#26 志麻
志麻惟久の父親は画家崩れのサラリーマンだった。
自宅の一室をアトリエにしていたせいで、志麻は同じ家に住んでいても父親と顔を合わせることは少なかった。
やがて画材に金を注ぎ込み、無断欠勤を重ね、志麻が小学三年の時についに職を失った。
描く絵のイメージが降りてきたときの父親は、幼い志麻が立てる小さな物音ですら激昂した。母親は志麻をなるべく外で遊ばせ、自身は生活のために朝から晩まで働いていた。いつからか、家事は自然と志麻の役目になっていた。
志麻家と対極にあった堺蓮司の家は、志麻にとっては唯一の居場所であり、同時に寄生できる場所でもあった。
志麻は蓮司の家に上がるたびに、密かに物を盗むようになった。
小さくなったバトル鉛筆。首のもげた消しゴムフィギュア。ビー玉。キラキラしたバトルカード。ベイブレードの破片。
蓮司の物を盗っては持ち帰り、志麻は母親がどこかから貰ってきたお菓子の缶に、大切にしまっていた。
志麻のものと呼べるものは、その空き缶を除いて特になかった。
なぜそんなことをするか、幼い志麻にもわからなかった。
「お前のパパは、さすがだよな。いつもみたいにこっそりパクって、夕飯食わせてもらって、玄関で見送られて。何も思わず歩いてたら、すごい勢いで追いかけてきたパパに首根っこ掴まれて引っ叩かれてさ。お前、遠くで見てただろ?」
「あ……うん。それ覚えてる」
「俺はさ、パパは笑って許してくれると思ってたから、その瞬間はすげえショックで……ちょっとちびったよ。終わった、もう蓮司と遊んだり泊まったりできなくなる、って怖くなってさ。でもあの時パパは泣いてたんだよ。そんで抱きしめてくれた。俺、自分がしてたことがどんだけ恥ずかしいことだったかその時わかってさ。全部返したよ、パパに。お前にも正直に言えばよかった。でも、言えなくてさ、ごめんな」
「いいよ、そんなの」
その日のことは蓮司もよく覚えている。
蓮司の父親は何事もなかったように蓮司と志麻を車に乗せて、閉店間際のデパートでかごいっぱいのおもちゃと文房具を二人に買い与えた。
ファミレスで食べたいものを好きなだけ頼み、夜遅くまで三人でくだらない話をした。その日の志麻は、笑いのツボが異様に浅かった。
小学五年生の春、志麻は初めて父親と遠出をした。
父親の描いた絵が、小さな展覧会に飾られることになったのだ。
普段半袖と短パンを着まわしていた志麻のために、母親はわざわざシャツとベストを用意した。膝まである靴下を初めて履いた。
電車に乗るのも、バスに乗るのもほとんど初めてだったのに、車窓に映る自分の姿が気恥ずかしくて、蓮司にばったり会ったりしませんようにと、そればかり祈っていた。
東京の、どこかの駅の小さいビルで開かれていた個展に、父親の絵が飾られていた。
怒鳴る時以外に表情を変えない父親が、人に囲まれて笑顔で会話を交わしていた。
大人たちは父の絵をよく褒めたので、志麻は誇らしい気で父の横に並んでいた。
中でも熱心だったのが、ヨシヒデという青年だった。父よりいくらか若く、長いこと絵の前を離れなかった。ヨシヒデは父親と、志麻には分からない難解な言葉で話していた。
その日を境に、父親は家でも表情を和らげるようになった。
ヨシヒデが家を訪ねてくることもあった。客など来たことのない家に他人の声がすることが、志麻には嬉しくて仕方がなかった。
やがて父親は、口を開けばヨシヒデの話をするようになった。
そして不思議なことに、志麻のことをよく可愛がるようになった。
手のひらを反すような態度に戸惑いもあったが、志麻は父親を拒絶しなかった。
父親は志麻の頭をなでながら、お前は特別なのだと言った。
選ばれた子だという父親の言葉を、志麻は父なりの愛情と思うことにしていた。
「お前に最後に会った日のこと、覚えてるか。俺は正直覚えてないんだ。お前と最後に何話したか、何して遊んでたか、何時に帰ったか。玄関開けたら親父が立ってて、泥だらけの俺のこと見てた。母さんは、って言おうとしたら、父さんはでっかい手で俺の顔面掴んで、風呂に連れてったんだ」
