#15 便所
「……なぁ、痛くない?」
目も合わせられずに聞くと、志麻は黙ったまま首を横に振った。
Aに割り振られた俺の左足首には白いラムスキンのベルト、Bの志麻の両手首には黒く硬い革のベルト。
同じ鎖で繋がれているのに、素材だけが全然違った。
鎖の長さは、思っていたより短かった。10センチあるかな。
大塚の姉ちゃんのカレシがつけてたぶっとい金のネックレスみたい。
引っ張っても千切れないだろうな、これ。
ほとんどのペアがそうしているように、俺と志麻は並んで座っていた。
立ち上がろうとすると、志麻は不自然な体勢で屈むか、四つん這いになるしかない。
志麻がちょっとでも手を動かすと、俺の足は引っ張られる。
どっちもストレスだけど。でもどう考えても、Bの方がしんどい。
俺がAで、志麻がB。
佐伯がAで、瑠伊がB。
渡辺がAで、千秋がB。
葛西がAで、桐原がB。
南雲がAで、大塚がB――
どういう意図でこんなペアにされてるんだろ。
考察してるやつらもいたけど、どれも説得力なんてない。
時計を見上げるとまだ18時半だった。
この状態のまま、明日の朝まで過ごさなきゃいけないと思うと、胃が痛い。すごい痛い。
志麻は黙ったまま、履き潰したスニーカーの汚れをじっと見ていた。
話したいことはたくさんあるけど、この奇妙な状態で話せることは何にもなかった。
教室のあちこちで、似たようなぎこちない会話がぽつぽつと生まれては、すぐに途切れていく。
志麻となんか話したくて名前を呼ぼうとするのに、口に出る前に、さっきの葛西の言葉がどうしてもよぎってしまう。
何で葛西は志麻の名前を呼んだんだろ。
志麻はなんであんな顔してたんだろ。
あれなんの顔。知ってた顔? びっくりしてた顔?
分かんないのが悔しい。志麻のことなのに。
それにさっきの瑠伊との会話、聞こえてたのかな。
死刑囚の話も。最悪。
身体中がむずむずして思わず動いたら、足で志麻の腕を引っ張ってしまった。
ごめん、って反射的に言った言葉は、どでかい舌打ちにかき消された。
泣くほど気まずい。
どうでもいいラジオみたいな噂話があちこちから聞こえる。
あーあ、うるせーな。体動かしたい。
「てか六月に転入って。転勤じゃないよね」
ん。志麻のこと話してるやついるな。
「あー、あいつね。借金取りに追われてるとか聞いたけど」
「借金取り? 学費どうしてんだよ。なんでこの学校入れたの?」
「でかいコネでもあるんじゃね、そういうやついるだろここ。……やべーバイトしてるらしいし」
「こわ。闇バイト? 馬鹿がやるやつだろあれ」
「はは、馬鹿なんだろ。漢字読めねーし」
あ? こいつら何言ってんの?
志麻のこと言ってんだよな? そうだよな?
何にも知らないのに、バカなこと言いやがって。
頭に血が昇ってくる。
でも大声出したら志麻が恥ずかしいのか?
6秒待て、とか言うよな。
6秒待ってもむかついたら殴っていいんだっけ?
