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#28 天国

朝六時、二年二組の教室で目を覚ます。

いつの間にここに戻っていたのか、見当もつかない。

うすら寒さを覚えながらも、どこか安心したみたいな顔で寝ているクラスメイト達を起こさないように教室を出て、僕は真っすぐ武道場に向かった。


ドン、ドン、ドン、と規則的な重たい音が、薄暗い武道場に静かに響いている。

鍵が閉まっているんじゃないかと思うくらい固い扉をこじ開けても、その音は止まなかった。

真っ白い道着を着た桐原篤人は、僕の方を見向きもしないで打ち込みを続けた。それなのに僕が畳に上がろうとするとぴたりと動きを止めた。


「ここには来るなって言っただろ」


叱るみたいな低い声に、思わず肩をすくめる。


「だって、起きたらいないからさ。寂しかったんだもん」


ゆっくり瞬きしながら言うと、篤人くんは嫌そうに顔をしかめた。


「……すぐ行くから先行けよ」

「やったあ」


それならこんな埃臭い場所に用事はない。

僕はそのまま篤人くんに手を振って、武道場を出た。

扉は閉めなかった。重たいんだもん。



柔道部の部室は僕と篤人くん以外誰も出入りをしない。

持ち主の分からない荷物や使わなくなった学校の備品がたくさん置かれている。

色褪せた賞状や卑猥な落書きだらけの壁は、一部がぶち抜かれていて、隣の剣道部の部室につながっている。

剣道部はもう何年も前に廃部になっていて、外鍵は閉められたままだけど、境界を橋渡しするように山積みにされていている畳をよじ登れば、簡単に入ることができた。


誰も立ち寄らない。解体の日まで、このままにしておこうとでもいうように、無いものみたいに扱われている部屋だった。


汚れると分かっていて、靴も靴下も脱いで、畳を乗り越える。

掃除していないから、ざら、と砂埃を足裏に感じた。


使われなくなった机に浅く腰かけて、足をゆらゆら揺らしながら篤人くんを待った。

そんなに待たないうちに、柔道部側のドアノブを開ける音が聞こえた。


篤人くんは畳を軽々超えて、大きい身体を音を立てずに着地させる。

狩に慣れてる猛獣みたいだ。


「練習もういいの?」


何事もなかったように制服に身を包んでいた。篤人くんは僕の質問には答えずに、今日初めて僕のことをちゃんと見た。

いつもよりギラついた目に口元が綻ぶ。


篤人くんは鼻を少しだけ動かして顔をしかめた。


「あいつのところ行ったのか」


……ああ、つまんない。そんなことか。


「篤人くん、見て」


僕も篤人くんの質問には答えない。

両手を後ろについて、足を投げ出して、立ち尽くす篤人くんに足裏を差し出した。

埃をかぶったボロ机が、ギイと不穏な音を立てて軋む。


「汚れちゃった」


篤人くんは本当に小さいため息を一つ吐いた。



部室の隅にある水垢まみれの簡単な水道で、篤人くんは綺麗に折りたたまれた水色のハンカチを濡らした。

篤人くんは毎日一時間かけて武道場の掃除をするのに、この部屋の掃除は諦めたみたいにしない。

僕の足の先に跪いたスラックスが、白く汚れていく。


節のある大きな左手で僕の足首を掴んで、右手に握ったハンカチで、親指を包み込むように拭き始めた。


「今日はハンカチなの」


飼っている大型犬を撫でるように、篤人くんの短く切られた黒髪を梳いた。

刈り上げられた頸に触れると、やわらかい芝生のような心地で気持ちがいい。


「舐めてくれてもいいのに。この前みたいにさ」


顔を近づけて吐息混じりにそう言っても、彼は端正な眉をぴくりとも動かさない。