「父さんはずっと何か呟いてた。光が、白が、絵の具が、太陽が、花がどうとかって、綺麗な単語ばっかり並べてた。笑ってたか怒ってたか泣いてたか、全然覚えてない。俺はその時冷水浴びせられて、お前は汚れるべきではない、みたいなこと、言われたんだ。父さんが水を止めた頃には、俺もう手足が震えて、立てなかった。殺されると思ったんだ。でも親父は、穏やかに笑ってやがって。浄化が済んだから、これでお前は……セラフになれるって言ったんだ。……はは。わけわかんないだろ。俺怖かったのに、何だそれって思って笑っちゃった」
「びしょびしょの体のまま白い車に乗せられて、そのままどっか遠いところに連れて行かれた。車の後ろの方に母さんが乗せられてた。母さんは……一目見て殴られたんだってわかるような怪我してた。――親父はさ。ヨシヒデってやつと、カルト宗教開いてたんだよ。車はその拠点になってる教会に停まって、さ。俺はそこで……」
うっ、と、志麻の呼吸が詰まった。
無理して話さなくていいよ。なんていう言葉すら、懸命に話す志麻を否定してしまうようで言えなかった。
志麻は左手で口元を押さえて、右手の爪は何か探るようにマットを引っ掻いていた。
やがて志麻の細い指は俺の左の小指に辿り着いて、ギュッと強く握った。
志麻は腕ごと震えていて、こうして強く握っていないとバラバラになってしまいそうだ。
「……わり、痛い……?」
志麻が消えそうな声で聞いてくるので首を横に振った。
「志麻。手握っててもいい?」
志麻は驚いたように俺を見上げて、ゆっくり頷いた。
俺は志麻の震える右手の指先を、全部覆った。
志麻はそのまましばらく俺のことを見上げていた。
黙って志麻の汗ばむ冷たい指を握る。
志麻は握られた指先に目を落として、またぽつりぽつりと話し始めた。
父親は立ち上げた新興宗教を「天啓」と謳い、自らをオゼと名乗っていた。その傍らには、いつも顔を隠したアイムと名乗る男がいた。おそらくヨシヒデだが、志麻には確かめようがなかった。思い出そうとすると、決まって頭が痛むのだ。
連れていかれた教会の中央には父の絵が掲げられ、その絵の下で、信者たちは毎晩経典を唱えさせられていた。
オゼには神と対話できる唯一の血が流れている。この神聖な絵こそがその証拠だ、と、アイムは熱心に説いていた。
信者たちはみな、穏やかで優しかった。ここには本当に神がいるのだと、信じないほうが不自然だと思われた。
その夜父親は、志麻を絵の下の祭壇に上げ、依代になるセラフだと紹介した。
その途端、信者たちは表情を変えた。
「父さん、何これ。どういう意味、って笑おうとしたらさ。……、俺、服全部、脱がされてさ、……、…………」
隣に座っている志麻の体が、ピン、と硬くなっていくのを感じた。
全身に力が入って、石になったみたいに動けなくなっている。
親指の腹で志麻の指を撫でると、志麻は一瞬ぐっと強張ってから、少しずつ弛緩し始めた。
「初めは、オゼだけだった。……でもだんだん、……信者にされることも増えてきてさ。 男も、女も、何人も。顔も覚えてない人もいる……。……いつも終わりには、仙骨の上にナイフで傷つけられるんだ。セラフの血と一つになることで救われるって、オゼさま……っオゼは、いつも言ってた。傷口をぐちゃぐちゃにされて……」
志麻の柔らかい髪が頬に触れた。
志麻は体を縮めて俺の方に体を預けていた。
志麻が顔を埋めているシャツは、すぐにじわじわ暖かく湿っていった。
「……俺、おかしいんだよ。……生理現象だって、思おうとしたけど……それだけなのかな。ほんとに。オゼはいつも、お前は人間じゃない、セラフになったんだ、だからこうなるのは自然なことだって。……俺は……本当に拒絶してれば、あんなことにはならなかったのにっ、逃げようってもっと強く思ってれば……そうしなかったのは……俺が……」
