#17 キス
志麻が転入してきたのは二週間前だ。
日焼けした野生児みたいな志麻とは全然違ったけど、一目見て分かったよ。
「志麻!!!」
って。弾かれたみたいに口に出してた。
でも志麻は目も合わせてくれなくて、篝ちゃんに指定された席にむすくれた顔で座って、突っ伏して、それから誰とも口きかなかった。
小五の夏、突然いなくなっちゃった志麻。
学校は、個人情報だから、って何にも教えてくれなかった。パパや兄ちゃん姉ちゃんと一緒に町中探し回ったし、捜索願を出そうとか言って深夜に交番にも行った。
親じゃないから、って取り合ってもらえなくて、みんなで泣きながらファミレスで飯食った。
何も言わずにどっか行っちゃったのには、理由があったはずだ。
転校してきた志麻を一目見た時も、あの腰のあたりの不気味な傷に触れた時も、今俺の足元で丸まっている志麻を見ていても、変わらずそう思う。
志麻は誰にも言えない何かを抱えていて、それは俺にも言えないことで。
志麻が閉めたくて閉めている扉を無理にこじ開けようとして、怒らせてしまった。
でもあいつも悪いだろ。
なんで俺ばっか悪いみたいな言い方してくんの。
……いや、言ってもくれない。
ずっと軽蔑したみたいな目で見てくる。
なんなの。
腹一杯になったあと、クラスの半分くらいは二年二組の教室に戻った。
志麻と二人になるのが気まずいから、俺は黙って教室に入ろうとした。
志麻の手首からは相変わらず血が滲んでいる。
何度も擦れて同じところばかりにあたって痛そう。
でもどうしても、みんながいる教室入れなかった。ここには志麻を悪くいう奴らがいる。
そんなところで一晩過ごすのが、なんとなく気持ち悪い。
結局、三階の人気のない教室で、志麻と一夜を明かすことになってしまった。
こっちの方が気持ち悪いかも、って後になって気づいたけど、もう引き返せなかった。
外はもう真っ暗で、念の為点灯させている廊下の照明と、窓から差す月明かりがぼんやり教室を照らしていた。
俺が横になる足元で、志麻は俺の顔に足元を向ける形で、胎児のような姿勢をとっていた。
むかつく。
むかつくむかつく。
桐原に先にカレー食わせたのが嫌だったの?
緊急事態なんだからそんくらいのことで怒んなよ。
ガキの時は喧嘩なんかしたって、一晩寝たら全部忘れてたのにな。
こんなんじゃ寝られるかどうかも怪しいよ。
時計を見る。まだ22時。
ふと体勢を変えようととしたら、鎖がじゃり、と重たい音をたてる。
あ。いま志麻痛かったかな。
ごめん、と言いかけて言葉に詰まる。
そしたら志麻がクスっと笑った。
気持ちのいい笑い方ではなかった。
「お前のヒーローごっこ、せいぜい半日が限界?」
かちーーん。
「は? お前こそなに。悲劇のヒロインごっこやめろよ」
むきになって言い返すと、志麻はでっかい舌打ちをして体を起こした。
「は。俺はずっと、構うなって言ってんの」
「はぁ? あんなに仲良くしといて、俺が歩み寄ったらもう構わないでくださいって? どんな神経してんの?」
「…………」
やべ、言いすぎたかな。と思ったのに喉から次の言葉が出てくるのを止められなかった。
「そもそも無視ばっかりしてきて何? みんなに噛み付いてばっかでさ。何に気づいて欲しいのお前は?」
「…………」
「俺はね? 寂しかったよ。お前が何にも言わずにどっか行っちゃったのは、なんか事情があったんだろうなって思ってる。でも、なんでこんなに冷たくされなきゃいけないんだよ。志麻に。俺、なんかしたかよ。お前、俺の大親友だったのに」
そう、大親友だったんだ、俺たちは。
恋人みたいに別れが来るわけじゃない。
友達だったら何にも縛られないで、ずっと一緒にいられるんだろ。
目頭が熱くなって、涙が滲んでくる。何歳だよ俺は。
志麻の唇が、わずかに動いた。
でも言葉になっていない。
「……なんだよ」
「…………そればっかり」
低い声。震えてる。志麻の声も。
「前は前はって。……じゃあ今の俺はどこ行くんだよ?」
志麻は笑ってた。
力無く、諦めたような顔をして。
ようやく笑ってくれたのに。今の志麻が一番反対のところにいる。
「……志麻、」
名前を呼びかけたけど、志麻の目はもう憎しみに燃えていた。
口元に笑みを貼り付けたまま、志麻は俺の足首を両手でぐいと掴んだ。
「そもそも気持ち悪いんだよ、蓮司」
……志麻。
「お前だけ小学生のまんま。教室にいるお前も、あの薄っぺらいオトモダチと仲良しごっこしてんのも。俺は誰も見捨てません、みたいな顔して、結局誰のことも助けられてないだろ。お前は気持ちよくなりたいだけだろ。そんなん自慰と何が違うんだよ?」
志麻の額に汗が滲んでる。唇がわなわな震えてる。
「それに、何あいつら。器のちいせえゴリラに、中身ねえヒョロヒョロ。それにあのチビ。誰にでも色目使って、弱者に手を差し伸べますみたいな顔しやがって……はは、お前と一緒じゃん。ルイは友を呼ぶってぇ? 笑わせんなよ」
志麻の目が揺れている。チリチリとした炎が揺れているんだ。
