#33 閻魔様
「先生!!! どういうこと!?」
瑠伊のひっくり返った怒声にも、篝は眉ひとつ動かさなかった。
薄型の私用パソコンから目を離さず、何か作業をしたままだ。
「ノックくらいしなさい」
そこにいつもの甘さはない。
生徒を嗜める担任の声そのものだった。
瑠伊はそれでも怯まなかった。
怒りに顔を赤くして、篝のパソコンをぐいと掴む。
「なんであんな課題出したのっ!? 僕こんなにっ……こんなに先生のために……!!」
子供のように息を荒げて癇癪を起こす瑠伊を、篝はようやく見上げた。
銀縁の眼鏡の奥に瞳は、怒ってもいなければ、呆れてもいない。
ただ、完全に無関心だった。
「僕のために?」
篝は静かに立ち上がると、瑠伊の細い手首を掴み、そのまま引き寄せてソファに腰掛けた。
力無くよろめいた瑠伊を、いつものように自分の膝の上に収める。
いつもの先生だ。
目を細めて、慈しむみたいに僕の髪をすいてくれる。
感情的になっていたことが途端に恥ずかしくなるけれど、引き下がらなかった。
同時に、全てを見透かすその瞳に縫い留められたように、瑠伊は視線を逸らすことができなくなった。
「僕のために、瑠伊は何をしてくれたんだ?」
「……、それは、……」
「君は随分迷っていたように見えたけれど」
「違うっ、そんなんじゃない、あの時は……お父さんのこと、思い出して……っ」
「おや」
篝は眉を吊り上げた。
ひく、と小さく喉を鳴らして、瑠伊は沈黙に震えていた。
「それは可哀想に」
篝は瑠伊の頭頂を撫で、後頭部を撫で、首の後ろを支え、それから背骨をさすった。
友達の輪にうまく混じれなかった時。
大切にしていたおもちゃを壊してしまった時。
テストの点がとれずに母親に叱られた時。
決まって父は瑠伊の背中を撫でた。
篝の骨ばった手は、父の手によく似ていた。
瑠伊の両目からは、意識せず涙が溢れていた。
篝は何も言わずに背中を摩り続けた。
「…………先生…………」
瑠伊の声は嗚咽に混じって消えそうだった。
篝の手は下降し、やがて瑠伊の仙骨のあたりで止まった。
学ランの上から、強くも弱くもない力で手が押し付けられると、ゾワゾワと虫が這うような気味の悪い感覚とともに、逃げようのない甘い疼きが瑠伊の体に走った。
初めて眉間に触れられた時と、同じ感覚だった。
「ん……先生…………?」
「瑠伊、舌を出して」
先生は僕の目を覗き込みながらそう言った。
先生の声は低くて甘くて、穏やかだった。
キス、してくれるんだ。
慰めてくれるんだ、僕のこと。
僕こんなに怒ってるのに。
そんな優しい顔されたら、応じるしかないじゃないか。
瑠伊は少しだけ唇を尖らせて、拗ねたフリをした。
そして困ったような顔で微笑む篝を見上げると、素直に口を開けて赤く湿った舌を出した。
先生が僕を求めてくれるなら。
僕は何を手放しても、いいんだ。
瑠伊は目を閉じて、篝の舌を待った。
けれど、篝がもう片方の手で引き寄せたのは、灰皿の上で赤く燻っていたロングのシガローネだった。
「……?」
舌先に人のものではない熱が近づいていた。
キスじゃない。タバコだ。
篝の長い指が、瑠伊の後頭部を強固に固定する。
逃げ場を失った瑠伊の舌の先へ、じゅう、と容赦のない熱が押し付けられた。
「ッ、ん゛んんーーーーー!!!?? ぁ、っ、え゛あ、あぁっ!!!」
肉の焦げる嫌な臭い。脳天を突き抜ける激痛。
瑠伊は涙をボロボロと溢れさせ、身体を捩って暴れた。狂ったように首を振って逃げようとする。
けれど、細くて頼りないはずの篝の腕は瑠伊を締め付けて離さない。鉄の枷に絡め取られたように、瑠伊は動けなくなった。
大人の男の、圧倒的な力が瑠伊を組み伏せていた。
「瑠伊。嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれてしまうんだよ。なぜだかわかるかな?」
火が消えたタバコが舌から離れていく。
瑠伊は篝の肩に崩れ落ちるようにもたれた。
「それ以上、罪を重ねなくていいようにするためだよ。なんて慈悲深いんだろう? そう思わないか?」
先生が何を言っているのか理解できない。
言葉は聞こえるのに意味が入ってこない。
身体が恐怖でガタガタ震えている。
先生に、こんなことをされたことは、今までなかった。
「お前は、どんな醜い者にも赦しを与える、器の広いセラフにならなくてはいけないよ。そんなことでかっかしている暇はないということだ」
だって先生は、僕の心に空いた穴にたくさんの愛情を注いでくれて。
僕を特別なものとして愛してくれているのに。
どうしてこんなことするの。
篝は火の消えたタバコを灰皿に捨て置いて、空になった指先で右手の親指を、瑠伊の眉間へ伸ばした。
瑠伊の瞳孔は一瞬でカッと開き、全身の筋肉がかつてない勢いで硬直する。
