#30 献花
国語科準備室からもっとも近い階段を一番上まで登ると、文化祭で使う予定のない机や椅子が綺麗に並べられていた。
クラスがでかでかと書かれている段ボールには、完成された装飾が丁寧に仕舞われている。
机の上に腰掛ける僕の首元に、篤人くんが顔を埋めている。
大柄な影にすっぽり埋もれながら、僕は首を傾げた。
「篤人くんまたシャワー行ったの?潔癖だねえ」
篤人くんは黙って、僕の胸板に顔を移す。
学ランの金色のボタンに鼻が触れるのも厭わず、貪るように顔を押し付けている。
少し湿った短髪に、僕は頬を寄せた。
「あは、麻薬探知犬みたい」
「…………」
「かっこいいよって意味だよ」
「……ここ、残ってる」
ふいに篤人くんが離れてそう言った。
「あ、そう。ありがとう」
指摘された脇腹に、ポケットから出した小さな消臭スプレーをかけた。
慣れきった一連の動作から、篤人くんは目を逸らす。
その冷たい目が気に入らなかった。
「何?」
「……別に」
「言いたいことあるなら言って。匂わせるだけ匂わせるのってうざいよ」
篤人くんは眉間の皺を深くして僕を見下ろす。
頭一個分背の高い篤人くんが、やがて観念したように唸った。
「……あいつに会うな」
その答えがあまりに凡庸なのに、僕は思わず吹き出した。
同時に加虐心に火をつけた。
「どうしてそんなこと言うの?」
「…………」
「言えばいいのに、僕のことが好きだからって」
「いい加減にしろ」
言葉は強くても、声はわずかに震えていた。
僕は圧倒的な快楽に頬を綻ばせたまま、忠犬の頬に手を伸ばした。
「言いなよ、男が好きですって」
「そうじゃない」
「そうでしょ。言って、僕のこと好きだって」
「……………」
「言って」
硬く結ばれた唇が、わずかに開く。閉じる。そしてまた少しだけ開いた。
「……お前が憎いよ」
低く押し殺した声が、僕の背筋を震わせた。
それは、先生からも決して引き出すことができない、僕にとって最も甘い蜜だった。
「ふうん……」
もう片方の手も篤人くんのあたたかい頬に触れた。
「僕のせいなんだね」
苦し気に歪んだ篤人くんの瞳に、愉悦に満ちた僕の目が映っている。
篤人くんの大きな手は、乱暴な勢いで僕の後頭部を掴んだ。
「っ……」
息を呑む間もなく引き寄せられる。ぶつけるみたいに唇が重なった。理性のかけらもない、押し黙らせるための暴力に近かった。
肩がびくりと揺れても、篤人くんは逃がさなかった。
指が癖っ毛に深く沈み込む。痛いくらい強いのにその手は震えている。
時折ぶつかる舌はひどく熱をもっている。
いつどこに触れても、この男はうんざりするくらい熱い。
僕はこの熱さがたまらなく気持ち悪くて、好きだった。
鐘の音が鳴っても唇を離そうとしない篤人くんの胸を、どんと叩いて突き放した。
この人から僕に与えられるものは愛情だ。でも恋人のものではない。それでいい。それでいいはずなのに。
篤人くんは、もう僕を見る時に笑わない。
黒くほんのり濁った目で、苦しそうに僕を見るだけだ。
その目が、無性に腹立たしかった。
先生は13時きっかりに、また志麻くんに試練を課した。
僕たちは志麻くんの前に一列に並んでいた。
手には、それぞれ細長い針が一本ずつ握られている。
定規くらいの長さの、縫い針にしては異様に大きな針だ。
光に当たると金色に小さく輝いた。
これもきっと先生がいう「天啓」の聖具なんだろう。
まるで献花だ。
花束の代わりに針を持って、順番に志麻くんを傷つけに行くんだから。
先頭に立っているのは大塚明良だ。
明良はみんながやりやすいようにと、志麻くんのシャツとインナーを脱がせた。