「志麻」
耐えられなくて名前を呼んだ。
志麻は言葉にならない呻き声をあげて、強く顔を俺に押し付けた。
痛い。よかった。安心する。今志麻がここにいてくれる。
志麻は顔を埋めたまま小さく言った。
「話させて。……俺をあの夢から醒めさせてよ。頭ん中にいたおまえを現実にさせて。俺のこと、全部知ってて」
「……うん」
ふふ、と小さく、志麻は息を漏らした。
「俺、されてる時、ずっと違うこと考えるようにしてたんだ。お前と遊んでる時のこと。お前んちにいる時のこと、考えてた。お菓子の箱の中身とか思い出そうとしてた。俺の宝物奪ったパパのこと恨んだときもあったよ。頭ん中のお前はいつも笑ってて……何にも知らない俺のまま、傷なんかない俺のまま、……明るいお前のまんまで……」
たまに突然電気がついたみたいに明るくなって、それから雷が轟いた。窓ガラスがガタガタ揺れていた。
俺に縋り付く志麻の手首には、まだ革で縛られていた赤い跡がついている。
ほんとは今すぐ抱きしめたい。
志麻はひとしきり泣いたあと、鼻を啜って顔を離した。
それからぐちゃぐちゃになった顔を背けて、自分のシャツで拭った。
「……母さんと、何度も逃げたよ、教団から。母さんの昔の友達を頼って、知らない土地の知らない学校に転入した時もあった。……でも半年ももたずに引きずり戻される。引きずり戻されたあと、俺たちが何されるか、わかる。……経典を読むんだよ、何度も、何度も。それでオゼが描いた絵に頭を下げるんだ。……それから……、…………。……母さんは、連れ戻された時にオゼとの子を妊娠した。母さん泣いてた、毎日死のうとしてた。……なんでだよ。堕ろせばいいじゃん。なんでお腹の子と死ぬの。なんで俺を置いて……。……それに俺許せなかったんだ、母さんのこと。かわいそうだろ、こんな家に、生まれてきちゃ……それなのに母さんは、……堕さなかった。結局母さんはオゼのこと愛してた。クソだ、俺がやるしかないと思って……母さんのこと殴った。何回も、何回も、何回も殴って……それでも惟花は死ななかった……」
「……惟花はかわいい妹だよ。目に入れても痛くない。子供が生まれたらこんな感じなんだと思う。……でもこいつまだ喋れないんだよ。4歳だよ、喋るだろ普通。……俺が……殴ったからだろ……?」
「……俺は惟花を守らなきゃ。オゼもアイムも、惟花にはまだ何もしてこない。でもセラフは、オゼと同じ血が流れてないとなれないから……いつか惟花も……」
そう言い終えると、志麻はすっと俺から顔を離した。
はあ、と長いため息をついて俯いて、乾いた笑いを浮かべた。
俺をからかうときの顔だった。
「蓮司。……セラフって何のことだかわかる?」
「……わかんね……」
「はは」
だろうな、というように、志麻は吹き出した。
雷が光って志麻の顔がはっきり見える。
泣き腫らした赤い目が無理やりに細められている。
志麻の精一杯の虚勢。
志麻の細い指が伸びてきた。
俺の顔にかかった髪を摘んで、愛おしむようにゆっくり耳にかけた。
「セラフは飾られるんだよ、真っ白い百合で」
「…………」
志麻の指は耳を伝って、頬を伝って、顎を伝って、喉に触れた。
「ここも。……ここも、……ここにも」
志麻の指は俺の体温と混ざっていくらか暖かくなっていた。
つうと伝る指先の感触が、くすぐったさではない疼きを感じさせた。
志麻はただ反応を伺うように俺を見上げていた。
指はさらに下降していく。
爪先で太腿の内側をなぞられる。ゾワっとして少し動いたら志麻の唇の端があがった。
志麻は俺から手を離して、今度は俺の顔に両手を伸ばした。
手のひらで頬を包み込むように触れる。
「……百合で飾ったら、今度は化粧だよ。金箔塗ってもらうんだ、ここに」
親指の腹で俺の目の下をぐいっと擦った。
志麻はそのまま指を俺の口角に持っていって、唇の端に指を入れて頬の肉ごと上に吊り上げた。
「……セラフは笑ってないといけない。それで言うんだ、祝福を、って」
