#32 眉間
その日の夜出た課題は、何か変だった。
『悪魔は、こちらが抽出したクラスメイト1名の眉間を30回、人差し指の腹で叩いてください。』
それだけだった。
デコピン? ラッキーじゃん、よかったな志麻、とクラスメイトは口々に語り、志麻も拍子抜けしたような顔をした。
機械の音声が指名したのは、瑠伊だった。
「えー、痛いのやだなぁ」
瑠伊は、いつも通りの無邪気な顔で、照れくさそうに肩をすくめて笑ってみせた。
だけど。
ガタ、と鈍い音がして、瑠伊が腰掛けていた机が不自然に揺れた。
指先は小刻みに震えていて、瑠伊はそれを悟られないように強く、指先が真っ白になるまで握っているんだ。
「……瑠伊?」
隣にいた佐伯が不審そうに顔を覗き込む。
瑠伊は、いつもの人懐こい笑顔を浮かべているはずなのに、血の気が引いたように青ざめていた。大きく見開かれた瞳が、ガタガタと震えながらモニターを見上げている。
これは志麻を傷つけるための課題じゃない。
篝は、この課題で、瑠伊を壊そうとしているんだ。
理由は分からない。けれど、瑠伊の身体の硬直の仕方は異常だった。
「志麻くん、痛くしないでね」
瑠伊は祈りを捧げるように、志麻の前に膝をついた。
志麻は、柔らかい髪をそっとかき分けて、白くなだらかな丸みのある瑠伊の額を晒した。そしてゆっくり、親指の腹を瑠伊の額に合わせた。
トン、トン、トン、トン、トン。
志麻は、何か物でも数えるみたいに淡々と指を動かした。
素っ気ないリズムで、この不気味な儀式をなるべく控えめに終わらせようとしていた。
瑠伊も、名前を呼ばれた時より随分顔色が良くなっていて、どこか拍子抜けしたような顔で志麻を見上げている。
なんだこれ。
篝はなんでこんなことさせるんだ。
こんなの大したことないじゃないか。
それなのになんで心臓がバクバク鳴るんだろ。
トン、トン、トン、トン、トン。
9回目で瑠伊の口角が僅かに引き攣った。
それでも瑠伊は笑ってる。
いつもと同じ可愛い顔で。
トン、トン、トン、トン、トン。
瑠伊の額に玉のような汗がびっしり滲んでいる。
それでも瑠伊は笑顔を貼り付けたままだ。
瑠伊。
かわいい瑠伊。
洋食屋に行くと必ず、ホットケーキを頼む瑠伊。
ラーメン屋に行くと必ず、熱いだのしょっぱいだの文句言う瑠伊。
食べるの遅い瑠伊。
シャトルラン雑魚すぎる瑠伊。
なのに言い訳する瑠伊。
カラオケ行くといちばんにマイク握ってちょっと音痴なアニソン歌う瑠伊。
俺の不幸を笑う瑠伊。
シャワーを怖がる瑠伊。
瑠伊が何を隠してるのか、本当はどんなやつなのか、俺は知らないけど。
でも、俺が見てきた瑠伊は、瑠伊がなんて言おうと、本当の瑠伊だよ。
だって人は、嘘泣きはできても、嘘笑い泣きはできないでしょ。
お腹抱えて笑ってた瑠伊は本物でしょ。
志麻は瑠伊の異変に気づいているのか、動かす指の速度を早めていた。
「う…………」
20回目を過ぎた時、瑠伊が小さい声を出した。
確かに口角は上がっているのに、瞳孔が開いている。
クラスの空気が張り詰めた。
それが瑠伊にも伝わっているのか、茶色い瞳がガタガタ動いている。
「うっ……うあ……!!」
聞いたことない声で呻いて。
そこから瑠伊は一気に崩れ始めた。
まず瞳が急速に上を向いた。それから目からポタポタと涙がこぼれた。瑠伊の意に反してあふれているように見えた。
瑠伊は何かぶつぶつ譫言を言っている。
蚊の鳴くような小さい声は、たぶんクラスの奴らには届いていない。
でも確かに言った。
先生、って。
志麻の手が迷っているように瑠伊の額の上を彷徨う。
志麻自身も青ざめていて、手も震えていた。
志麻の指は、ほんのわずかな力でしかないはずだ。それなのに瑠伊はもう立っていられないようで、その場で後ろに倒れそうになった。
支えなきゃ、と俺の体が動く前に、瑠伊の華奢な身体をでかい柱が支えた。
桐原だ。
瑠伊の肩を後ろから支えて、生贄を悪魔に捧げる儀式のように、志麻に瑠伊を差し出していた。
桐原の眉間にはぐっと皺が寄っていた。苦しんでいるようにも、怒っているようにも、無表情のようにも見えた。
このまま叩き続けたら瑠伊がどうなるかなんて、考えたくもなかった。
志麻も何かに気づいたように、最後の3回を、リズムを崩して叩いた。
嬌声とも悲鳴とも取れる声を漏らして、瑠伊は桐原の腕の中でガタガタ震えた。失神するかもしれない、と思ったけれど、瑠伊は開きっぱなしになっていた奥歯をギリギリ噛み締めて耐えた。
大塚も佐伯も南雲も、葛西と千秋ですら、瑠伊に釘付けだった。
瑠伊のことをどう思ってるのかまでは、わからない。
でも誰も何も口にできなかった。
桐原が小さく瑠伊の名前を呼んだ。
桐原にしては弱々しい声だった。
瑠伊ははっとしたような顔になると桐原のことを力いっぱい押し退けて、あーあ、と声を出して笑った。
あーあ。雨降ってきちゃった。
僕今日傘忘れちゃったよ。
の、あーあ。だった。
「びっくりした。志麻くん、なんか怖い顔してたから、僕どうにかなっちゃうのかと思った。怖かったぁ!」
瑠伊はにっこり微笑んで、額を何度か撫でてから手で前髪を直した。
「ぼさぼさになってない? 志麻くん」
「え…………あ、うん……」
志麻は目をぐるぐる狼狽えさせながら頷いた。
「ほんと? よかったあ」
ちょっと顔を赤らめてみせる。
「なんだよ瑠伊、びびらせんなって」
「マジ怖かったー」
そう言って肩を撫で下ろしている大塚や佐伯に歯を見せて笑って。
瑠伊はそれから俺を見た。
「志麻くんって優しいね」
瑠伊は安堵で弛緩していく教室で、俺と志麻と、瑠伊の隣にいる桐原くらいにしか聞こえない声で言った。
「僕がおかしくならないようにしてくれたでしょ」
「…………瑠伊、」
志麻が躊躇いがちに口を開くと、瑠伊はくるりと俺たちに背を向けた。
そして一言ずつ、はっきりと言った。
「志麻くんが『悪魔』だなんて、信じられないなぁ!」
ひゅ、と志麻が息を呑んだ。
瑠伊は知ってるんだ。
志麻が天使だって。
咄嗟に志麻の前に一歩出た。
舌の奥でいつか瑠伊がおごってくれたいちごオレの甘さを思い出して、すぐ苦味に変わっていった。
桐原が曇った目で瑠伊の後ろ姿を見ていた。
そしてまた長い夜が訪れる。