黙々と手を動かして、指の間も土踏まずも丁寧に拭ってくれる。

もう少し反応をくれてもいいのに。


「篤人くんはよく眠れた?」

「…………」

「僕は眠れなかったよ。蓮司が心配でさ」

「…………」

「でも聞いて。眠れないって言ったら、洋二郎がちゅーしてくれたんだよ」


ギロ、と篤人くんの黒目が動いて僕を捉えた。


こんな関係を続けてから、篤人くんは僕が嘘をつくときのほんの小さな機微をくみ取って見抜けるようになっていた。

肉親すら見抜けない嘘を簡単に暴いてくれる、少しだけ曇った篤人くんの目が好きだ。

篤人くんは嘘を見抜いても、嘘だろ、なんて口にはしない。

必ず僕の目を見てくるんだ。


それに篤人くんは僕がお願いすることを何でもやってくれる。

本当になんだってやってくれる。

もっと幼かったある日、真っ白な泡で満たされた水槽の前で、僕の罪を無言で飲み干してくれた時からずっと。

喉の奥で鳴るこの濁ってしまった声も、足の裏についた嘘の汚れも、篤人くんが触れば全部「なかったこと」になる。


「……篤人くん」

「ん」

「あの日の金魚、篤人くんはどこにやっちゃったの」


僕の問いかけに、篤人くんは手の動きを止めなかった。

その代わり、ハンカチ越しに伝わる大きな指に、一瞬だけ力が入るのが分かった。


やがて篤人くんは僕の足を、陶器を置くように慎重な手つきで僕のもとへ戻した。

それから膝の埃を払ってゆっくり立ち上がる。


篤人くんの大人みたいな骨格が、わずかにもれる朝日を受けて大きな影を作っていた。

唇をわずかに開いた篤人くんを、期待を込めて見上げる。


「天国」


感情を削ぎ落した、低く、硬い声だった。

救いもなければ、弁明でもない、皮肉ですらない。

淡々と事実を述べるような言葉だった。


「……。あは! 最高」


こらえきれずに噴き出した。

警官の息子が、洗剤の海に溺れて死んだ金魚の行き先を、「天国」だと言い切った。

そのあまりにも美しく白々しい嘘が、僕の胸をこの上ない全能感で満たしていった。


僕はすっかり気分がよくなって、スラックスのポケットに潜ませていたカッターナイフを取り出した。

使い古した、銀色のボディのカッターだ。

墓地のように静まった室内に、カチカチ、と刃を繰り出す乾いた音が響く。

ぽき、と小気味の良い音をたてて古い刃を折った。


「はい」


古い刃が、軽い金属音を立てて薄汚いコンクリートに転がる。

割った板チョコを子供に譲ってやるのと同じ気持ちで、篤人くんの前にカッターの持ち手を突き付けた。


「……瑠伊」


低い声がわずかに沈む。

大きな手のひらに、僕の体温が残るカッターを握らせる。


「志麻くんにみんなであんなことさせて。つらいんだ、僕」


瞬きをして目を潤ませる僕を、篤人くんは見下ろした。

嘘を見抜いた時の、濁った黒い瞳で。

穏やかな海のようだった目が、忌々しそうに細められている。


篤人くんの手がカッターを握った。

僕は覗き込むように彼の瞳から目を離さず、空になった両手でベルトを外した。

机に腰かけたまま器用に身をよじると、スラックスが重さで足元に落ちていく。


「慰めてよ、僕のこと」


そう言って僕は机の端をつかんで、上体の重心を後ろにもっていく。

ずいと突き出した太ももには白く痕になった線が無数に残っている。

ひとりでつけたもの。

僕が篤人くんの前でつけたもの。

いちばん新しい、真っすぐにつけられた傷は、篤人くんにつけさせたものだ。


「……今日ここがいい、ここ。お願い」


下着の裾を指先で少しだけ持ち上げ、まだ傷のついていないまっさらな肌を篤人くんにさらした。


「……、……」