志麻くんの背中には不気味な傷があった。
本当に悪魔だ、って誰かが言った。僕もそう思った。
なのにどうして先生はあの子が天使だって言うんだろう。
オゼ様ってどんな人なんだろう。
蓮司は志麻くんの側にいた。
必要以上に傷がつかないように参列者を睨みつけてる番犬だ。
二人の姿はよく見えないし、声も聞こえてこない。
加害者の声だけよく聞こえてくる。
呻きながら傷つける子もいれば、謝りながら傷つける子もいる。淡々と傷つける子もいた。
一歩、また一歩、列が進んでいく。
志麻くんに近づくにつれ、体が鉛みたいに重くなっていく。
本当は鐘の音も百合の匂いも、僕は先生に出会うもっと前から知ってる。
献花。
僕は。百合を持ってお父さんの棺に手向けた日のことを、思い出していた。
眠るように死んでいるなんてよく言うけど、あれは嘘だって、僕は初等部二年生のときに知った。
棺の中にいたお父さんはいつもに増して真っ白で、僕がお父さんを見つけた時と同じように、一目見て死んでるんだってよく分かった。
お父さんは首までピッタリボタンがあるシャツを着せられて、窮屈そうに花に囲まれていた。
お別れのご挨拶にキスをしなさい、っておばあちゃんに言われたけど、僕は死んだお父さんの冷たい肌に触れるのが怖くて、できなかった。親不孝だと思う、でももうそんなの、今更だよね。
篤人くんもあの時、お母さんと一緒にミサに来てくれた。篤人くんは慣れないカトリックの作法にも行儀よく従って、静かに僕のことを見ていた。傷ついている僕を見て、傷ついたみたいに泣いていた。
心に大きな風穴が空いた僕に、篤人くんは、あの年齢の子供ができること以上のことをしてくれたと思う。外に出られる日は一緒に公園に行ってくれた。篤人くんのラジコンカーを僕が気にいると、飽きるまで何日でも貸していてくれた。
会いたくないと言えば文句も言わずに帰って、家で遊びたいといえば学校の話なんかひとつもしないでただ一緒にいてくれた。
篤人くんはよく笑ってた。
でも幼い僕にとって、幼い篤人くんはただの、大切な友達でしかなかった。
「おい南雲っ」
僕の五つくらい前に並んでいた南雲侑吾が蓮司に吠えられている。何したんだろ。あの子、さっき興奮してたな。
南雲はくつくつ笑って、躓きながら離れていった。
その一個後ろは篤人くんだ。
躊躇うかな。今どんな顔してるのかな。考えるだけで太腿の傷がドクドク脈を打って痛む。
僕に言われて僕を傷つけた手で、僕が今一番手に入れたいものに傷をつけてくれるんだ。
ああ、見たいな。見たいな、篤人くんの顔。
篤人くんは淡々とお焼香を済ませるみたいに、潔く立ち上がって列から外れた。ちらりと見えるその顔は苦しそうですらない。
つまんない。
また一歩、志麻くんに近づく。もうあと二人。
志麻くんより苦しそうな蓮司の顔が目に入った。
蓮司はここ数日で変わったと思う。
明良や洋二郎とおんなじように、僕にとっては蓮司も、分かりやすい関係の中で分かりやすく生きている短絡的な人間の一人だった。
本当に志麻くんのこと好きなんだな。
でも、だから何。
そんなペラペラの友情愛情が何になるの。
僕蓮司のこと結構、本当に好きだったのにな。屈託がなくて、素直で、かわいい。友達と思ってもよかったのにな。
でも冷めちゃった。ヒーローごっこが寒すぎて。
僕にとっての篤人くん。
志麻くんにとっての蓮司。
もし僕の幼馴染が蓮司だったら、君は僕のことどうやって愛してくれてたの。
君は篤人くんみたいに僕の深いところまで愛してはくれなかっただろうけど、きっと篤人くんみたいな間違いはしなかった。
僕の一つ前に並んでいた子は、志麻くんの肩に横一本、一円玉くらいの傷を震える手でつけた。
