#6 聖別
「さっさと決めよーぜ。天使とかいうの」
佐伯はうんざりと天井を見上げながら言うと、大塚もでかい声で言った。
「天使って言ったら一人しかいねーだろ」
まあ確かに、このむさ苦しいクラスで天使は誰ですかって聞かれたら、俺たちは一つしか答えをもっていない。
クラスの視線は、もちろん清水瑠伊に向いていた。
瑠伊ははじめ、急に集まりだした視線にきょとんとして、クラスメイトの顔を見渡した。それから困ったように眉を寄せて笑った。
「え……僕?」
「ちっちゃい、かわいい、愛おしい! こんなに天使っぽいやつがほかにいるかよ?」
「は。ありがと蓮司」
瑠伊は鼻で笑ってこっちを見た。なんだその呆れ顔。
「でも僕じゃないと思うなぁ。『一番かわいい人を見つけてください』? そんなのさ、見りゃわかるじゃん。簡単すぎない?」
結構なこと言ったぞ。でも本当のことだから誰も何も言わない。
「『天使』はさあ。もっと、僕らみたいな子羊を先導してくれる存在なんじゃないの?」
そう言うと瑠伊は椅子の上に膝立ちになり、教室全体を見渡して小首をかしげた。ちっちゃいインコみたい。
「僕はクラスのピンチより、早く部屋戻ってマンガ読みたいなあって気持ち。明良はタバコ吸いたいなあって思ってるし、洋二郎は彼女のことばっかり。蓮司だって……」
瑠伊が微笑みを浮かべたまま志麻の方に視線を送ろうとするので、慌てて首を横に振った。瑠伊はくすくす笑ってそれ以上は言わなかった。
うん、瑠伊は天使じゃなくて悪魔だ! どっちかっていうと。
喫煙を暴露された大塚は大きいため息をついた。
「誰だと思うんだよ、瑠伊は」
「僕? ……そうだなあ。杏太とか? どう?」
「えっ……俺?」
突然名前を呼ばれた葛西は、ハトが豆鉄砲を食らったような顔で自分を指さした。
葛西が「天使」? それには葛西も違和感があるようで、そばかすのある顔を真っ赤にして首を振っている。
「だっていっつもみんなのこと導いてくれるでしょっ」
「いや、でも天使って……そんな、俺は」
「あーね。確かに葛西なら文句ねーわ。成績もいいし、先生の信頼も厚いしな」
佐伯の声はどこか投げやりで、それでいて適任を見つけたことに安堵していた。さんせー、とつまらなさそうに大塚も続く。
賛同の声でざわついていく教室の真ん中で、葛西はうつむいている。
葛西が明らかに嫌がっていたら、俺は止めたと思う。
でも、いつもどこかどぎまぎしている葛西が、まんざらでもなさそうに顔を赤くして、鼻の下をかいていた。
「何照れてんのっ」
なんとなく葛西の頭を撫でまわした。初めて触れる葛西の髪の毛は柔らかく、意外と癖っぽかった。毎朝セット頑張ってんのかな。
「うるさいよっ」
葛西はくすぐったそうに俺の手を跳ねのけてにこっと笑った。
手のひらに残っていた葛西の温もりが、すぐに自分の体温に馴染んで消えていく。
あれ、なんか胸の奥が痛む感じがする。
なんか、みんなでこいつを騙してるみたい。
まあでも。誰かが天使とかいうのに立候補しないと、寮戻れないんだもんな。
「じゃ、俺やるよ、天使の宣言」
改まった葛西の様子に、教室には下劣な歓声があがった。
「さすが学級委員!」
「よっ、俺たちの天使〜〜」
拍手が上がる。へらっと笑う葛西から、なんとなく目を逸らした。
「教卓の上に立つとかなんとか、書いてなかった?」
誰かがそう言ったので、葛西は素直に教卓の前に立った。冷ややかだった教室の空気は、もう文化祭を楽しむ昂りと化している。不機嫌そうにしていた大塚や佐伯すら、立ち上がって教卓の前に集まった。
「蓮司、ほら来いよ」
大塚に肩を組まれる。ずしっと硬い筋肉に引っ張られるが、抵抗しなかった。
うーん。なんだろ。俺あんま楽しくないかも。
「葛西が天使かぁ、なんかシュールだよな」
それでも無理に口角をあげて呟くと、佐伯は鼻で笑って、小声で耳打ちした。
「ま、どう考えても『天使』って柄じゃないよな。……どっちかっていうと『ヤギ』ってかんじ」
「……ヤギ? なんで?」
「ははっ、いーよ、なんでもないから」
佐伯の知識マウントにも、いつもだったら笑って何か言えるのに。
葛西は覚悟を決めたような顔をして、教卓の面に触れた。いつも篝ちゃんや他の教員が、出席簿を叩きつけ、教科書を広げる場所だ。本来踏みつけて上がっていいところではない。葛西は足をかけようとして、ぴたりと動きを止めた。
「天使ちゃん、まだぁ?」
「早くしろよー」
囃す声に急かされた葛西は、困ったように眉を下げて、律儀に机の下で黒いローファーを脱いだ。
かかとを指でなぞるように脱がれた靴が、葛西の足元に揃えられる。定規で測ったように正確に、美しく主人の足元に並んだ。
……あ。
心臓が嫌な跳ね方をした。
綺麗に並べられた靴。ドラマとか、漫画とかで、見たことあるやつみたい。
やっぱなんか、よくない。
「……なぁ、葛西。やっぱり、」
やめようぜ。と言いかけた言葉は、声になる前に、喉の奥で固まって出てこなかった。
葛西はすでに、教卓の上に立ち上がっていた。
案外高さがあり、葛西はバランスを崩しかけてなんとか体勢を保った。手を伸ばせば天井に届きそうな高さだ。
「いえーい、大天使葛西サマ!」
「救って〜!」
背後から飛んできた大塚たちの笑い声が、不安を塗りつぶしていく。
そうだ、これはただの脱出ゲームのデモだ。葛西はただ真面目なだけだ。
それに葛西だって、瑠伊に褒められて嬉しそうだった。せめて笑おう。
「葛西、似合ってんぞー」
声をかけると葛西は小さく俯いてクスッと笑った。
ちらっと窓の方を見ると、志麻は相変わらず突っ伏したままだ。それに桐原もバカ騒ぎには加わらずに、窓の外を見ている。
葛西は照明の眩しさに目を細めて、相変わらず顔を上気させたまま、声を張った。
「えーっと……俺、葛西杏太は」
「葛西杏太はーっ?」
クラスメイトの合いの手に乗るように、葛西は照れながらも笑顔で言った。
「『天使』であることを宣言します」
西日はもうすっかり傾いて、葛西の足元をオレンジ色に照らしている。自分の足が、篝先生がコンコンと突いていたチョークの跡を踏んでいるのに気付き、葛西は慌てて足をどかした。




