#10 催吐
『一人一杯、コップに注がれた液体を飲み干し、三十分体内に収めてください』
そう表示されたモニターの下で、俺たちは繊細な装飾が施されたグラスを握っていた。
教室を出てすぐのところに当然のように整列しているグラスは、不気味な生き物みたいだった。
無色透明なはずなのに、照明の光を受けてキラキラと光っているように見える。
鼻を近づけると、花の芳香を凝縮したような強い香りがして思わず顔を引っ込める。
「……なぁ、せーので飲もうな。じゃないと時間、もったいないし」
葛西というリーダーを失った今、なんとなくクラスを仕切り始めているのは俺だった。ほとんどのやつらは覚悟を決めたようにグラスを握る指に力を込めた。
「……おい、葛西は? あいつ自力で飲めんの……?」
葛西は再び教室をフラフラ駆け回り、たまに時刻を叫んでは、また何事もなかったように延々と歌っている。
グラスを持ち、それを飲み干す。
ただそれだけのことが、今の葛西にできるとは思えなかった。
「……それに、あいつ吐きまくってるだろ。三十分も我慢できんの……?」
佐伯が眉間に皺を寄せながら言うから、自分が名乗り出た。
「……俺が葛西を支えるよ」
誰かがそうするしかない。
別に平気だ、俺葛西のこと、好きだし。
「もし葛西が吐きそうになったら……葛西には悪いけど、口、塞ぐよ」
「よっしゃ、そうしようぜ」
よくぞ言ってくれたとばかりに、大塚が膝を叩いた。
「っ……じゃあ、僕、飲ますの手伝うよ」
小さな声で名乗り出たのは瑠伊だった。確かにさっきの葛西の様子だと、瑠伊の言うことなら素直に聞きそうではある。でも。
「いやそれは……」
大塚たちと取っ組み合うような、あんなかわいい遊びじゃない。本当に組み敷かれそうになっていたのに。瑠伊は真剣な目をして、首を小さく横に振った。
「僕にやらせて。……杏太にちょっとでも楽させたいんだ」
俺だけじゃない、みんなが瑠伊の言葉に息を呑んでいる。
それなのに隣に立っている志麻は、瑠伊のことを睨みつけるような顔をしていた。
葛西は瑠伊に呼ばれると、四つ這いで駆け寄って頬を擦り寄せた。
瑠伊は顔を引き攣らせながらも穏やかにルールの説明をするが、葛西は首を傾げたり頷いたり、理解しているのか判断できない動きを繰り返している。
「……飲ませられそう、今なら。蓮司っ」
瑠伊の目が縋るようにこっちを見上げたから、俺は円になっているみんなに呼びかけた。
「みんな飲もう」
瑠伊は半開きになった葛西の唇にグラスを近づける。
傾けられた液体が、星屑のような光を放ちながら、葛西の唇に触れる。
「いくぞ、せーのっ……」
目を閉じて、グラスの中身を一気に流し込んだ。
鼻に抜ける強烈な花の香りと、喉を焼くような粘り気のある甘み。
なんだこれ! 気持ち悪! 芳香剤をそのまま飲んだような味がする。すぐに胸焼けで苦しくなった。
これを30分耐えるのか。胃が花畑になっちゃいそうだ……
「っうえ……」
何度か無理やり喉を動かすと、口の中に胃液みたいな唾液が溢れてきた。
「ん、んっ、おいしっ。もっと、もっとちょーだい。るい。いいこにするよっ、おりこう、ねぇえ」
瑠伊は葛西から自分のグラスまでひったくられそうになって、慌てて中の液体をあおった。勢いよく口に入った甘い蜜が、瑠伊を咳き込ませている。
横目で志麻を見ると、口元を拭ってグラスを捨てるように床に転がしていた。
胸がつまったみたいに痛む。安堵なのか不安なのか自分でもわからない。
30.00
モニターのタイマーの数字は動かなかった。
葛西は飲んだはずだ。他の奴らも当然飲んでいるはず――ざっと教室を見渡すと、何人かが慌ててグラスをあおった。
最後までためらっていたのは、佐伯だった。
「さえきっ……」
甘さで痺れる舌のせいで、言葉は無様にもつれる。
佐伯は眉間に皺を寄せながら、渋々グラスに口をつけた。
文句はたくさんあったけど、これ以上喋れそうになかった。
モニターのタイマーが、ようやく動き始める。
5分。
意外と平気だ。喋ってる奴らもいる。
胃のあたりが冷たい感じがするけど、我慢できないわけじゃない。
でも花の匂いはやっぱり気持ち悪い。
8分。
長いな。静かなのが地味に辛い。こんな時は暇な授業をやり過ごす必勝法。
10秒のまとまりで考えれば得した気持ちになる。
……8、9、はい10秒。
これをあと21回繰り返せばいいだけだ。
あ、違うか。
10秒が6回で1分だから……うわ、吐きそうだ。やめよう。
10分。
額に脂汗が浮いてきた。時々波が来たみたいに胃から喉に何かがのぼってくる感じがする。
もう誰も喋ってない。
12分。
