第39話 慧VS柳先輩
バスを降りた瞬間、ひやりとした山気が頬を撫でた。
「うわ……空気うま……」
思わず口から漏れた。
肺のすみずみまで満たしていく空気が、やけに澄み切っている。
街の雑音と排気まみれの空気とはまるで別物だ。
「それ、山の合宿に来たヤツが絶対最初に言うテンプレ発言よね」
横から凛が容赦なく突っ込んでくる。
「でも実際うまいだろ」
「否定はしないけど、感想が雑なのよ」
「じゃあ、凛はどう表現するんだよ」
「……空が洗われる感じ」
「急に文学」
「あなたが野生児なだけよ」
くだらない会話を交わしていると――
「はい、整列ー!」
柳先輩の通る声が響いた。
さっきまでの気楽な旅行気分が、潮が引くように霧散していった。
「うわ、切り替え早……」
俺が小さく呟くと、
「遊ぶために来たんじゃないからな。あの人、スイッチ入ると容赦ないぞ」
斗真が苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。
「ここは県の合同訓練施設だ」
背後の建物を指し示す。
周囲には強固な結界の気配が緻密に張り巡らされていた。
「今日から三日間、ここで徹底的にやる。覚悟しとけ」
「ブラック宣言来た」
俺がぼそっと呟くと、
「ホワイトな強さなんてないって、前言ってたでしょ」
凛が即座に拾ってきた。
「ちゃんと覚えてるな」
「印象に残るから」
「名言扱いか」
「微妙なラインね」
そんな軽口を挟む間もなく、次の指示が飛ぶ。
「よし、まずは荷物置いて、すぐ軽く動くぞ」
「え、もうですか!?」
澪が驚愕の声を上げる。
「ウォーミングアップだ」
「ウォーミングアップの定義壊れてません!?」
「壊れてない」
即答だった。
「ほらほら、行くぞ」
急かされるように建物の中へ入る。
広く無機質な廊下に、全員の足音が大きく響いた。
「……なんかこう、重厚な秘密基地感ありますね」
澪が小声で漏らす。
「分かる」
「ちょっとテンション上がる!」
「あなた、さっきからずっと上がってるわよ」
凛が呆れたように息を吐く。
俺たちは、宿泊室へ案内された。
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外へ出ると、視界がぱっと開けた。広大な演習場だ。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
地面は特殊素材で覆われ、障害物が無造作に配置されている。遠くには巨大な結界発生装置が設置されていた。
「すご……」
澪も圧倒されたように目を丸くしている。
「ここでやるんですね……!」
「そうだ」
柳先輩が演習場の中央に立つ。
「――最初のメニューだ」
柳先輩がパンと手を叩いた。乾いた音が演習場に響き渡る。
「今日は『基礎の徹底』から入る」
「基礎……?」
澪が首を傾げた。
「魔導なしの戦闘を行う」
一拍。
場の時間が止まったかのように静まり返る。
「え?」
「は?」
澪、斗真が同時に困惑の声を上げた。
柳先輩は表情一つ変えずに続ける。
「魔導は禁止。純粋な身体能力、反応、間合い、判断。それだけで戦え」
「いやいやいや!」
澪がブンブンと手を振る。
「魔導競技ですよね!?」
「だからだ」
柳先輩の声から温度が消える。
「魔導に頼るな。身体がついてこなきゃ意味がない」
「ぐっ……正論……」
「あと単純に――面白そうだろ」
「面白さでやるな!」
「やるだろ? 普通」
「やらないです!」
「やる。強制だからな」
取り付く島もない。
「はいはい。各自、ペア組め」
「雑だな……」
一斉に動き出す周囲。
「じゃあ俺――」
と斗真が俺の方を見かけた、その瞬間。
「慧」
空間を切り裂くような、よく通る声が俺の名を呼んだ。
柳先輩だ。
「俺とやれ」
「……マジですか」
