#16 切札
20時きっかりに、夜食を用意したとアナウンスがあった。
指定されたのは解放されているトイレと同じ階だったけど、それも反対側の校舎まで歩かされた。
精神的に疲れ切っていたのと、校内に食欲をそそる香りがただよっていたのとで、俺たちは吸い寄せられるように夜食が用意された教室に集まった。
Bに指定されたやつらはもうみんなヘトヘトで、無駄口も叩かず四つ這いで歩いていた。
あんなに気持ち悪かったのに、その体勢が楽なら仕方ない、とか思うようになってしまった。
「あ、カレーだ」
志麻と並んで這ったまま教室に入ると、匂いは一層強くなり、ぐるるると腹が素直に鳴った。
こんな状態でも腹が減るのが、なんか情けない。
食事にもなんか変なもん混ざってんじゃないの、と思ったけど、何人か既に食べていて、呑気にくつろいでいた。
佐伯と瑠伊のペアはこっちに気づくと揃って明るい顔をした。
佐伯はいつものような笑顔で、おー蓮司、と手を振った。
佐伯の膝に跨った瑠伊が、当然みたいに口を開けて、カレーを食わせてもらっている。
「よかったね蓮司、カレーじゃん」
瑠伊は佐伯が口に運んだカレーを頬張りながら目を細めた。
俺たちはテスト前になると、四人でよく飯を食いにいく。
俺がじゃんけんで勝てばカレー屋だ。
「蓮司が好きな中辛だよ。ね、洋二郎」
「な。唐揚げはのってないけど」
佐伯はそう言いながら、瑠伊の唇の端についた汚れを親指で拭う。
くすぐったそうな顔をしながらも、瑠伊はまた口を開けた。
なんだこいつら。
大塚はどうしてるんだろう、と思って見渡すと、先に南雲が目に入った。
南雲はよそったカレーを机に並べて、スプーンを口に運んでいた。
その足元では大塚が喚きながら這いつくばっている。
食べない、って選択肢もあるはずなのに、大塚は意地になって雑によそったカレーに顔を突っ込んでいた。
南雲は見たことないくらい口角を歪ませて、大塚を見下ろした。
「っんははは、きったな豚じゃん、手伝おうか?」
「死ねっ、お前ほんと調子乗んなよっ!」
南雲は暴れようとする大塚を足蹴にして、目の周りの青あざをわざとらしくおさえた。
「あーあ、お前のせいでずっと頭痛いんだけど? ひとりじゃ何もできないおぼっちゃんのくせにイキるなよ雑魚が」
「イキってんのはてめーだろッ、死ね!!」
「語彙力ないねえ? それが大塚の鳴き声だってわかってきたよ」
「んだとてめえ! おい蓮司! 殺せこいつのこと!!」
大塚は頭も上げられないままこっちに向かって言った。
喧嘩両成敗……とはいうけど、いくらなんでもやりすぎだろ。
志麻に目配せしてゆっくり大塚のそばに進んだ。
「南雲、お前……」
「堺もさあ、毎日こいつのご機嫌取りで大変じゃないの。偉いねえオトモダチしてて」
南雲は気の毒そうに笑いながら俺の制止を遮った。
コイツが自分から俺に話しかけてきたのはたぶん初めてのことだ。
せめて大塚の食事を手伝おうかと伺っていると、足元の志麻がぐいと鎖を引いた。
苦虫を噛み潰したような顔で誰もいないところを睨んでいる。
「……腹、減ったよな。俺たちも食べようぜ」
給食室にあるような大きい鍋の中に、まだ暖かいカレーが半分以上残っていた。
うわ、いい匂い。
立ち上がって、志麻の分と自分の分のカレーをそれぞれ盛り付ける。
志麻は足元でおとなしく待っていた。
あったかいご飯。カレーのスパイスの匂い。
これを志麻と食べるんだ。
こんな変な格好だけど、俺いまから志麻とカレー食べられるんだ。
なんか懐かしくて泣きそうだ。
山盛りよそった皿を持ってしゃがんで、こんくらいでいい? と聞いてみる。
志麻は皿をぼおっと眺めて、小さく頷いた。
最低限の動線で済むように、出入り口近くで食べることにした。
佐伯と瑠伊みたいな食べ方も、南雲と大塚みたいな食べ方もしたくない。
皿を二つ椅子に置いて、床であぐらをかく志麻の隣に座った。
志麻には口を開けてもらうことにはなるけど、そうするしかない……よな?