志麻の指が歯をなぞって、唇から離れていく。
ごく、と喉が鳴った、のを、間近で志麻が見ている。
志麻は何かに取り憑かれているようで、いつもの志麻でもあって。
沈黙。ただ黙って俺のこと見てる。
志麻は薄い唇を開いた。
赤い舌がのぞいている。昨日噛まれた舌が急に痛んだ。
「俺たちをこんなところに閉じ込めてるのは、オゼだ。オゼがこんなことするんだ」
「……なんで……?」
「俺が逃げてたからだよ。……俺が望んでないからだよ。……セラフは、自ら望んで祭壇に上がれば完成するんだ……」
そう言いながら、志麻は俺の耳元に唇を近づけた。
耳たぶに志麻の唇が触れた。
志麻はとびきりの秘密を教えるように、ゆっくり言った。
「セラフは天使だよ。……俺が天使なんだ」
「…………」
てんし。
しまがてんし。
俺たちが見つけ出して、祭壇に乗せなきゃいけない天使。
「……はは……天使……? お前が……?」
声が震えた。
つまりあれか。
志麻をこんなに追い詰めた志麻の親父が、志麻が志麻の意志で天使になることを選ぶように、こんなことさせてるってことか。
葛西が狂ったのも、千秋の腕があんなことになったのも、大塚が醜態晒したのも、瑠伊があんな顔で笑うのも。
志麻が耐えきれなくなって名乗り出るのを、その教団は待ってるってことなのか。
それを志麻は、最初から知ってて。
志麻の肩を両手で掴んで、ゆっくり引き剥がした。
全部の秘密を吐き切った志麻の瞳はまっすぐで、でもどこか怯えたように揺れている。
「志麻が天使なの……?」
「うん」
「……友達んちから物盗むのに?」
「……うん」
「天使は……ははっ……ざけんなよ……」
「……蓮司……」
「ふざけんな!」
志麻の両手首を掴んでそのまま下に叩きつけた。
汚ねえマットの上に志麻を留めつける。志麻は目を見開いていた。
「どこがっ、どこが天使なんだよっ、天使はバスケあんなに下手くそなんかい、天使はいじめっ子殴るんかい、天使は下ネタで腹ちぎれるくらい笑うんかい。天使は俺が先に別のやつにカレー食わせたくらいでやきもち焼くのかよ? お前のっっ、お前のどこがっ、どこが、どこが天使なんだよっ!!」
前が見えない。
怒りと涙とやるせなさでいっぱいで、度の強いメガネかけさせられたみたいに視界がぐにゃぐにゃになる。
志麻の顔にぼたぼた俺の涙が落ちていった。
「っ、カレーのは……そういう意味じゃ……」
目を逸らしてもごもごと言い訳している志麻が許せない。
「……志麻だって言えよ志麻」
「は、はぁ……?」
「天使じゃないっ、お前は天使なんかじゃないっ、だせーし見栄っ張りな志麻だろっ、言え!!言えよ、志麻だって!!!」
雷の音も聞こえなくなるくらい怒鳴り散らして、俺は志麻のシャツを掴んで引っ張り上げた。
「言えよ」
「っ…………」
「言え」
志麻は下唇を噛んで目を逸らした。
「……志麻だよ」
「目見て言って」
「…………」
志麻の潤んだ目がようやくこちらを見た。
もう試しているふうでも、確認しているような様子もない。
志麻は逃げない、俺も逃げない。もう俺たちただの幼馴染じゃない。
「……俺は……志麻だよ、蓮司……」
「……そうだよ、お前は志麻惟久。……志麻。……志麻、志麻っ……」
今度こそ志麻を抱きしめた。
出せるだけの全ての力を込めて志麻の全身を腕の中に収めた。
今まで受けてきた志麻の見えない傷ごと。
セラフと呼ばれてつけられた傷も、家族を憎みきれない志麻の哀しい優しさも、俺に弱さを知られることを怖がってた強がりも。
志麻も俺の背中を必死に掴んでいた。
でも足りない。こんなに抱きしめてもまだ足りない。
頬と頬が合わさった。俺たちの体温は溶け合っていてほとんど一つになっていた。
志麻は鼻先を頬に擦り寄せている。
志麻の頭の中にいた俺なんかよりもっと、もっと志麻のこと大切にできるってわかってほしい。