油を飲まされて、それに火がついたんじゃないかって思うくらいに、胃が熱い。
みんなの顔見てる余裕がない。でも鼻息荒くなってるやつは何人かいる。何かに耐えてるみたいに深いため息ついてるやつも。
13分。
瑠伊の膝の上に頭を乗せて唸っていた葛西が、突然大声で「うぷ!」というような声をあげた。
目があらぬ方に向いて、喉が不気味な動きをしている。
俺は必死に手で葛西の口を覆った。
葛西は悲鳴を上げながらモゴモゴと俺の掌の中で苦しんでる。
すぐに溢れてくる涎で手がぬるぬるし始める。魚を手づかみしてるみたいだ。
ごめん葛西、ごめん。
13分24秒。
「ゔぇ゛っ……ごぉぇええっっ……!!」
「あ……」
一人が吐いた。
葛西じゃない。南雲だ。
崩れ落ちてその場に四つん這いになり、一度堰を切ってしまったものは止めることができない。何人か釣られて吐いた。
空気が一瞬で凍りついた。
あのミシンみたいな機械音と、葛西が吐き出したネジの鈍い音と、けたたましい警報音とがごちゃ混ぜになって幻聴のように思い出される。
「ざけんなよてめぇ……!」
「ち、ちがっ、ちがうっっ、ぉ俺のっ、おっおっ、っ、ぉかしかったっ……!!!」
「言い訳すんなぶち殺すぞ!!」
大塚が唾を飛ばして怒鳴ってる。
南雲は顔も上げられずに、長い前髪を振り乱してパニックになっている。
ブーーーー、という大きなブザー音とともに、モニターが赤く点滅した。
【失格】
白抜きでそう書かれている。つま先から頭皮まで一気に粟立つ。
葛西はブザーを聞いて飛び跳ねて、我慢していたものを全部床にぶちまけた。
甘い匂い、ゲロの匂い、錆びた鉄みたいな匂い。
ピピピピ、と何かを解析しているような電子音がする。
ぴたりと音が止まると、モニターは画面を切り替えた。
『出席番号十四番の生徒は、二年一組教室まで移動してください』
十四番。
心当たりのない数字だった。
南雲か、と思ったのにあいつの顔色は変わらなかった。代わりに前方に立っていた影がへなりと座り込むのが見えて、ようやく誰が呼ばれたかはっきりする。文化祭実行委員の、広瀬千秋だった。
「……俺……?」
千秋は奥歯をガタガタ震わせて真っ青な顔をしている。
「や……やだよ…………俺我慢したよ……? なんで……っ」
どうすればいいんだ。
抗えばいいのか。
行くなよって言えばいいのか。
誰にもわからない、動けない。
千秋に飛びついたのは葛西だった。
葛西は涙をこぼし始める千秋に駆け寄ってあやし始める。
「だいじょーぶ。こわくないよ。まもってあげるからね」
葛西の声は穏やかで、瑠伊に向けていた野生的な獰猛さはなかった。
小さい子供が怯える友達を宥めるみたいに、葛西は千秋を励ました。
本当に、そうだったのかもしれない。二人とも初等部からの内部生だったはずだ。
千秋の嗚咽は激しくなり、葛西の肩に顔を埋めはじめた。
「ちい。遊園地、たのしいよぉ。おれ、つれてってあげる。ねー?」
ちい、と呼ばれた途端、千秋は息を呑んで呼吸を止めた。
ほんの短い時間だったけど、二人にしかわからない沈黙があった。
葛西はこんなにおかしくなってるのに、千秋はそんなこと分かってないみたいに、声を絞り出した。
「……杏ちゃんっ…………」
「うん? いっしょにいこうねっ。ねーっ、ちい?」
葛西に腕を引かれて、千秋はふらふらした足取りでなんとか立ち上がった。
千秋の目は泣き腫らして真っ赤になっていたが、パニックの色はもうない。落ち着ききっている。
葛西はパッと明るい顔をすると千秋の震える指を両手で包んだ。
千秋はぎゅっと葛西にくっつくと、幽霊のようにふらふらとした足取りで教室を出た。
二人を止める者は誰もいない。
ガラガラと扉が閉まる音がして数秒後、葛西は何事もなかったかのように教室に戻ってきた。
「マジカル! ユナイトーっ、絆はー呪文だっ」
黒板の向こう側からカタカタカタカタカタと忙しないミシンの音が聞こえる。
合間に聞こえるのは千秋の悲鳴だ。
「何度倒れてもーっ、たちあーがれっ!」
周波数の合わないラジオみたいに、途切れ途切れに喘ぐ声が漏れ聞こえてくる。
「君となーらばっ、怖くーはぁなーいさーっ!」
耳を塞ぎたい。
体が動かない。
瑠伊が、志麻が選ばれてたら、俺はどうしただろう。
こうして見ているだけなんて、絶対、しなかった。
「未来ーをー照らせーっ、ヒーロー!」
いつのまにか悲鳴も、ミシンの音も聞こえなくなっていた。
志麻も桐原も、石のように固まって動かなかった。
「ひろせちあきくん、ちい。……ちぃ、よかったねぇ」
葛西だけが顔を上気させて、黒板に手を這わせていた。
心臓の一部が抉られて穴が空いたみたいに気持ちが悪くて、足元にゲロを吐いた。




