#29 百合
朝の10時に鐘が鳴った。
天使は今日も名乗り出ない。
当たり前だ。名乗らせてたまるかよ。
結局俺は、篝が黒ってところに気付けたのに、それ以上なんの証拠も掴むことができなかった。
みんなにこのこと言おうって言うと、志麻は首を横に振った。
「もし篝がアイムだったら。クラス全員が気づいたところで俺たちには何にもできない。ここに閉じ込められてるっていうのに何の助けもないんだ、外に完璧に根回ししてるんだぞ。何も気づいてないふりを続けよう」
「それに教団は俺を殺せない。俺が悪魔でさえいれば、教団は俺の身体にひどい傷がつく課題も出せなければ、葛西みたいに脳みそごとぶっ壊すこともできない。心配すんなよ」
志麻はそう言ったけど。
そうかなぁ。そうなのかなぁ、本当に。
佐伯は俺を見るとあからさまに睨みつけてきた。
「かっこつけて逃げた割に、悪魔役はやらせるんだ?」
嘲笑う佐伯の声に、ぎゅっと拳を握って耐える。
瑠伊は佐伯をなだめながら、ちらりとこっちを見てくる。
あの時の瑠伊が思い出されて、俺の方から目を逸らした。
教室の隅では葛西が、8時に支給された朝食をいまだに千秋に食べさせていた。
スプーンを握る手を、加減も考えずに千秋の口の中に米を押し込んでは口内を覗き込んでいる。
二人の足元には四枚、五枚と、空になった皿が転がっている。
千秋は時折えずきながらもニコニコ笑っていた。
背筋がゾワっとする。
殺伐とした教室の中で、この二人の周りだけが花畑でピクニックしてるみたいだ。
千秋、こんなんだったっけ。
昨日まで泣いてなかったっけ。
後ろのドアが開いて桐原が入ってきた。シャワー室のシャンプーの匂い。短い髪がまだ濡れていた。
でも桐原も、なんか目が冷たくなってきてる。
桐原の魅力がどこか恐ろしいものみたいに思えてくる。
桐原に駆け寄ったのは南雲だった。
「……どこ行ってたの」
「別に、シャワーだよ」
桐原は南雲の方を見もしなかった。
「なんで俺のこと置いてくの」
「……? なんでって……」
「勝手にどっか行ったりすんなよ」
「……俺がお前を待つ理由ってなんかあったか」
うわ。言ったなぁ桐原。
南雲は明らかにショックを受けたような顔をして息を呑んでいた。
口を何回かパクパクさせたけど言葉は出てこなかった。
全員揃ったのを待っていたように、自動音声はなんのためらいもなく、悪魔への課題を宣告した。
『悪魔は、用意された花を食し、全て胃の中におさめてください。』
志麻の喉がひく、と引き攣るように動いた。
みんなで指示された教室に移ると、教卓の上には古臭いくもったガラスの花瓶。
そこに大ぶりの白い百合が生けてあった。
たった一輪。それなのに、教室はむせ返るような百合の匂いでいっぱいだ。
百合を見つめて立ち尽くす志麻の背中に触れた。傷に触れないような位置に。志麻の背中は汗をかいていてペタッとシャツが背骨にくっついた。
「志麻……」
志麻は視線を動かさずこちらを見なかった。代わりに誰にも気づかれないようなささやかな動きで、一度だけ俺の裾に触れた。
「……平気」
小さな声でそう言って、志麻はちょっとだけ笑った。こういう時にカッコつけんなよ。
志麻の指先が百合を掴んだ。
花瓶から引き抜くと、ぼたぼたと水が滴った。
真っ白な百合を抱き抱えるように、志麻は百合を凝視した。
ごく、と志麻の喉が鳴る。まつ毛が震えている。
志麻はゆっくり唇を開けて、百合の花弁を噛んだ。
時間をかけて花弁一枚食い終わったところで、転校生は顔を青くして項垂れた。
「どうした志麻ぁ」
「なぁ、調理室から醤油もってきてやろっか?」
「百合にセップン、だろ? またビビっちゃった?」
「うるせえな!! お前ら黙れよ!!」
堺蓮司が吠えると、軽口を叩いてた奴等はくすくす笑いながら顔を見合わせて黙った。
あいつ本当に犬みたいだから本能的に嫌いだ。
喋るたびにでかい口から牙みたいな八重歯がのぞいてて気持ち悪い。
それだけで食物連鎖のピラミッドで上にいますよって示してるみたいだ。
こんな学校通えるくらい余裕あるなら金払って直せばいいのに。
堺蓮司は誰にでも人当たりがいい、みたいなこと桐原は言ってたけど。
現実は違うよ。
俺のことなんて見ちゃいない、文化祭の飾り作ってくれる便利な下働きだとしか思ってない、舞台を作るのは俺たち下賤、舞台に立つのはあいつら一軍。ふざけんなよ。
でもほら、このわけわかんないデスゲームで無事暴かれましたね。志麻とかいう不気味な転校生に執着して輪を掻き乱す自分勝手な奴ってこと。お前も大塚明良とおんなじで、でかい面してるくせに中身は何にもないーーいや大塚よりタチ悪いか。ナルシストな上にエゴイストなんだもん。
あーあ、気持ちいいわ。お前らが勝手に醜い喧嘩していくの。あーあ、かわいそうな志麻。でもこいつもひどい悪人なんだから裁かれて当然でしょ。
ようやく2枚目の花弁を口の中に詰め込んで、下を向いて一点を見つめている志麻の横顔がよく見えた。
3枚目、志麻の目は血走っている。胃が不快感に気づく前にどんどん食べた方がいいのにペースは格段に落ちている。バカだなああいつ。そのメソメソした感じにすら腹が立つ、早くやることやって帰らせてくんないかな。明日から始まる夏クールのアニメ多いんだけど。