苦笑いを浮かべながら、一歩前に出る。
「おいおい、いきなりラスボス戦かよ」
斗真が呆れたように肩をすくめた。
「なに、基礎を見るだけだ」
和やかな笑顔だが、放たれている圧は全然優しくない。
「全力で来い。伊藤、データを取ってくれ。それと開始の合図も頼む」
「了解です」
俺は、地面を強く踏みしめる。靴底越しに伝わる独特の固い感触。
一歩。距離を測る。
視界のノイズが消え去り、風の音が遠のいていく。
残ったのは――目の前の男だけ。
柳先輩は自然体のまま構え、微動だにしない。
(やっぱり柳先輩……強いな)
「両者いいですね。――始め」
その合図と同時に、俺は地面を蹴った。
一歩目で一気に距離を詰める。
速さは殺さない。
柳先輩の右肩が、わずかに沈んだ。
――来る。
右から一直線に伸びてくるストレートが飛んできた。
(綺麗だな)
ミリ単位で首をずらす。頬をかすめる強い風圧。
そのまま懐へ滑り込む。
「っ――!」
最短距離、最小の軌道で肘を打ち込む。
手応えは重いが、完璧にガードされた。
「いいな」
柳先輩が笑う。
余裕を崩さない声。
直後、視界の下から膝が跳ね上がってきた。みぞおちを狙った直線的な軌道。
前腕で受け止めるが、骨の芯まで衝撃が響く。
(重っ)
単なる筋力じゃない。体重の乗せ方が完璧な“効かせる”打撃だ。
足を滑らせるようにして、一旦距離を取る。
呼吸は乱れていない。
柳先輩は追ってこず、構えたまま静かに俺を観察している。
(……崩れてないな)
一歩踏み込む。
視線だけを上に振り、大ぶりに上段へのフェイントを入れる。
柳先輩の瞳が、ほんのコンマ数秒だけ上へ泳いだ。
それで十分だ。
――速度と手数で押し切る。
「……っ!」
連撃。
腕、肘、膝、首、腹、脛……。
最小の振りで、最速を叩き込む。
防がれても構わない。リズムを狂わせ、主導権を強引に奪い取る。
柳先輩の足が止まった。横薙ぎの回し蹴りが空気を切り裂いて迫る。
それを低くかいくぐり、ゼロ距離まで肉薄――そのまま掌底を突き上げる。
「――っ!」
顎を打ち抜き、頭部を揺らす。
相手の体がわずかに浮いた瞬間、俺はピタリと動きを止めた。
これ以上踏み込む必要はない。
数秒の静寂。
演習場を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。
やがて、柳先輩が長く息を吐き出した。
「……そこまで」
すっと一歩下がる柳先輩。
その顔にあったのは悔しさではなく、心底楽しそうな笑みだった。
「……いやぁ、驚いた」
指先で眼鏡の位置を直す。その姿勢は少しも崩れていない。
「強いな、慧。どこかで習ってたのか?」
「……まあ」
少しだけ視線を泳がせ、ぽつりと答えた。
「おじいちゃんから」
その言葉に、柳先輩が興味深そうに目を細める。
「ほう。それは、また渋いな」
くすっと笑い、柳先輩は納得したように頷いた。
「ただの『優しいおじいちゃん』って感じじゃなさそうだ」
「……そうですね」
俺は苦笑するしかなかった。
脳裏に浮かぶのは、古びた店、軋む床板、機械油の匂い、そして散らかった工具類。
『踏み込みが甘い』
あの低い声。
『腰が浮いてる』
容赦のない言葉。
『その程度で人と戦うな』
一切の妥協も手減容もなかった。
でも――
「めちゃくちゃ厳しかったですけど――強かったですよ」
柳先輩はしばらく黙ったあと、ふっと目元を緩めた。
「……いい師匠だな」
その声には、確かな敬意が籠もっていた。
肩を軽くならしながら、柳先輩が言う。
「納得だ。その動き、無駄がなさすぎる」
「褒めてます?」
「もちろん」
一拍置いて、にやっと意地悪く笑った。
「ただ、ちょっと可愛げがないな」
「ひどいですね」
「ははは。でも、いいもん見せてもらったよ」
柳先輩は明るい笑顔に戻り、俺の肩を軽く叩いた。