篤人くんは呼吸を止め、観念したように僕の足の間に跪いた。


「下着もズボンも、汚れないようにね。……ちゃんと狙ってね、篤人くん」


僕を支える熱い手は、さっきと違ってわずかに震えていた。


「んふふ」


くすぐったい。僕、篤人くんの手のひらが好きだ。

大きくて、関節がでこぼこしていて、まめが何度もつぶれて硬くなった手のひら。

痛みで僕が逃げないように、あるいは自分が傷つけやすいように、強い力で押し付けている。


篤人くんはもう片方の手でカッターを握り直し、僕が望んだ場所に刃先を添えた。


「……痛かったら言えよ」

「あはは、痛いに決まってるでしょ。いいんだよ、そんなこと」


目を細めて、自分の肉に銀色の刃が沈みこんでいく瞬間を凝視する。

篤人くんは睨みつけるように、それでいてメスを握る医者みたいに淡々と、指先に力を入れた。


ぷつ、と皮膚が裂けるわずかな音がする。

一拍遅れて鮮やかな紅い珠が生まれ、雫になって垂れていく。

そのまま真っすぐ刃が動くと、僕の足の筋肉は一度こわばる。


「……っ、あ……」


肺の奥から熱い吐息が漏れる。痛みに身をよじるが、刃先がまだ肌の上に引っかかっているためか篤人くんの手がそれを許さない。

それでもなんとかもがくけれど、足の下で引っかかっているスラックスが拘束具のようになって、抵抗する動きを鈍くした。


やがて傷から血がたらたらと流れていく。

これは僕の中のドロドロした黒い膿だ。

桐原篤人という、僕の悪意の半身を介してでないとこの膿は出せないんだ。


「動くなよ」


叱りつけるような低い声で篤人くんは言った。

僕を押さえつける指が一層強くなる。

短く切られた爪が僕の膝裏に強くめり込んでいるのに、篤人くんは気づいていないようだった。

強く奥歯を噛んで、耐えている顔をしている。


何その顔。笑わせないでよ。


篤人くんは、僕に一度も好きだなんて言ったことはない。

それどころか、僕に触れる指先はいつも硬くて、冷たい目をしている。


でも、僕は知っている。



初等部4年の秋、教室で飼っていた金魚の水槽に、僕は洗剤を流し込んで金魚を殺した。

口をパクパクさせて毒を飲み込んでいくしかない金魚を眺め、事切れて浮かんできた金魚を指で押し込んで沈めて、浮袋のように戻ってくる様を見ていた。


振り返ると、誰もいなかったはずの教室に篤人くんがいて、僕のことを見ていた。

それまでの篤人くんにとって僕は、喘息もちで父親がいない、守るべき、『かわいそうな幼馴染』だったはずだ。

だって篤人くんは目を見開いて、すごく傷ついたような顔をしていたから。


篤人くんは逃げるようにその場からいなくなってしまって、僕はその日怖くて眠れなかった。

終わった。僕の汚いところ、篤人くんに見られちゃった。篤人くんのお父さん、お巡りさんなのに。篤人くんは正義の味方だから、きっと僕のことを許さない。


でも、違った。

翌日教室に行くと金魚の死体がなくなっていた。

泡だらけだった水槽の水は真水に取り替えられていた。

僕が想像していたようなクラスメイトの混乱はなかった。

金魚、いないね、猫に食べられちゃったのかな? 優しいクラスメイトが気の毒そうに話題にして、それきりだった。


篤人くんはもう教室にいて、本を読んでいた。

呆然と篤人くんの方を見ていると彼は顔を上げて、僕の目を見た。

僕が教室に来るのを、ずっと本を読むふりして待っていたみたいに。


篤人くんの目は、正義の味方の目じゃなくなっていた。

それは僕の中の黒い膿を一滴吸い込んで曇った、黒い瞳だった。


ああ、篤人くんは、篤人くんがいちばん大切にしていたものを僕にくれたんだ。

これが愛じゃないならなんだろう?

