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#9 マジカルユナイト

教室の中の一人の学級委員を前に、十九人が同じように凍りついていた。


葛西は靴下を脱いで、机の上をふらふらと歩き渡っていた。

机の脚が揺れる不安定な音に、ぺたぺたと子供の足音のような無邪気な音がかさなる。


「ひとりーじゃーとどかないーっみらいーもーっ、てをかーさーねれーばぁーっほら!ちーかづーくーっ」


葛西は舌足らずに歌を歌っていた。

聞き覚えのあるメロディだ。懐かしい、なんだっけこの歌。


「マジカル!ユナイトーっ、ひびけっこーのーちかーらっ、ちがういーろーでもーっ、ひとつーにーなれるーさ!ほら!」


あ、マジカルユナイトか。

幼稚園児の時にみんなで熱中していた戦隊ヒーロー。


たぶん男は全員見ていたと思う。

志麻なんて小学校に上がってもマジカルユナイトの水筒使ってた。

あの頃の俺たちはみんなヒーローだった。


志麻は隣で、奥歯を噛んで険しい顔をしていた。


机の上に置いたままだったいちごオレが、葛西の裸足に踏んづけられて盛大にこぼれた。葛西は構いもせずにそのまま二番を歌い上げている。

ぴちゃぴちゃと音を立てながら。赤い虫の血溜まりで遊んでいるんだ。


「…………っ」


教室の隅に立っていた瑠伊が小さな声を漏らした。

瑠伊は細かく震えている自分の手のひらを眺めながら、ひゅ、ひゅ、と嫌な音を立てて空気を吸っていた。


子鹿のように震えている細い足は、すぐに瑠伊を支えられなくなって、傾れ込むように近くにいた佐伯に寄りかかる。


「……っ、僕が……っ……きょ、……杏太っ……を、……」


瑠伊は奥歯をカタカタと鳴らしながらそれだけ絞り出すと、苦しそうに嗚咽し始めた。

抱きつかれた佐伯も痛ましそうな顔をして、何言ってんだよ、と声をかけながら瑠伊の背中をさすっている。


こんな時でも、瑠伊の頬はほんのわずかに赤らんでいる。鼻水も涎も出てない。

自分が葛西を導いてしまったことを悔いて、怯えて、恐れて――それでも俺たちを不安にさせまいと、必死に呼吸を抑えてるんだ。

瑠伊のことをかわいいって思ってしまった自分が、殴りたいくらい情けない。


でもそう思っているのはたぶん俺だけじゃない。瑠伊の背中をさする佐伯も、それを黙って見守る大塚も。桐原だって離れたところから瑠伊を見てる。

瑠伊のせいじゃないよ、こんなの。


「んぁ……あ、あかちゃん!」


弾かれたように、歌うのをやめた葛西が机の上で飛び上がった。


どん、と重たい衝撃を足に感じる。

葛西が机から飛び降りていた。

爛々としているのに一切光が差していない目で、こちらを――いや、教室の一点を見て立ち尽くしている。


「あ、あ、あかちゃんっ……泣いてるぅう」


そして葛西はその一点に向かって、何人かを薙ぎ倒して這った。佐伯の影が視界からいなくなる。葛西に突き飛ばされたんだ。葛西が見ているのは――瑠伊だ。


瑠伊は尻餅をついたような体勢になって、じりじりと後ずさった。唇を小さく震わせながら、鈴のような声で、瑠伊は葛西の名前を呼んだ。


「……杏太っ……」


葛西は瑠伊にずいと顔を近づける。さっきの臭いが思い出されて胃液が込み上げた。それでも瑠伊は嫌な顔ひとつしない。自責の念で押し潰されそうな顔をして、大きな両目からぽろぽろ涙をこぼしている。