「蓮司」
「えぁっ、なにっ」
すぐ傍から志麻の硬い声が俺を呼んだ。
びっくりして動いてしまい、前屈みにバランスを崩した志麻が、俺の足元に縋り付くような姿勢になる。
ぎゃあ。
「あっごめっ」
「便所」
「え」
起き上がる志麻が、俺を見上げている。
「便所、行くぞ」
それだけ言って、志麻は両手を床についたまま、膝を浮かせて器用に進んでいく。
俺の方が引っ張られるみたいに、教室の外に連れて行かれた。
冷やかすみたいな視線が背中に刺さるのが、悔しい。
同じフロアのトイレは、全部入り口に鍵がかかっていて開かなかった。
相変わらず俺の前を先導している志麻の後ろ姿は、犬というよりは狼とか猟犬とか、そういう賢さと野性味があった。
三階も回ったけど全滅だった。
四階に上がる階段の中段で、志麻はついに膝をついて項垂れた。
締め付けるベルトのせいで、志麻の細い両腕は真っ赤になっている。
「痛いよな、それ……」
声をかけても志麻は顔を上げなかった。
「……さっきまでどのトイレも開いてたよな」
「…………」
「志麻、トイレ平気? ……早く見つけような」
志麻は何も言わない。俺のつぶやく声だけ、人気のない校舎に反響している。
「わり。もう歩ける」
志麻は小さい声でそう言うと、行くぞと言わんばかりに鎖をぐいと引いた。
足元に志麻が這ってついてくるのに耐えきれなくなって、階段の中腹から俺も同じ姿勢になった。
こんなことしても意味がないのは分かってるけど。
「……そんなん意味ないからやめろ」
志麻は苛立ったため息を吐きながら言うけど。
「……はは。まぁな……」
志麻のためっていうか、俺のためなんだよな。
バカみたいに二人で四つ這いになって進むことしかできなかった。
ようやく鍵のかかっていないトイレに辿り着く頃には、もう教室を出て三十分以上経っていた。
三年の先輩たちが使ってる、入ったこともないトイレだ。
水捌けのいい灰色の床の前で、一瞬手が止まった。え、これ手ついて入んなきゃいけないのかな。
志麻はその一瞬の隙をついてまた俺を追い越して、平然とトイレの境界を超えた。
「いい加減立てよ。こんなとこ入ってまでお利口さんごっこしなくていいから」
ぐさ……。
でも一瞬の躊躇いを悟られてしまったのが恥ずかしくて、素直に従った。
足を踏み締めた時に志麻を引っ張ってしまい、小さく息を呑んだ音が足元で聞こえた。
志麻の腕は、血が出ているわけではないのに真っ赤になっていた。
「ごめっ……」
志麻は舌打ちだけで返事した。
いちいち謝るな、って背中にでっかく書いてある。
志麻は一番手前の小便器の前まで這って、それから俺の足を引きずりあげるように立ち上がる。
「いって……」
志麻が小さく悲鳴を上げる。俺の足の体重が、メリメリと音を立てて志麻の赤い傷に食い込んでいるんだ。
慌てて足を高く上げたら、今度は手首を吊るような形になってしまって反対にめり込んだ。
「っあ…………」
やばい。痛そう。
これ以上志麻のこと傷つけたくないよ。
立ってる方の足で、咄嗟に志麻の背後に回った。
志麻に繋がる左足を、志麻の腹のあたりに絡めつける。
そのまま両手を壁につくと、片足立でもいくらかバランスがとれた。
志麻の頸に頬が触れる。
志麻の体温を、髪の柔らかさを、息遣いを全身で感じる。
「おいっ……」
志麻はギョッとしたように体を硬くしたけど、そうするのが最善だって思ってくれたのかなんなのか、やめろとは言わなかった。
「志麻、つらくない?」
だめだ、声震える。変な汗が噴き出してくる。
うわ、俺今汗臭くないかな。志麻の腕大丈夫かな。
俺より小さくなった志麻をこんなに近くで感じてる。
少し縮こまってる志麻の肩に顎を置くと、力が入って体幹が安定したが、志麻は少し身を捩った。
「チャック、おろせる?」
なるべく顔を逸らしながら聞いてみる。
志麻の両手は手のひらを内向きに、祈るみたいな形でまとめられていて、ファスナーのあたりで不自由そうに動いている。
なんとか少ない可動域でファスナーを摘もうとしてるけど、うまくいかない。
ぎしぎし、ぎしぎしと痛々しい革の音がする。