僕にはわからない。



僕がやめろと言わないから、篤人くんは三本目の傷をつけてくれていた。

まっすぐな目で僕の傷を凝視している。

躊躇わないように振る舞っているけれど、こめかみに伝う冷や汗や、強く握りしめた拳は隠しきれていない。


「……うん。よくできました。もういいよ」


褒めてやると刃がパッと離れ、まだ鮮やかな血のついたカッターが僕の腰掛ける机に叩きつけるように置かれる。

切られている最中に生まれた麻薬のような高揚は、次第に痛みと失血による浮遊感にのまれていく。


篤人くんはぱっと辺りを見渡して何かを探した。それから諦めたように苦い顔をした。


「痛むぞ」


篤人くんは低い声で警告すると、傷口の上に手のひらを強く押し付けた。

足の付け根に体重をかけるように圧迫する。


「んっ……痛っ……」


太い指の間から僕の真っ赤な血が溢れる。

なるべく動かさないように力を入れているのが分かる。

でも僕が子供みたいにじたばたと動くので、うまく血が止まらない。


「ねぇっ……痛いよ……やめて? やめて、こんなひどいことっ……」


篤人くんを見上げるこの両目に浮かぶのは、間違いなく、痛みによる生理的な、本物の涙だ。

でもそれだけじゃない。


「……白々しいんだよ」


篤人くんは睨むように切れ長の目を細めて手の力を強める。

しっとりとした手のひらの汗が、傷口に染み込む。青ざめているのは篤人くんの方だった。


篤人くんはふいに自由の利く左手を、学生服の裾からベルト付近へと滑り込ます。

彼の荒い呼吸が、布が乱暴に擦れる音と重なる。


「……?」


想定しなかった動きに、僕は蕩けた目を丸くした。

少し苛立っているのか荒々しく、強引な手つきだった。

ごく、と僕の喉が鳴る。


何するつもり、篤人くん。こわーい。


篤人くんの理性の器は、僕があと一滴蜜を垂らすだけで溢れそうだ。


「篤人くん……?」


上擦った声で名前を呼ぶ。

傷だらけの足を、少しだけ、ゆっくり開く。

白々しいと言われても構わない、この理性的な男の本能を暴けるなら。


それなのに篤人くんがスラックスから引き摺り出したのは、清潔な白いインナーの裾だった。

彼はそれをつかむと首を傾け、何のためらいもなく自らの犬歯で布地に深く食いついた。


首を鋭く振る。びり、と鈍い音が篤人くんの喉元で鳴った。

彼は口元についた糸くずを肩でぬぐいながら、破いた布地を血まみれの右手の代わりに、僕の太腿に押し付けた。


「……、あは、かっこいーね……」


全身から熱が一度に冷めていく。

つまんない。魔法が解けたみたいに、傷の痛みがただの不快な痛みに変わる。

僕は小さく舌打ちをした。


「真面目だねぇ篤人くんは。こんなことしといて、必死に止血なんかしてさ……お巡りさんの息子でいたいんだね」

「…………」


篤人くんは何も言わない。彼の瞳は、僕の誘惑なんて最初から一切映していなかった。

ただ、血に染まった自分の指先と、引きちぎった白い布が赤く染まっていく様を、強迫観念に駆られたように見つめている。


次第に血の流れは穏やかになり、僕の多幸感とともに凝固していく。

布地のまだきれいなところを破り、傷口にまきつけようとして、篤人くんは手を止めた。


「……サポーター、もってくる」

「あは、いらないって。それ巻いてよ」

「……。傷口、あとでちゃんと洗えよ」


力ない声でそう言うと、篤人くんは慣れた手つきで疑似包帯を巻いた。

傷口が開かないよう、きゅっと力を込めて。


腕時計を見ると、時刻はもう九時半を過ぎていた。

ほとんどのクラスメイトが目を覚まし、支給された朝食を食べ終え、志麻に――“悪魔”に課す試練に、備えているころだ。


「はーあ、戻んなきゃ。今日の試練はなんだろうなぁ?」


後ろにそらせていた体をひょいと起こして、机から脚を下ろしてスラックスを履く。


篤人くんは重い足取りで錆びついたゴミ箱に近づき、手を払うように血を吸ったガーゼ捨てた。埃とカビの匂いがするその箱の中には、過去に傷口をぬぐったガーゼが、僕が乱雑に飲んだ錠剤の空きシートが、層をなして沈んでいる。


篤人くんらしいな。こんな部屋、その辺に投げ捨てたって誰も見てないのに。


腐敗した罪のアーカイブを睨みつけ、奥歯をかみしめている篤人くんを、横目で見て笑った。

仲の良い友人と実りのある時間を過ごした後の、清々しさを感じる。


「じゃあね、篤人くん。早く戻らないと、志麻のヒーローショー見逃しちゃうよ?」


スラックスの上から左の太腿を軽くたたき、軽やかに畳の山を乗り越える。僕は一度も振り返らずに部室棟を出た。


初夏のじっとりとした暑さは、もう早朝のものではなくなっている。

小走りで校舎へ向かうと、引きちぎられた布の感触が傷を刺激し、篤人くんの高い体温を思い出させた。


「天国かぁ」


篤人くんは、金魚は天国に行ったと、確かにそう言った。

わけわかんないまま毒に溺れて死んだのに、篤人くんの手のひらに掬われて、あの子たちは天国に行ったんだ。

変な人。自分がどれだけ傲慢か、分かってないのかなぁ?


天国かぁ。

甘い砂糖菓子みたいな響きを口の中で転がす。

渡り廊下で立ち止まって部室棟の方を振り返ると、窓ガラスに昨夜の雨跡が残りキラキラ輝いていた。


あんな無価値な命でも、天国に連れていける君の傲慢な手なら。

大きくて暖かくて硬い、僕のために震えてくれる君の手のひらなら。


――僕のことだって、いつかちゃんと、天国に連れてってくれるよね?


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