#8 ヤギ
暗幕をおろすと、背中の方で何人かが悲鳴をあげた。バラバラになった葛西。散らばった肉片。広がる血溜まり。凶器を握ったまま立ち尽くす誰か。俺たちが想像していたものは酷い光景だった。
だから目を疑ったんだ。
なんの外傷もない葛西が、俺たちに背を向けて立ち尽くしていたから。
「……葛西」
枯れた声で葛西を呼んだ。
生きてる、生きてる。葛西が生きてる。吸い込まれるように、足が葛西に近づこうとした。
手首に生ぬるい体温がまとわりつき、強い力でぐいと引かれたことで、足の動きが止まった。志麻だった。
「……志麻、」
「近づくな」
「っ、え…………」
あんな悲鳴がしたのに。あんなに酷い音がしたのに。葛西は一糸乱れぬ様子でただ立っている。いや、正確に言うと左右にゆらゆらと揺れている。
葛西はゆっくり多目的室の入り口を振り返った。
それは、確かに葛西だった。ついさっき触れた縮毛のかかった癖っ毛も、白い肌に浮いているそばかすも、困ったように寄せられている眉も。
葛西は口いっぱいに、紙花を頬張っていた。焦点の合わない目で俺たちの方を見て、モチャモチャと音を立てて、ゆっくり咀嚼している。
唇からは涎で溶けた黒い花の残骸がまとわりつき、ぼた、と音を立てて足元に落ちた。
葛西は俺たちのことが視界に入っているはずなのに、濁った瞳には誰一人映っていない。光のないガラス玉のような瞳が、何か探しているようにギョロギョロと動いている。
「……っはは……ホントにヤギだ……」
腰を抜かしたままの佐伯が力無く笑った。
葛西は佐伯の言葉を聞き取ったのか、ぼんやり佐伯の方を見渡して、にちゃっと音を立てて笑った。剥き出しになった歯には白と黒の紙の塊がこびりついている。ひ、と佐伯が息を呑んだ。
「……葛西、なぁ、なぁっ……分かる? 蓮司だよっ……」
志麻に掴まれていない方の右手を伸ばして、俺は葛西の肩を掴んだ。志麻が一層強い力で引っ張ってくるので、よろめいて志麻の足元に倒れ込む。
声に反応したのか、肩に触れられたことに反応したのか、仰け反るほど天を仰いでいた葛西の喉が大きく波打った。
「……ごぼっ」
あ……やばい。とは思ったのに、一瞬の出来事で身動きが取れない。葛西は体をブンと大きく折りたたんだ。
「う゛ぉ゛ぇッッ………ごぇっ……ゲェェエェッッッ……ごふっっあー……」
葛西は口からドロドロに溶けたペーパーフラワーの残骸を、勢いよく嘔吐した。
ボチャボチャと水音をたてて落ちていく白や黒の中に、銀色に光る小さな物体が混じっている――ネジだ。1個じゃない。目視できるだけで7個くらいある。
あの機械音は、ただの脅しなんかじゃなかったんだ……
鼻をつく胃液と吐瀉物の臭いが、百合の匂いと混ざった。
何人か連鎖するように昼飯を吐き出したが、誰も動くことができない。
心配する言葉も、なじるような言葉も、誰も口にしない。
つい一時間前、葛西と肩を並べて文化祭の書類を確認していた広瀬千秋は悲鳴を上げることもできずに、顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
葛西はキョトンとした顔で吐き出したばかりの汚物を一瞥すると、何事もなかったかのように口元の汚れを手のひらでゴシゴシ擦った。ゲロが口周りに広がる。
葛西は尻餅をついたままの俺の顔にぐっと顔を近づける。息を止めるほどの強烈な臭いを吐き出しながら、葛西はにっこりと笑った。
「おはよぉれんじ、いまのじこくは、よじ、よんじゅうさんぷん。ごびょう! ろくびょう、ななびょう。……ぁ、あ、あ、じゅーびょう!!」
ようやく発された言葉は舌足らずで、まるで言葉を初めて口にするような喋り方だった。秒針が動くように、葛西の目は一秒ごとに上下したり左右したり、忙しなく動いている。
ふいに鐘の音が鳴った。
最初にモニターがついた時に鳴った、荘厳で繊細な鐘の音だ。
弾かれたように、葛西の身体が跳ねた。
「……ッぎ、!」
葛西は床に手をつくと、不自然な角度に関節を曲げ、四足歩行を始めた。
そのまま廊下を這うように、獣のような速さで教室の方へ駆け出す。何人かは逃げるように道を開けたが、動くことができなかった南雲は葛西に踏み潰されるように倒れ込んだ。
「葛西ッ!?」
俺の声が届く前に、葛西の形をした獣は軽々とL字の角を曲がり、教室の方へと消えていった。
「……あ、……ぁ、……」
志麻に手首を強く握られたまま、呆然とその背中を見送った。
あんな悲鳴がしたのに。あんな酷い音がしたのに。
葛西は生きている。生きて、動いている。
でも、あれは葛西じゃない。
俺たちが送り出した、真面目で優しい学級委員長じゃない。
手首に食い込む志麻の手が、痛いほどに震えている。志麻も、怖がっているんだ。
俺たちが、葛西をぶっ壊したんだ。
「……よかった、」
「……は?」
自分の口から漏れた言葉に、俺は自分で驚いた。
俺は今なんて言ったんだ。よかった? よかった? よかったはずがあるか?
志麻も一瞬呆気に取られたような顔をしたが、俺の顔を見ると力を抜いて、それ以上はなにもいわなかった。
「……よかった、葛西。生きてて、生きててくれて……よかった、」
涙がぼろぼろと溢れてくる。なんの涙なのか、自分でも説明ができない。
葛西は生きている。生きて、教室へ戻った。
だから、俺たちも戻らなきゃ。
葛西の待つ、あの地獄のような教室へ――