それを見透かされてるような目、それを期待してるような……いや、でも、もしまた、志麻を、傷つけちゃったら……
ちっ、と小さく舌打ちをした。志麻が。
え、と情けない声を漏らした唇に、志麻の唇が合わさった。
頭が追いつかないまま、志麻の熱い舌が入り込んできた。
志麻は器用に歯をなぞり舌先を啄み、腰のあたりに回した手にぎゅっと力を込めて抱き寄せてくる。
その手慣れた感じ、心臓握りつぶされたみたいに苦しいよ。
ぷは、と音を立てて志麻が唇を離した。
志麻はまた得意げに笑っていた。
「バカだなお前。今しないでどうすんの」
腹立つ。腹立つ腹立つ腹立つ。
今度は自分から志麻にキスした。
志麻の唇にそっとくっついてみる。時々舌も出してみる。ずっとずっと心臓が強く早く鳴ってる。心臓がドク、となるたびに、身体が脈打って動くんだ。志麻は時々目を開けて、からかうみたいな顔してる。
志麻の体からだんだん力が抜けていく。
重力に負けて崩れ落ちていく志麻の背中に左手を回して、そのままマットの上に横たえた。志麻に覆い被さって夢中になってキスする。
蓮司、蓮司って志麻がいっぱい呼んでくれるから、俺も志麻のことたくさん呼んだ。
志麻は呼ぶたびに息乱しながら縋ってくる。
キスだけで終わっていいのかな。とか、思ったりして。
……いや、だめだろ。そんな、志麻の弱みに付け入るようなことしちゃ。
いやでも、志麻も言ってただろ、今しないでどうすんのって。
いや、だめだめ。マット汚ねえもん。もっとちゃんとしたところでちゃんと抱くべきだろ。
……なに考えてんだ俺は。もっとちゃんとしたところでってなに。そんな未来くんの。俺たちのこの先。
この先、どうなんの。
ああ。寮母さん、早く通報してください。
2の2の生徒だけ誰も帰っていないって変ですよ。
俺たちの担任あてになんないんです。適当なんですよなんでも。俺たちのこと大事にしてるようで、勝手に帰っちゃうんだもん。
……いやそんなことあるか……? 篝ちゃんなら、あるか……。
篝って珍しい苗字だよな。昔小学校に一って書いてにのまえさんって女の子がいて。みんなにニノちゃんって呼ばれてたから下の名前忘れちゃったな。篝ちゃんの下の名前も俺たちみんな忘れてる。……何だっけ。……ん。
……ん。
ん……???
「志麻」
覆い被さってた蓮司が不意に弾かれたように唇を離した。
歯が唇にぶつかって痛い。
「……なんだよ?」
不服な声が出た。
実際不服。何なのこいつは。こんな時になに考えてんだよ。
……あ。出たよその顔。
もうなに言っても意味なさそうだ。
蓮司はたまにこうやって、ゾーンに入っちゃうというか、返事だけはするけど誰のどんな言葉も入らない、自分だけの世界に入っちゃう時がある。
それは蓮司をよく知らないやつから見ればぼーっとしててちょっと強引で、バカで、自分勝手なやつに映るかもしれないけど。
怖いくらい勘が研ぎ澄まされてる時のお前。
懐かし。ほんとに蓮司だ。
「お前、その教団にいたやつ、なんて名前だっけ」
「……オゼと、アイム?」
「あー違う、そのアイムってやつ名前は?」
何でそんなこと聞くんだろ。
「……ヨシヒデさん……ぁっ、いてっおいっ!」
手首を思いっきり掴まれて引っ張り起こされる。
蓮司はもう走ってた。
……また走んのかよ? 犬かよこいつ。
蓮司は一回も、振り返りも立ち止まりもせずに校舎に入って、二階の職員室前で止まった。
三つ入り口があるうち、真ん中の、二年生の先生たちがいる入り口の前まで、蓮司は俺を引っ張った。
「見ろよ」
扉に掲示されてる座席表を、スマホのライトで照らしながら、蓮司は言った。
蓮司の太い人差し指が差してるところ。
「……あ……ぇ……」
視界がぐにゃぐにゃになる。
なんでだろうな、いっつもそうなんだよな、アイムのこと考えると俺ダメなんだ。
あいつの纏う強い百合の匂いも、穏やかな声も全部苦手。
蓮司の腕が俺の体を支えてくれる。
篝良秀、という漢字が眼球の奥に焼き付いて痛い。痛い。痛いよ。




