#27 煙
重たく閉ざされた国語科準備室の前は、先生の甘い煙草の匂いが漂っている。
使い慣れたコインケースを開けて、鍵をひとつ取り出す。軽快な音を立てて鍵が開いた。
「先生、入ってもいい?」
僕が声をかけると、どうぞ、と穏やかな声がするので、本棚を抜けて準備室の奥を覗いた。
篝先生は愛用の木製の机にいつもの経典を広げて、コーヒーを飲んでいた。僕に気づくと先生は銀縁のメガネを外して、積み上げられた教科書の上に置いた。そして目を細めて僕を見た。
「瑠伊、よく来たね」
先生は立ち上がると、来客用のソファに腰掛けた。引き寄せられるように駆け寄って、先生の腕に収まる。先生の細く頼りない腕でも、僕にとっては堅牢だ。
先生のシャツに顔を押し付ける。頭がくらくらしそうなくらい甘い匂いが僕の身体を満たしてくれる。
見上げると、先生の目が僕をじっと見下ろしていた。
先生の瞳は吸い込まれそうな夜の色をしているんだ。その夜の中に、自分の浅ましい欲望がすべて見透かされているようで、心地がよかった。
黙って微笑んでいる先生は、それ以上指一本すら動かそうとしない。
僕は目一杯頬を寄せて、先生の体温を感じようとしていた。
どれだけ乱れてみせても変わらない、熱くも冷たくもない体温が僕を不安にさせた。先生は確かにここにいるはずなのに、いくら触れても存在の証明にならない。
暴風にさらわれた雨が窓に叩きつけられている。風が強く吹くたびに不規則な雨音が鳴っている。
先生は何かを思い出したように、僕の肩を支えてゆっくり引き剥がした。
「瑠伊、お腹が空いてるだろう?」
「ん……お腹?」
空腹なんて考えていなかった。
小さく首を振ろうとしたのに、先生はデスクから紙袋を手に取っていた。
紙袋から出てきたのはクロワッサンだった。タバコの匂いで気づけなかったが、先生の指で挟まれたクロワッサンからはバターの焼ける甘い匂いが漂った。目を丸くする僕を慈しむように、先生はゆっくり目を細めた。
「焼きたてを届けてもらったんだ、まだ少し暖かいよ」
「焼きたて……」
その言葉に言いたいことはたくさんあった。
何か言おうともごもごと動いた僕の唇に、先生はちぎったクロワッサンを一つそっと押し込んだ。
確かに暖かい。先生の体よりずっと。
「んっ…………いただきます……」
「うん。こぼさないように気をつけなさい」
先生は満足そうに言うとまた一欠、ちぎったものを僕の唇に運んだ。その指ごと口に含んでみても、先生の表情は変わらなかった。
「ふふ、おいしい」
笑ってみせると、先生は目を細めて左手で僕の頭頂部を撫でた。
本当は味なんてどうだっていい。
先生の指が僕の一部になっていくって思いたい。
先生は僕の頭を撫でつけながら囁いてくれる。
くすぐったい。
「瑠伊。君はうまく立ち回っているね」
「ん……? そう……?」
わざと何でもないふりをすると、先生はゆっくり頷いた。
「とても上手だよ。君は何の信仰ももっていないのに、よく神の名前を呼べたものだ」
さっき自分は、教室で嘘をついた。
素人に血を抜かれるなんてまっぴらだし、神様なんていないのにさ、みんなあんなに怯えちゃって。
でも先生は騙せない。
「………それ、褒めてるの?」
口を尖らせると、はは、と渇いた声を出して先生は笑った。笑っているのに目はもう別のものを見据えていた。
古びた机の上には、ガラスでできた花瓶に百合の大輪が飾られている。先生の視線がそこにあるのに気づいて、僕は先生の肩にもたれながら言った。
「……綺麗な百合。どうしたの、あれ」
「教会から一輪拝借したんだよ。授業に持って行こうと思ったんだけど、あの様子じゃ可哀想かと思ってね」
授業。何だっけ。
ぼーっとする頭で、言葉を詰まらせていた志麻くんのことをなんとなく思い出す。
すごく遠い日のことみたいなのに、先生にとってはちゃんと、昨日のことなんだな。