「だめっ……!! だめ、だめ!! 触んないでっ!! やめて、と、と、トントンしないでっ、先生っ、先生っ、先生っ……お願いっ……」
瑠伊は恐怖に顔を歪め、引き攣った声をあげた。
これをされたら、また頭の中にあの極彩色の花火が上がる。思考が、記憶が、削り取られて真っ白になっていく。
僕は作り変えられるんだ。僕じゃない誰かに。
咄嗟に眉間を庇うように両手で覆った。
「いや……いやぁ……せんせ……さわ、さわんないで……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……」
「瑠伊」
先生の両手が、僕の手を包むように重なって。
いとも簡単に、僕の手を割って眉間に滑り込んできた。
「あ゛っ………!!!?」
閃光。
先生の指は、やっぱり志麻くんとは比べ物にならなかった。
「ほら、しっかり息をして」
瑠伊の体は電流が流れたように、くの字と反対方向に折れ曲がりそうになり、篝の左手が支えた。
「ふっ!! ふーっ……! ふー……っ?」
「そうそう。瑠伊は偉いね」
先生の親指が何度も何度も僕の額を撫でている。その度に頭の中の細胞が、ぷつん、ぷつん、と一個ずつつぶれていく感じがする。
頭の奥で、ぽん、ぽん、と、勝手に灯りがついく代わりに、大切な何かが消えていく感覚。
でも、何が消えていくっていうの。
僕にとって大切なものなんて、先生が、僕のことをみてくれる、これしかないのに。
「それで、僕のために何をしたって?」
「しっ…………しでなっ、なにもっ……ごめんなさいっ……しでません………っ」
「ああそう。よかったね、僕が閻魔様じゃなくて」
篝はくすくす笑った。
瑠伊は全身を細かく痙攣させて、唇からは唾液が泡になって溢れ始めていた。
それでも篝は、赤子を寝かしつけるような手つきを決して緩めなかった。
「志麻くんが犬を飼っているように、君にも立派なのがいるじゃないか。彼をもっと役に立てなさい」
「あ゛……っ、……ぁ、……?」
開きっぱなしの口をぱくぱくさせながら、瑠伊は目を一層見開いた。
「彼は、君のためにいくらでも傷ついてくれるだろう。そして主人の傷を喜んで舐める忠犬だ」
篤人くん。
あの濁った、僕を睨みつける強い瞳が脳裏をよぎった。けれど、先生の指が眉間をくるくると擦るたびに、その輪郭すら甘く霞んでいく。
篤人くんの優しい顔が、もう思い出せないよ。
先生は僕の額の上で指を滑らせて、扉を叩くみたいに、指の関節で、眉間を、コンコン叩いた。
赤、青、黄色、緑、金色、金色、金色、金色、金色の花火が、爛れたみたいにべっとり空に張り付いている、
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、
「瑠伊」
「ひゅっ……ぅ゛ーっ…!! ぉ……! お、っひゅ、……ぉ、おと……っお父さ……?」
「君の役目は何かな」
「っああ……し、しまくん……しまくん、……しまくんを……祭壇に…………」
コン、コン、コン
「んぎゃあああああっ!?!!」
「違う。君はセラフになるんだろう。志麻くんを祭壇に乗せる、そんなことは序の口に過ぎない。目的と目標を履き違えてはいけないよ」
「っああっ……うあ……っ、ご、ごご、ごめんなさいっごめんなさいっ……」
コン、コン、コン、コン
「っぎぃっ……!!!」
「セラフになる気がないのなら、ここの鍵は返しなさい」
す、と先生の指が僕のポケットをなぞった。
お父さんの形見のコインケースが、足にぐいと押しつけられる。
この鍵を失うこと。それは先生に……
……先生に、
いやだ。
置いていかないで。
お父さんみたいに、僕を置いて消えたりしないで。
「もし君が本当に僕の天使になってくれるなら、もう少し、こうしていてあげるよ」
先生はそう言って、僕の耳元に唇を寄せた。
シガローネから漂う、甘ったるいバニラの煙が、僕の焦げた舌の痛みを麻痺させていく。
先生。僕の世界のすべて。
「……なるよ、……ぼく、……天使に、……」
消え入りそうな声で瑠伊が言うと、篝は初めて、ほんとうに顔を綻ばせた。
瑠伊は、父親の不在による混乱も、母親のヒステリックな怒声も、幼馴染の瞳をぎらつかせる愛憎も届かない、温かい繭に包まれたような心地で篝を見上げていた。
篝は瑠伊の眉間から手を離すと、乱れた前髪を手ですいて、赤くなった額にキスをした。
慈愛に満ちた、聖母のようなキスだった。
全身からすべての力が抜け落ちた瑠伊を、篝はソファに横たえて、そのまま覆い被さった。
もう何も考えなくていい。
篤人くんが笑わなくなっちゃったことなんて、もう忘れちゃえばいい。
僕がどう愛されたいかなんて、そんな難しいことはもう手放してしまえばいい。
それなのに、あの日殺した金魚の顔が、目の奥に張り付いてとれない。
虚な目で口をぱくぱくあけているあの顔。
篤人くんが天国に連れて行けなかった金魚が一匹、僕の頭をずっと泳いでる。