「お前らが大好きなあのクソ教師。……あいつだって怪しいぞ。閉じ込めて、こんな悪趣味なこと強いてんのはあいつかもな?」
志麻の呼吸が、目に見えて早くなっていく。肩が大きく上下し、鎖がガチャガチャと音を立て始める。
「っはは……おい、何黙ってんだよ。ショックだった? お前のちっせえ脳みそじゃ分かんないか?」
「志麻っ、お前……落ち着けよ、呼吸が……」
肩に手を置こうとすると、志麻は獣みたいに身を捩って拒んだ。
そして、志麻の目が光ったんだ。
今までのギラつきとは、明らかに違う光り方だった。
まるで俺じゃない何かを見てるみたいな。
「触んなよ!!!」
それはおそらく、今志麻に出せる、渾身の威嚇だった。
触られることを拒んでるんだ。
葛西にキレてた時も、おんなじ声で怒ってた。
怖いんだろ。
お前それ怖がってる顔だろ。何が怖いんだよ。ずっとずっと。
「っは、大親友? ……独りよがりの、偽善者が……」
「っ…………」
「笑わせんな、みんな頭おかしい、お前も、上っ面の、友達ごっこしやがって……っは、っは……」
志麻がうつむき始める。
焦ったみたいに、なんとか呼吸を落ち着かせようと足掻いている。
「死ねよ……みんな死ね……! 俺を、こんな風にしたやつら、っはあ……、おれ見て憐れんでくる、お前も、全部、全部死んじまえよ……っ、ひ、ふっ……」
志麻は、完全に過呼吸に陥った。
滲んでいた程度だった汗が一気に吹き出し、志麻はみるみるうちに水を浴びたように濡れた。
顔は土みたいな色になって、丸められた肩が忙しなく酸素を求めて動いている。
縛られた腕は動かすことができず、両手を差し出して許しを乞うているような姿勢で悶えた。
過呼吸で人は死なない。分かってる。
でも目の前の志麻はパニックになっている。
全身が肺になったように大きく上下しているが、全くおさまる気配がない。
「志麻っ」
声をかける。が、志麻には届いていないように見える。
志麻の顔からさらに血の気がなくなってくる。
「志麻っ……」
過呼吸で人は死なない。
「ぁあーっ…ぅ、ひゅ……ひゅ、っぅ゛ううっ……っあ、あ゛っ……」
死なない。
しなない、しなない。大丈夫。
大丈夫だ、大丈夫。大丈夫、大丈夫。か? 本当に?
葛西があんなことになったのに? 千秋があんなことになったのに?
志麻が今こんなに苦しそうなのに?
そもそもこれ、過呼吸なのか?
志麻にだけ何か盛られたんじゃ?
あの傷がなんか関係してんじゃないか?
志麻が拒絶してるのは分かってる、でも目の前にいる志麻を助けられなかったなんて、そんなの本当に俺なの?
偽善者って言われても、分かってもらえなくてもいい。志麻を助けたい。志麻を地獄から引っ張り上げたい。
「う゛ーっ……ひゅ、ひゅ、は、っ……、?……んんん゛っ?!!」
俯く志麻の両頬を掴んで、空気を求めて喘ぐ志麻の唇を唇で塞いだ。
志麻が吸い込もうとする空気を阻んで、嘔吐するように吐き出される呼気を受け止めた。
志麻は全身を横にねじって精一杯暴れたが、俺の片手で抑え込めるほどの力しかなかった。
それでも志麻は、固まっている俺の舌を歯で探り、思いっきり噛んだ。
俺の舌を噛みちぎってでもやめさせたい、という執念を志麻から感じた。
俺は志麻の反抗を受けても、いくら血の味が滲もうとも、キスをやめなかった。
次第に酸素が薄れてきたのか、志麻の抵抗も弱くなってくる。
噛みついていた志麻の歯が力無く離れていく。
志麻は代わりに、猫が毛繕いするように、血の滲んだ俺の舌を弱々しく舐めた。
そこに志麻の意思はないように感じた。
ただ、そこにあるものが何なのか確認するように、のろのろと舌を動かした。
ぬるりとした志麻の舌の感触は、死体の一部を押し付けられているような、得体の知れない寒気を感じさせた。
慣れてる、こいつ。
何かを諦めることに。
志麻が唇を離す。血の混じった唾液でつながったまま、志麻は目を細めた。笑ったんだ。
「……ありがと」
「っ……しま……?」
救えたの。
しま。しまのこと、おれ、おれは、
「……あ……」
志麻の目を見た。そこには何も映っていなかった。鎖も、口から滲む血も、目の前にいる俺自身も。
俺はようやく、志麻の心を決定的に、自分の手で、バラバラに引きちぎってしまったことを知った。
なんもできねーくせに。大塚の言葉が頭の中をこだましている。
違うよ大塚。俺はやったよ。直感を信じて、志麻を助けようと思ったんだ。
それなのに、俺、志麻を、助けられなかった、
パパ。俺、志麻のこと、殺しちゃった。
気づけば俺は悲鳴をあげていた。
自分の声だって気づくのに時間がかかった。
喉が潰れるまで、言葉になる前のぐちゃぐちゃしたものを、吐き出し続けた。
やがて空は白くなり、ほのかに薔薇色の雲から光が溢れても、唸り声は止まなかった。
両手を使えない志麻は、俺に体を預け、頬を寄せ続けていた。
もうずいぶん前に、試練の達成を告げる放送が流れた。
俺たちは未完成の石像のように、そこから動くことができなかった。