葛西が何考えているか分からない。でも嫌な胸騒ぎがして、葛西の腕に手を伸ばそうとした。

ところが葛西は首を九十度横にぐにゃりと曲げた。


「どちたの? いたいのいたいのとんでけ! してあげよっか?」


葛西はそう言うと、瑠伊の両頬を掴んでぐいと自分の方に引き寄せた。

身体が浮いてしまうんじゃと思うくらい、猛烈な力だ。


葛西は親指で、瑠伊に伝っている涙に触れた。一粒、一粒、と落ちていく涙を、検品しているように指で弾いていく。

四回繰り返したあと、葛西は腹の底から声を出した。


「あ、わかったぁ!! おむつだ!!」


あひゃひゃと不気味な笑い声を上げながら、葛西は瑠伊の頬からパッと手を離す。

そしてよろめいた瑠伊の腰を、逃がすまいと引き寄せた。


「ごめんね! おむちゅ、いまかえたげますからねぇ!」

「っえ……ぁ、……? 杏太……?」


戸惑う瑠伊をよそに、葛西は瑠伊の両足首を掴むと、そのまま持ち上げて押し倒した。

床に強く背中を叩きつけられた瑠伊は、苦痛に顔を歪める。だが痛みよりもっと強烈な恥辱がそこにはあった。


「なっ、何っ? やっ、やだ……やめてっ、杏太っ……!!」


瑠伊は縋るように声を絞り出したが、葛西は止まらない。瑠伊のスラックスに顔を埋めて、鼻で思い切り息を吸い込んで首を傾げている。


「葛西! 落ち着けって!」


耐えられない。多少乱暴なのはわかっているけど、葛西の襟の後ろを掴んで引っぱった。

ぐええ、と蛙が潰れるような声をあげて、瑠伊から葛西が引き剥がされる……はずだった。


葛西は俺が引っ張るのと反対方向に思い切り体重をかけて振り払ったんだ。

俺が力比べで負けるなんて。少なくとも、葛西に、負けるなんて。


「れんじ、れんじれんじ、さかいれんじ、さかいれんじくん。やめて」


葛西は壊れたテープのような単調な声を上げると、唖然とする俺をよそに、再び震える瑠伊に覆い被さった。


「あかちゃんないてる。おむつかえなきゃかぜこんこ、なっちゃうのにねえ?」


まだ紙花の残る歯を剥き出しにして、葛西は瑠伊の顔を覗き込む。


「……ぁ、……あ、あ、……ご、ごめんなさ……」


べちょべちょ音を立てて、葛西の口元から重さのある涎が垂れた。

瑠伊の頬に、涎を吸って溶けかけた黒いペーパーフラワーが張り付いていく。


「……うわっ、やめろ、吐きそう……!」


瑠伊より先に佐伯が口を押さえた。何人かは悲鳴を上げて出口の方へ逃げた。


瑠伊の瞳が大きく見開かれる。

無理やり押し倒され、葛西の重みに瑠伊が潰されそうになった、その時だった。


――コーン

鼓膜の奥を突くような、あの荘厳な鐘の音が教室に響き渡った。


「ッ、ぎ……!!」


瑠伊に執着していた葛西の身体が、まるで電流を流されたかのように大きく跳ねた。

葛西は瑠伊を放り出すと、耳を塞いで床を転げ回った。


「やだ、やだあ! こわい、こわいよぉ! ごめんなさいっ!!」


葛西はそのまま四足歩行で教室の隅の掃除ロッカーへと逃げ込んで震え始めた。扉を閉めることも忘れて、ぶつぶつ何か呟いている。


「……は、……ぁ……」


瑠伊は天井を仰いだままだった。奥歯がカタカタと、おもちゃみたいに音を立てている。


「おいっ……大丈夫?」


佐伯がその細い身体を抱きとめる。瑠伊は佐伯の制服を指が白くなるほど掴んで、わぁっと泣き始めた。


『天使の再選出を開始します』


『【天使】は名乗り出て、教卓に起立して【自らが天使である】と宣言してください』


『【天使】を捧げられないときは、【試練】を完遂してください

 【試練】を完遂できないときは、【悪魔】を選出してください』


『【天使】を発見した場合、または、100ポイントに到達した場合、全員が救済されます』


一言一句同じ言葉が表示され、不気味な音声に淡々と読み上げられる。


「……嘘だろ」


誰かが絶望的な声を上げる。

天使の選出。

また、誰かを、あの多目的室へ送らなきゃいけないのか。


「無理っ……無理無理無理!」


大塚が、狂ったように叫んだ。開かないとわかっているはずなのにドアをガタガタ蹴飛ばして、ヒステリックに吠えている。


「誰だこんなことすんの!!! なんなんだよ!!」


大塚のパニックはすぐにクラス中に伝染した。

南雲は床に座り込んだまま、ひ、ひ、と短い悲鳴を上げ続けている。志麻は窓の外を睨みつけて動かない。桐原だけが、冷静にモニターと、クラスメイトの反応を交互に見つめていた。


「……なぁ、帰ろうぜ。扉ももう開いてんだろ」


佐伯は開きっぱなしになった扉を指さすが、誰一人、言い出した佐伯すら動くことができない。

誰もがその場に立ち尽くし、誰とも目を合わせようとしなかった。


なんとかしなくちゃと思うのに、葛西の叫び声が頭を渦巻いてなにも考えられない。


「……なぁ、この試練とかいうやつは?」


俺が震える人差し指でモニターの文字を指さすと、再び0/100という数字に切り替わった。


「ゼロ……? どういうこと……?」


瑠伊がモニターを見上げながら声を震わせる。


ゼロ。

葛西があんな風になってもゼロ。

張り詰めた沈黙に、葛西の呻き声だけが聞こえる。


「試練とかいうの選ばないと……だめってこと……?」


真っ赤な目をした瑠伊が俺の方を振り返る。

ほんとはわかんない、そんなの、俺にだって……

でも何か、糸口があるなら……


教室を見渡す。


あとのみんなは俺のことを見てる。俺が何かを選択するのを待っているみたいに、すがるような目でこっちを見てる。

ふと桐原と目があった。

桐原は眉に皺を寄せて小さく首を横に振っている。


答えが出ないまま、情けなく唇だけを動かす。

試練を提案した自分が、決断を下せばいいだろ。

でも、いいのか、それで、本当に――


突然、静まり返った教室にけたたましい警報音が鳴り響いた。

血みたいな真っ赤な文字が映し出されている。


『選択が確認できません。三分以内に選択が認められない場合、全員を悪魔として断罪します』


「んぎいい! ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、パパ!!!」


葛西が暴れて、何本か箒が投げ出された。何かから逃れるように必死でロッカーの扉を閉めようとするが、箒がひっかかって閉まらずパニックになっている。


そばにいた広瀬が咄嗟に箒を引っこ抜くと、バタンと音を立てて勢いよく扉が閉められた。


「……試練だ」


俺が口にする前に、教室の端で静かな声が響いた。

志麻はまっすぐにモニターを見上げたまま、こめかみに脂汗を浮かべてそう言った。

志麻の瞳は、どこか睨みつけるように鋭くて、それでいて俺たちと同じように、いや、俺たち以上に震えている。

志麻の言葉に、誰も反論しなかった。


『一つ目の【試練】が選択されました。内容を提示します』


無機質な声がそう言うと、ロッカーの中で暴れていた音もぴたりと止まった。


生唾を飲んで、俺たちはモニターを見上げた。

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