ところがその時、どたどたと重たい足音と、ぎゃああと癇癪を起こして泣き叫ぶ声が教室に入ってきた。
葛西と桐原だ。
葛西の甲高い叫び声とともに雪崩れ込んできた桐原は、予測不能な動きをする葛西を抱き抱えたまま息を荒げていた。
イヤイヤ期の子供を抱える父親みたいだ。
「これッ!! 外すのぉ!!! 杏ちゃんこれ嫌い!!」
葛西は足の鎖を掴んでめちゃくちゃに引っ張って、力尽くで外そうとしている。
瑠伊の腕の倍くらいある桐原の腕から、真っ赤な血が滲んでいる。
「あ、ちいだ!」
葛西は渡辺と並んで地べたに座ってカレーを食べている千秋を見つけると、ぴたりと泣くのをやめて笑顔になった。
反比例するように桐原の表情が硬くなる。
千秋は葛西を見上げると、なるべく穏やかな顔で笑おうとした。
刺繡まみれの腕は膿んできていて、それがベルトで縛られているからかなり痛々しい。
「ちい! 一緒にたーべーよっ」
葛西はそういうと、桐原の両腕から身を捩って抜け出して、鎖のついたままの足で勢いよく床に着地した。
椅子に座っていた桐原が、勢いよく地面に叩きつけられる。
桐原たぶん、80キロは超えてると思う。
ドンと鈍く重たい音がしたけど、なんとか取れる受け身を取った。すげえな。
葛西はそのまま千秋のところに桐原を引きずって歩いて、千秋の左隣にピッタリくっついた。
反対側で息を飲む渡辺のカレーをひったくって、何事もなかったように食べはじめる。
「ん〜! おいしいね! ちいにはおれが、あーんしてあげるね。はい、どーぞ」
「っあ、あ、ありがっ……ごえっ……」
引き攣った笑顔の千秋の喉までスプーンが捩じ込まれる。
えずく千秋に、葛西は怒ったような顔をぐいと寄せた。
「べーしちゃだめだよぉ。げんきになれないからね。ね?」
目に涙を浮かべながら何度も頷いて、千秋はまた口を開けている。葛西は千秋の頭をぐしゃぐしゃに撫でて、また新しく掬ったスプーンを差し出した。
葛西が投げ出した足の先で、囚人みたいに項垂れてあぐらをかいている桐原のことがどうしても気になった。
この数時間、葛西とどうやって過ごしてたんだろう。
そして朝が来るまで、桐原はどうやって過ごすんだろう。
手前にあったカレーの皿を手に取ると、志麻の肩に軽く触れてから、桐原の方まで二人して這った。
……あ、これ志麻の皿か。後でまたよそってやろう。
「大丈夫?」
桐原は俺に気づくと顔を上げて、ああ、と言いながら後ろの志麻のこともちらっと見た。
「仲良いなお前ら」
そう言ってふっと笑ってくれる。
確かに移動の時まで這ってるAは俺しかいないけど、志麻はそうは思ってくれてないよ、多分。
「腕平気か? 腹減っただろ、手伝うよ」
「ん? ああ……」
桐原は戸惑ったみたいに目を細めたが、スプーンで掬ったカレーを差し出すと、素直に口を開けてくれた。
桐原にあーんしてやる日が来るなんて思わなかった。
口でかいな!