4枚目に唇が触れると志麻はとうとう耐えきれなくなったように口元を押さえた。
「っ、ぅ……」
喉が痙攣している。青白い指先が震え、百合を持つ手から赤い花粉がぱらぱらと落ちて志麻の足元を汚した。
「おい志麻」
堺蓮司が一歩前に出る。志麻は首を横に振った。次の瞬間、志麻は激しく咳き込んだ。
「うぇ゛、っ……ご、ほっ……!」
うわ最悪気持ち悪い。思わず足を引っ込めて後ろに下がった。
志麻の細い肩が過呼吸でも起こしそうなくらい何度も上下する。重たそうな睫毛に涙が滲み、喉奥からえずきがせり上がっている。白い百合の匂いと胃液の酸っぱい臭気が混ざって、教室が気持ち悪いほど甘ったるい。一昨日ゲロったこと思い出して最悪。
「うわ、きったね」
誰かが笑った。俺もそう思ったから口角が上がった。どーすんのこれ。吐瀉物食わないといけないんじゃないの。
志麻はどうせ泣き出して、ナヨナヨしながら百合を食う。それを俺たちのせいみたいに堺蓮司が怒鳴り散らして八つ当たり。どう、俺の予想。
「志麻……!」
堺蓮司が志麻の背中をさすってる。あいつ今脳汁出まくってんだろうな。志麻の立場にもなってみろよ、自分の気持ちよさのために踏み台にされてるようなもんだよ。はい、これで志麻が「れんじ♡」とか言って泣き始める。勝手にBLやってろよホモ野郎。
でも違った。
志麻は奥歯をギリギリ噛み締めて、指先が白くなるまで百合の茎を握りしめていた。
なにその顔。背筋がゾワゾワする。
志麻は堺蓮司に顔も向けずに黙って5枚目の花弁を噛みちぎった。咀嚼するたびに志麻の唇に透明な液体が滲み喉が上下している。
ああ、なんだっけこれ。魔女狩りみたいだ。自分の潔白を証明するためにおとなしく炎に焼かれてる魔女みたいに、志麻は恨みをかかえてこの理不尽に耐えようとしてるんだ。
志麻は低い声で唸りながらも花を無理やり飲み込んでいく。ごく、という大きな音に紛れて自分も唾を飲み込んだ。
気づけば誰も囃し立てるやつはいなかった。俺も志麻から目を離せなくなっていた。
志麻の白い喉が苦しそうに上下している。噛み潰された花びらが、唾液と一緒にぬるく口内に貼りついているのが見ているだけで伝わってくる。時折えずいている。
気持ち悪い。気持ち悪いのに、目が離せない。志麻は崩れ落ちそうなのに崩れ落ちない。ぐちゃぐちゃに辱められてるのになんでこんなに、こんなに……ああなんだろうこれ。
志麻の青白い顔。仄暗い目。バラバラになった百合。
ああ。
なるほどね。
美しいんだ。綺麗なんだ、今の志麻って。
それに気づいた途端脳天に電撃が走ったように全身が痺れた。
俺は今すぐ美術室に篭ってこれを描かなきゃいけない。出来のいい弟ばっかり褒めて俺のことなんて見もしない両親にも、俺のこと弱者認定して貶めてくるクラスのクズたちにも、せっかく一緒にいてやったのに手振り払ってきた桐原にも。あいつら全員見返すための強烈な一手。
志麻が全ての花びらを食い終わり、残った花を口に迎え入れた。
めしべから茎の端までが一本の剣のように見える。殉教だ。聖職者だ。苦痛に顔を歪めて、体は嫌悪感による汗と震えが止まらない。それでも志麻は何かを憎むように、何かを証明するように、喉に百合を突き立てている。
志麻を凝視しながら後ずさった。
手汗でぬかるむ俺の指先が、自然と構図を決めるように忙しなく空を動いている。
ふと志麻の奥から射抜かれるような視線を感じた。
視線を移すと清水瑠伊がこちらを見ていた。あの清水瑠伊が俺のこと見てる。なんで。
清水瑠伊は心配そうに顔を歪めていた。志麻の惨状にこの善良な市民は耐えられないんだろう。堺蓮司とちがってこいつは賢いから文句は言わないけど、それがかえって葛藤を生んでるんだろう。
清水瑠伊は俺と目が合うと八の字になっていた眉をゆっくり上げていつもの位置に戻した。そしてゆっくり笑って見せた。俺の喉が空気を飲み込んだ。
鐘が鳴った。
『おめでとうございます。試練の達成を確認しました』
気づけば志麻は跪いて、吐いてしまったものまで全て飲み込んでいた。ぜえぜえ呼吸する志麻を全員で黙って囲っていた。いや、堺蓮司だけが志麻に寄り添うように崩れ落ちている。こいつは母親を焼かれてしまった子供だ。ポイントを映し出すモニターを激しい憎悪で睨みつけている。こいつらだけが唯一まともで唯一異常だ。
愛情。憐憫。思慕。憧憬。慈愛。結束。熱情。信頼。献身。妄執。共鳴。依存。渇望。忠誠。庇護。贖罪。狂信。陶酔。欲情。崇拝。全部抱えて二人は双頭の化け物みたいになっている。
自動音声が、20ポイントの付与を告げた。ポイントがモニターに反映されるのを待たずに、なだれるように教室を飛び出した。ちらっと桐原のことを見たけれど桐原はまっすぐ清水瑠伊のことを見ていた。なにあいつ気持ち悪い。
でももうどうでもいい。俺は今描かないといけない、今すぐ、今すぐ、今見たままのことを。
猫に追われるネズミのような足取りで、南雲侑吾は何度も転びながら美術室に向かっていた。




