第37話 通常運転
クロは、スマホの画面を指でタップした。
ピッ。
『あ、クロさん、お久しぶりです~』
「――ククク。久しいな、カリン殿。我が名はクロ。深淵の淵より応答する」
『――実は、クロさんにお願いがあるんですけど』
「最後まで、セリフを聞いてくれないか?」
クロはわずかに頬を膨らませながら、トイレ――『魔導式:昇天トイレ』の図面と向き合っていた。
「それで、何の用だ? カリン殿」
『クロさんが慧から引き受けた「零式依頼」に、同行させてほしいです』
「……ん?」
クロは、自身の耳を疑った。
「カリン殿。今、何と言った?」
『? クロさんが引き受けた「零式依頼」をやりたいって』
「……いや、待て。なぜ私が依頼を引き受けたことを知っている?」
(あの場には、私と君主しかいなかったはずだ。なぜそれを……?)
『――慧の部屋に仕込んだ盗聴器で聞いたの』
「ああ、なるほど」
と、クロの疑問は即座に解消された。
……いや、納得していい場面ではない。
だが残念なことに、
二人とも『倫理観』が一般人より大幅にズレていた。
つまり、彼らにとっては、これが通常運転である。
「私は構わんが……なぜやりたい?」
『慧に「私、頑張ったよ!」って言って、ご褒美をもらうの』
「ほう? 君主に何をねだるつもりだ?」
『慧と一緒に寝るのと、指輪をもらうのと、慧にコスプレさせるの』
「ふむ……一緒に寝るのと指輪は分かった」
繰り返すが、この二人に倫理を求めるのは間違っている。
ちなみに、カリンが慧にしてきた被害を挙げると――
『スマホを破壊』
『深夜の寝顔盗撮』
『睡眠薬入りチョコでの襲撃未遂』
『ストロー間接キス未遂』
……そんな中でなお生きている慧は、もはや生存能力が高いとかいうレベルではない。
(流石、我の君主だ)
「ところで……『コスプレ』とは何だ?」
『うん、その『コスプレ』なんだけど――慧ってさ、顔は普通に整ってるでしょ。
慧のお母さん、お父さん譲りで』
「そうだな」
クロは知っている。
君主の血筋が『無駄に整っている』ことを。
『今は髪ボサボサだけど、ちゃんと整えたら普通にイケメンなの。
中学のときはね、私にストーカーされないようにって、わざとボサボサにしてたの』
「カリン殿用の擬態か」
『うん』
「効果は?」
『ないに決まってるでしょ?』
「そうであろうな」
秒で即答である。
『で、最近はもう面倒くさくなって、適当に整えて、でもやっぱりボサボサにしてるの』
「諦観と惰性のハイブリッドではないか、君主……」
クロは深く頷いた。
どこか誇らしげだった。
なぜかは分からない。
『だからね、その髪をちゃんと整えて――女装させるの』
「……は?」
世界が、一瞬だけ静止した。
時間が止まり、空気が固まり、クロの脳内で何かが『カチッ』と音を立ててズレた。
「カリン殿。今、何と言った?」
『女装させるの』
「もう一度」
『女装させるの』
「三度目は……いや、やはり一応聞こう」
『女装させるの』
「了解した。完全に理解した」
クロは静かに目を閉じた。
それは『禁忌』であり、『背徳』であり――『恩師への裏切りに等しい愚行』だ。
――君主。
すなわち、恩師の血を継ぐ存在。
その尊厳を、
女装という名の未知領域へ叩き込むなど――本来、断じて許される行為ではない。
ここは、カリンを止めるべきか……。
(……いや、待て。
君主の長髪、整った顔立ち、ボサボサを整えた場合のポテンシャル……。
もしや、適性があるのでは?)
――思考が、完全に裏切った。
(ふむ、見てみたいな)
欲望が、圧勝した。
あまりにも一方的だった。
倫理観は、戦う前から負けていた。
クロはゆっくりと目を開く。
「……本来であれば、断固拒否の禁忌案件だ」
『うん』
「だが――今回は特例とする」
『やった!』
軽い。
禁忌の価値が、羽毛並みに軽かった。
「零式依頼への同行、許可しよう。だが、条件が一つ」
『なに?』
「……慧のコスプレ記録を残せ。可能であれば高画質で」
『任せて。動画もいける』
「完璧だ」
クロは満足げに頷いた。
――その時、ふと、一つの顔が脳裏をよぎる。
「……そういえば」
『?』
「君主のクラスメイトであり、貴殿の狂信的信奉者がいたな」
『え、誰?』
「久保田凪という」
かつて、とある事情でクロの自宅に泊めたことがある少年である。
「折角だ。そいつも零式依頼に同行させよう」
『え、いいの?』
「問題ない。むしろ、私がそいつと話したいだけだ」
『理由薄っす』
正論である。
だがクロは気にしない。
『その子……男? 女?』
「男だ」
『ふぅ。良かった』
通話越しに、ほんの僅かな『安堵』のため息が聞こえた。
『いいよ、連れてきて。むしろ楽しそう』
「決まりだな」
クロは満足げに頷く。
なぜか計画が順調に進んでいる気がしている。
「では、その日まで準備を整えよカリン殿」
クロはゆっくりと立ち上がる。
その姿はまるで――世界の命運を握る魔導士。
……あるいは、ただの面白そうなことに乗っかった青年だ。
『了解でーす』
ピッ。
通話が切れて、静寂が訪れる。
クロはぽつりと呟いた。
「……君主よ」
一拍。
「本当にすまない――フハハハ!」
――なお、全く反省はしていない。
クロの顔は、満面の笑みに満ちていた。
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