志麻くんは何も言わないで耐えている。蓮司は歯を食いしばってる。
見てるだけなら、傷つけてるのと一緒だよ。
蓮司、君は志麻くんを傷つけるしかないんだよ。
君も最後にはその針を持って、志麻くんに傷をつけないと、いつまでも僕たちは解放されないんだよ。
先生は、志麻くんが壇上にあがらない限り、絶対に許してくれない。
このクラスのことも、僕のことも。
針を握る手に力を入れた。折るつもりで握っていないと、この軽い針はすぐに滑り落ちてしまいそうだった。
前の子がどいた。志麻くんの前に一歩出る。
見えない先生の手が、針を持つ右手をそっと握ってくれる。
――さあ瑠伊、君の出番だよ。
先生。先生の声がする。
先生の声はお父さんの声とは、本当は全然違う。
俯いて膝を折っている志麻くんの背中に近づいた。
この人はセラフだ。
オゼ様の血が流れてるセラフだ。
先生はセラフの血を僕に分けてくれるって言った。
志麻くんの背中からじわじわ溢れている血を、僕は欲しがらないといけない。
教会のパイプオルガンの音が遠くで聞こえる。
百合の花の匂いがする。
篤人くんが泣いてる。
「瑠伊」
誰かが僕の名前を呼んでいる。
慌てて針を握り直す。
先生がものすごい力で僕の手を押さえつけて、志麻くんの背中まで針を運ぶ。
志麻くんの血。
そんなもの僕、本当に欲しかったんだっけ。
僕が本当に欲しかったのはなんだっけ。
篤人くん。そんな目で見ないでよ。
見ないで。その怖い目やめて。
やめて。
「瑠伊」
聞き慣れた間抜けな声が、僕の頭を撃ち抜いた。
カランと小さい音を立てて針が落ちた。
あ。
一回、二回、三回目でようやく爪が針を拾い上げた。
針を持つ右の拳に、左手をぎゅっと添えた。
項垂れている首をめがけたのに、針が掠めたのは志麻くんの肩だった。
ぴ、と皮膚の一部をほんのわずかに弾いて、小さな傷ができた。
志麻くんは身じろぎひとつしないでゆっくり呼吸をしていた。
血は出なかった。
立ち上がると蓮司と目があった。
その目やめて。僕を理解しようとしないで。
「最後は蓮司だね」
そう言って笑うと、蓮司は小さく頷いて、志麻くんの正面に回った。
そして両手で志麻くんの頬を包み込んだ。
何してんのこの人。キスでもするつもり。
蓮司は志麻くんに少しだけ笑いかけて、志麻くんにしか聞こえない声で何か言った。
針を握って、志麻くんの右の耳たぶを針の先で弾いた。
それから自分の右の耳の同じ場所に、同じような傷をつけた。
「何してんの」
篤人くんの前でしか出さない声が出た。
蓮司は目を見開いて、それから穏やかに笑ってみせた。
「痛み分け。一緒にピアス開けんだ、いつか」
は?
この期に及んで何言ってるの。
19人分の傷を背負った志麻くんが立ち上がる。
こんなにぼろぼろなのに、蓮司と同じ目をしてる。
ああ、志麻くんは本当に天使なんだ。
そう思うと同時に、蓮司が隣にいる限り、志麻くんは絶対に祭壇に上がらないということが、はっきりわかった。
どうしたらいいの。先生。
「蓮司、両思いになれたんだね」
気をつけていても、いつもの声がうまく出せなくなっていた。
蓮司は今度は驚かなかった。
「……うん」
「よかった」
試練達成のアナウンスが鳴る。
20ポイント付与される。
もうすぐ先生は、きっとこのつまらないゲームを終わらせる。
志麻くんが100取ったら、先生は僕を切る。
そして別の手で志麻くんをセラフにする。
僕はもう先生の天使じゃいられなくなる。
先生がいる準備室に足が向きかけて、やめた。代わりに篤人くんに目配せをすると、篤人くんは忌々しそうに俯いた。