志麻の心臓の音が、どんどん早くなるのを感じる。
志麻、熱いな。
「貸して」
なるべく自然に、さりげなく、大袈裟でなく、スマートに、気にしてないみたいに、なんでもないように、大事じゃないように、志麻のスラックスのボタンを外した。
志麻の喉がごく、と動く。
そのまま手探りでファスナーを下ろした。
あー、昔の志麻だったらこんなのゲラゲラ笑ってたのに。
なんだよこれ。
最高に気まずい。
気を抜くと片足がふらついてしまうから、なるべく壁についている両手に体重を乗せる。
そうすると自然と志麻に体を寄せることになる。
志麻の苛立ったような息遣いも、滲んでいく汗も、熱も。
全てが自分の一部みたいに感じられる。
なるべく息を止めて存在を消そうとするけど、そんなんじゃ間に合わない。
あー頑張れ志麻。早く終わらせてくれ神様……
「……ぁ、あとはできる……?」
志麻は頷きもしないで、ゆとりが生まれたズボンにごそごそと手を入れる。
見ないように顔を背けるけど、ファスナーを開けようとしてた時と比べて明らかに手が動いてるのを感じる。
志麻がわずかに動くたびに、黒髪から石鹸の匂いが香る。ほんの少しだけ、太陽の匂いもした。
やがて、トイレで聞こえるべき音が聞こえてきた。
他人のトイレがこんなに嬉しいことは今までになかった。
志麻の身体からも、少しだけ力が抜けたのが伝わってきた。
スラックスのボタンを外し、チャックを下ろしたまま、志麻は両手を重ねた状態で不自由そうに布地を整えようとしている。
「いいよ、俺がやるから」
排泄も終わってブツも仕舞われたんなら、もう怖いものなんて何もない。
それに、志麻の真っ赤になってる手首を、これ以上不必要に痛めつけたくない。
志麻は一瞬、拒絶するように背中を強張らせたが、すぐにおとなしく項垂れた。
背後から手を回して、志麻のシャツの裾を整え、スラックスの中に押し込もうとした。
薄いシャツ越しに、志麻の腰が触れる。
うわ、ほっそいな。細いし薄い。
それにすべすべだ。気持ちいい……いや待て待て何してんだ俺は。
シャツのシワを伸ばそうと、指先を志麻の背中の中心——仙骨のあたりに滑り込ませた、その時だった。
「……?」
指先が、異質な感触を拾って、凍りついたように手が止まった。
志麻の仙骨には、数字の1みたいにまっすぐ縦に、抉れたような傷があった。
火傷の跡じゃない。ただの切り傷でもない。
普通こんなところに、こんな綺麗に真っ直ぐ、怪我なんてするものか?
志麻の傷は歪に陥没してる。
肉が再生を諦めたみたいに、そこだけ凹んでいるんだ。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
瑠伊の頬にべったり吐き出された紙花、千秋の綺麗な花模様の刺繍、おかしくなった葛西が、正気に戻ったように呼んだ志麻の名前が、頭の中でぐるぐる混ざっていく。
関係ない、関係ないよな、かんけいないよな??
指が、無意識にその抉れた傷の縁をなぞるように動いてしまった。
「…………何だよ」
低く、地を這うような志麻の声が静かなトイレに響いた。
拒絶というより、獰猛な動物の威嚇みたいだった。
志麻は首だけを僅かに後ろに捻って、射殺さんばかりの鋭い目で俺を睨みつけている。
「……あ、わり」
弾かれたように指を離した。
たぶん、俺が触っちゃったのは傷だけじゃない。
キラキラ笑う志麻を閉じ込めている鍵に、触っちまったのかもしれないって、本能が感じ取っていた。
そのあと志麻に促されて俺も用を足した。
Aが用足すのは簡単だった。
Bが足元に這いつくばって待っていればいいだけの話だからだ。
Bの手首はいよいよ血が滲み始めていた。
傷が痛むのか抵抗することもなく硬いタイルに両手をつけ、Aの排泄が済むのを首を垂れて大人しく待った。
Aは、何も言わずにズボンを正してBに手を差し伸べたが、Bは従わなかった。
「……いいよな、お前は」
Bが吐き出した声は、皮肉のようにも羨望のようにも聞こえた。
Aは小さく息を呑んで、痛みに耐えて前進するBを追った。