まじまじ見てると桐原は顔を顰めた。
「あんま見んなよ」
あ、さっき瑠伊にも言われた。さすが幼馴染だ。
「いや、お前何してもかっけえなあって」
「ははっ、かっこ悪いだろこんなの」
その余裕ある感じも、さっぱりした感じも、『漢』って感じだ。
突然ぐい、と鎖を引っ張られる感覚があった。
「いてっ」
ちょっと振り返ると、志麻は更に機嫌悪そうに俺を睨みつけている。
なんだよ。早くしろってこと?
一口がでかいから、五口くらいで皿は綺麗になった。
幸い葛西はまだ千秋にカレーを食わせている。
「ありがとな、蓮司」
桐原はちょっとも汚れていない顔でそう言って、律儀に頭を下げた。
「……志麻も。悪いな」
志麻に声をかけた桐原の眉が、不可解そうに吊り上がった。
振り返って俺もぎょっとした。
志麻の目が殺気立っている。
桐原に何か恨みでもあるみたいに。
「志麻?」
声をかけると、志麻はふんと鼻を鳴らしてそっぽをむいてしまった。
戸惑いながらも、桐原に食べさせてしまった志麻の分をもう一度よそい直す。
皿を見せても、志麻は今度は見向きもしない。
志麻はあぐらをかいて、束ねた手首を腿の上に置いたまま横を向いた。
「お待たせ。ほら、食べようぜ」
志麻はそんなに口が大きくないから、桐原に乗せた量の半分くらいをスプーンに乗せた。
が、志麻は口を固く閉ざしたままだった。
「……何してんの」
また無視。
「志麻。……食えよ」
「いらない」
今度は食い気味に、噛みつくみたいに言われた。
「腹減ってるだろ」
「いらない」
…………。どゆこと。
「なぁ、俺が食わせるのなら嫌なら……」
「いらないって言ってんだけど」
志麻の怒気が強くなる。
トイレを出る時に志麻が吐き捨てた、お前はいいよなって言葉をじわじわ思い出す。
それは俺がAを引いたことに、お前はラッキーだったなって、そう言ったんだと思ったのに。
違うんだな。
なんかもっと、根本的なことを言ってるんだな?
「マジで意地張んなって」
「…………」
「次いつ食えるかわかんないんだぞ」
「いらない」
「っ……お前だって。好きだっただろカレー」
「……は?」
志麻は奥歯をギリギリ噛んで俺を睨み上げてくる。
あー。イライラする。
好き勝手振る舞って、あとは察してくれってか?
だったら俺もお前の傷口こじ開けてやる。
鎖10センチで繋がれてる志麻がこんなに遠い。
こっちに来て欲しい。戻ってきてほしい。
そればっかり。
全身に汗が滲んでる。視界が苛立ちでぶれている。
「親父が作ったカレー、お前美味そうに食ってただろっ」
これが今の俺が持っているいちばんでかい切札だ。
あの傷に閉じ込められた親友を引っ張り出したい。
志麻は一瞬、肩を大きく揺らして俺を見上げた。
その瞳には、威嚇とは違う、もっとドロドロとした暗い色が混ざっている。
そして低く吐き捨てた。
「……お前の親父の話すんな、吐き気する」
「っ、ンだと……?」
一瞬で喉がカッと熱くなった。
なんつった今?
一線超えただろこいつ??
差し出していたスプーンを持つ手が震えた。
志麻に自由が効かないことがわかってて、足の鎖をぐいと引っ張った。
志麻は前のめりに倒れ込みながらも、俺の黒い苛立ちを見透かすみたいに笑ってる。
なんなんだよ。
俺だって。俺だってつらいんだけど??
「……もういーわ。俺が食う。好きにしろよ」
志麻に食わせるはずだった新しいカレーを、乱暴に喉に流し込む。
こういう時に食うものは、味がしないもんだろ。
それなのにむかつくくらい美味しくて、パパの味にそっくりで。
滲んできそうになる涙を、目を瞑って堪えた。




