凍った道を一歩ずつ慎重に踏みしめながら、秋音は駅までの道を歩いた。
駅にたどり着くと、秋音のスマートフォンの着信音が鳴った。
ポケットからスマートフォンを取り出し、確認すると、理香からのLINEメッセージだった。
『おはよう、秋音ちゃん!うちのホテルの社員に、これからどうするのか聞いてみたんだけど、半分は統合後にエクセレントグループに行くって。残りは、退職して別な道を探すって言ってる。私はどうしよう……正直、みんなと別れるのは、寂しいけど、早めに決めなくちゃと思って焦ってる』
電車に乗りながら理香のメッセージを読むと、エクセレントホテルグループを前に何もできなかった自分が、もどかしくて仕方が無かった。
何ともやりきれぬ気持ちのまま、秋音は電車を降り、予備校に向かって歩き出した。
雪が残り、肌寒い朝であったが、受験シーズンを間近に控えた受験生にとっては追い込みの時期であり、朝早くから大勢の生徒が教室で参考書を読みながら待機していた。
秋音は、授業用の教材を持って教室に入ろうとしたその時、目の前に、ポニーテールの小柄な生徒が背筋を伸ばして立っていた。
生徒は、授業をボイコットする生徒のような後ろめたさを感じる表情ではなく、そのつぶらな瞳は、まっすぐ秋音の顔を見つめていた。
「どうしたんですか?授業はもうすぐ始まるから、教室に戻ってください」
「先生、私、どうしても先生にお話ししたいことがあるんです」
「随分唐突ね、一体どうしたの?」
「私、受験勉強をやめようか、迷っていまして。だって、目的を何も見いだせなくって……」
「え?」
秋音は、生徒からの唐突過ぎる申し出にあっけにとられながらも、気を取り直し、
軽く咳払いしながら諭すように話した。
「そういう質問は、授業が終わってからにしてね。後で講師室に来てくれる?」
すると生徒は軽くうなずき、さわやかな表情で教室の中へ戻っていった。
本人は気分的にはスッとしたのかもしれないが、受験直前期の今、しかも講師である秋音相手に言う言葉としては、いかがなものだろうか?
秋音は、相談してきた生徒とは裏腹に、奥歯に何かがひっかかったような表情で教室の中に入っていった。
授業終了後、まだ痛みが引かない体をかばいながら、秋音は講師室へと戻っていった。
ドアを開けると、そこには授業前に相談に来たポニーテールの生徒がニッコリ笑いながら、手を振って秋音の席の前で待っていた。
「な、なによ、勝手に私の席の所に入って!」
「うふふ、ごめんなさーい。早く先生に相談したくって、来ちゃいましたあ」
「来ちゃいましたあ、じゃないっつーの……」
秋音は、腰に手を当て、ため息をつくと、椅子に座り、腕組みをしながら生徒を下から見上げるように睨みつけた。
「あ、私の名前ですよね?申し遅れました。私は、田崎若菜っていいます」
「はいはい、田崎さんね。で、相談って?受験勉強をやめるってこと?」
「はい。やめます」
そう言うと、若菜は満面の笑みを浮かべた。
「で、やめた後は、何を、したいのかなあ?」
秋音は、椅子越しに後ろに立っている若菜を、大きく目を見開いて、真下から挑発するかのようにジロジロと見つめた。
「先生、バーテンダー、してるんですよね?私もやってみたいなあ、なんて」
「はあ!?」
若菜は、にこやかな顔で、全てお見通しと言わんばかりの言い方で答えた。
「こないだ授業が終わった後、ちょっと後を付いていったんですよ。先生って、雰囲気がすごくミステリアスなんだもん。このお仕事終わったら、一体何してるんだろうなあって、気になったら勉強が手につかなくって。で、学校の帰りに思い切って先生の後を追跡しちゃいましたあ~」
「か、勝手な真似、しないでよ!後を追ってきただなんて」
すると、若菜はポケットからスマートフォンを取り出すと、秋音が店の近くのスーパーで買いだしをしている写真や、沢山の果物やお酒を詰め込んだ買い物袋片手に、「メロス」への階段を降りて行く写真を見せてくれた。
「あんた、一体、どこでこれを?」
「後を付いていったら、たまたま見かけちゃいましたあ~。この店にいく前に、スーパーとかで買い物してたから、目について見つかったりしたらヤバイと思って、他人の振りして陰の方でじーっと身を潜めてました。先生、本当に英語ペラペラしゃべることができてカッコいいけど、バーで働いてるなんて、改めてやっぱカッコいいなあ~と思いましたあ~」
若菜は、両手の指を絡ませ、目をキラキラと輝かせながら秋音の顔を真正面から見つめた。
その瞳は、純粋無垢な少女という感じで、一心不乱に見つめ続けるのは辛かった。
「先生、私、バーテンダーに挑戦してみたいの。友達でお酒好きな人に聞いてみたら、酔っ払いの相手はすごく大変だよって忠告してくれてね。でも、でも、それでも今の私は、バーテンダーに挑戦したいって思ってる」
「あのさ、大学に入ってからでも、間に合うよ。別に私のお店じゃなくても、ほかにもバーは何処にでもあるわよ」
「それでもやってみたいの!ね、いいでしょ?今日、これから見学に行っても大丈夫ですか?私、バーテンダーとして生きていきたいから、先生の仕事ぶり、しっかりこの目に収めておきたくて」
秋音は、負けたといわんばかりに目線を落とし、お手上げといわんばかりに両方の掌を上に向けた。
「じゃあ、私、あともう1コマあるから、2時間近く待ってられる?」
「はい!!じゃあ、2時間後、玄関前で待ち合わせましょ。待ってますね~!」
そう言うと、若菜は深々と一礼し、そそくさと講師室を後にした。
「どこまで……本気なのかしら?まあ、現場を見て、せいぜい諦めることね」
秋音は、酔っ払い客だけでなく、マスターの祥次郎という変わり者で個性的な店主とともに仕事をすることで、この仕事は思ってたよりも大変なんだ、と分かってもらえるはず、と考え、フフッと不敵な笑みを浮かべて、次の授業の準備を始めた。