「……志麻くん、あんなに分かりやすく動揺しちゃうなんて。あんなんでいいの、天使って」
「瑠伊」
苛立った僕を宥めるみたいに、先生は僕を呼んだ。
先生の細い指が、僕の癖毛を丁寧にすく。
それから僕の前髪をかけ上げるように撫でて、人差し指の関節で眉間をすっと擦った。
頭の中に一つ、ぼんやり明かりが灯る。
心地いいけどくすぐったい。ちょっと身を捩る。
「確かに志麻くんは逃げ出してばかりだよ。選ばれた血筋でありながら、与えられた役割の重みに耐えることができない。……瑠伊、お前だったらそんなことはしないのに」
びく、と身体が動いたのは、怖いからじゃない。
「しないよ。……僕だったら」
僕の返事に満足したのか、先生は褒美を与えるように眉間を撫でた。
二つ、三つ、四つ。
視界が明るくなっていく代わりに、思考が少しずつ削り取られていくような感覚になる。
「志麻くんはどうしている?」
先生の、低く掠れた甘い声が好き。
僕をいつも導いてくれる優しい声。
頬が自然と綻んでいく。
「蓮司と一緒に逃げてるよ。あはっ、掃除ロッカーなんか隠れちゃってさ、ドキドキしてるのよく聞こえたんだよっ。今は校舎にはいないみたい」
「そう」
たった一言だけ言うと、先生は机の引き出しに手を伸ばして黒い箱を取り出した。
それだけ。なに、飽きちゃったの。
何がダメだったの。
「……先生、火つけてあげる」
いつもと変わらない声で笑ってあげる。先生もにっこり笑って、長いフィルターのタバコを一本口に咥えた。
先生に抱きついたまま、引き出しに手を入れて探る。ツルツルした金属の感触があって手に取った。何の装飾もない、手入れされた銀色のジッポライター。
「…………」
カチ、と冷たい音がする。
これは僕がこの前あげたライターじゃない。
僕があげたのは、ヴィンテージの、金色のスレがあるやつ。
火をつけると先生はロングのシガローネを吸い込み、また僕の眉間を撫でた。
光が五つ。甘い甘いバニラの煙の匂い。
「瑠伊は堺くんのことが大好きみたいだね」
堺くん……? 蓮司のことか……
蕩けそうになる思考の中で蓮司のことを思い出していた。
「……蓮司、ワンちゃんみたいでかわいいんだもん。……でもだめ。僕にはもっとおっきいワンちゃんがいるから」
頭がぼーっとして、うまく舌が回らない。
先生は大して興味を示さずに「そう」とだけ言った。
「……先生?」
小さく震える手に力を入れて誤魔化して、先生を見上げる。
先生はゆっくりタバコを吸った唇を、僕の唇に合わせた。そして雛鳥みたいに開いた僕の唇に、甘い煙を流し込んだ。
「んんっ…………」
得体の知れない毒を飲まされたみたい。
苦しくて身体を捩ると、先生は唇をそのまま耳元に寄せた。
「瑠伊」
身体がうまく言うことを聞かない。先生の指がまた眉間に伸びてくる。
「瑠伊。お前は賢く、そして美しい。お前にオゼ様の血さえ流れていれば、お前こそが本物のセラフになれたはずなんだよ」
オゼ、血、セラフ。
天使。志麻くん。
先生は僕に全部は教えてくれない。先生が言ってることがなんなのか、僕にはわからない。
でも先生が触れてくれるなら、なんだっていいんだ。
「志麻くんより、ずっと素敵な天使になれる。……お前に、オゼ様の血が混ざれば」
トン、トン、トン、と規則的なリズムで、先生は僕の眉間を人差し指で叩いた。
視界が真っ白になる。脳に甘いシロップを注入されたみたいな、圧倒的な多幸感。
それなのに頭の奥がズキズキ痛い。
「……いいよ、先生。僕……やってあげる……」
志麻くんを祭壇へ。
あの子を祭壇にあげて、僕にオゼ様の血を混ぜて。
そしたら先生は、先生は今度こそ僕のお父さんにーー
篝は、そのまま幸せそうに眠り込んだ瑠伊を担いでソファの上に下ろし、それきり目もくれなかった。
もうすぐ花開く百合の蕾を指で突くと、百合は苦しげにもたげた。




